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悪役令嬢を断罪した翌日、私の予定表は真っ白になった

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/07/31

「ヴェロニク・ベルナール。僕は今日、この場で君との婚約を解消する」


 ファビアン殿下の声が、王宮の大広間へ響いた。


 国王陛下と王妃陛下。

 王国の重臣たち。

 神殿の高位聖職者。


 そして、王太子殿下の婚約者であるヴェロニク・ベルナール公爵令嬢。


 大勢の人々が見守るなか、殿下は私の手を取っていた。


「聖女ノエミに対する、長期にわたる不当な干渉。僕とノエミの交流を妨げ、彼女の予定を意のままに操った行為を、これ以上見過ごすことはできない」


 ようやく終わるのだと思った。


 王都へ迎えられてからの1年間、ヴェロニク様は私のすることすべてに口を出した。


 療養院を訪ねたいと言えば、今週は認められないと言われた。


 孤児院の子どもたちから招かれれば、先に神殿と警備隊の確認を取るよう求められた。


 ファビアン殿下から贈られた首飾りも、私の手元へ届くまでに8日かかった。


 殿下と湖へ行く約束をしても、公務と重なっているという理由で取り消された。


 私は聖女なのに。


 人を助けるために選ばれたのに。


 好きな人と会う時間さえ、自分で決めることができなかった。


「ノエミは、君の所有物ではない」


 殿下の手に力がこもった。


「彼女には、自分の望む場所へ行き、自分の意思で人を助け、愛する者と会う権利がある」


 胸が熱くなった。

 殿下はいつも、私の味方だった。

 難しい規則や身分のことが分からずに戸惑う私へ、何度も言ってくださった。


 君は悪くない。


 ヴェロニクが難しく考えすぎているだけだ。

 聖女だからといって、すべてを背負う必要はない。

 君は好きなように生きていい。


 だから私は、殿下を愛した。


 聖女ではなく、ノエミという一人の女性として見てくださった、初めての人だったから。


「何か申し開きはあるか」


 ヴェロニク様は、しばらく殿下を見つめていた。


 淡い金色の髪にも、整った白い顔にも、動揺は見えなかった。


 いつもと同じだった。


 私がどれほど訴えても決して表情を変えず、静かな声で規則を告げる。


 その冷たさが、私は苦手だった。


「確認させていただいてもよろしいでしょうか」


 ヴェロニク様が言った。


「何をだ」


「殿下が婚約の継続を望まれないことについて、異議はございません」


 それは意外な言葉だった。


 婚約者の座を奪われたのに、ヴェロニク様は殿下へすがろうともしなかった。


「ただし、聖女様に対する不当な干渉とされた行為には、王妃府より委任された職務が含まれております」


「職務を利用して、ノエミを支配していたのだろう」


「そのように判断されたのであれば、今後の職務範囲を明確にしておく必要がございます」


 ヴェロニク様は王妃陛下へ向き直った。


「聖女様への訪問依頼、面会、公的行事、贈答品の確認、警備および移動の調整についても、私はすべて担当から外れるものと理解してよろしいでしょうか」


 王妃陛下は、すぐには答えなかった。


 代わりに、私を見た。


「ノエミ」


「はい」


「ベルナール公爵令嬢は、あなたの予定を一人で決定していたわけではありません」


 思いがけない言葉に、私は瞬いた。


「各所から届いた依頼を集め、神殿、警備隊、王宮医務局、書記官と協議し、実行可能な案を作成していました」


「ですが、いつも私の希望を退けました」


「希望どおりにできない場合があったことは事実でしょう」


 王妃陛下の声音は穏やかだった。


「あなたは今後、その調整を望まないのですね」


「望みません」


 すぐに答えた。


 ここで迷えば、また元に戻されてしまう。


「私に届いたお願いは、私が読みます」


 殿下が、私の手を握り直した。


 その温かさに勇気をもらい、私は続けた。


「どなたに会うかも、どこへ行くかも、私自身で決めたいのです」


「その結果、すべての依頼を受けることができず、あなた自身の名でお断りすることになってもですか」


「はい」


 誰かを助けたいという私の気持ちを、ヴェロニク様が勝手に選別するよりはいい。


「承知しました」


 王妃陛下はヴェロニク様へ顔を向けた。


「本人が明確に拒絶している以上、調査が終わるまで聖女公務の調整から外れてください。未決裁の案件は王妃府へ返却を」


「かしこまりました」


 ヴェロニク様は一礼した。


 それだけだった。


 私を恨む言葉も、殿下への未練もなかった。

 その態度が、最後まで自分は正しいと言っているように見えた。


「調査など必要ありません」


 ファビアン殿下が言った。


「ノエミがこれほど苦しんでいた。それが証拠です」


「ファビアン」


 国王陛下が、初めて殿下の名を呼んだ。


 低く静かな声だった。


 けれど殿下は気づかなかったのか、ヴェロニク様を見たまま言葉を続けた。


「ヴェロニク・ベルナール。お前を王宮より追放する。今後、王家に関わるいかなる公務に就くことも許さない」


「ファビアン」


 今度の声には、大広間の空気を止める力があった。


 殿下が振り返る。


「父上」


「今の言葉の意味を、分かって申したのか」


「無論です。私は王太子として、ノエミを害した者を――」


「そうではない」


 国王陛下は、玉座から殿下を見下ろした。


「ベルナール公爵令嬢を王妃府の職務に任じたのは誰だ」


 殿下の表情が止まった。


「父上と、母上です」


「王宮への出仕を認めたのは」


「父上です」


「ならば、お前は今、私が任じた者を、お前の一存で罷免し、将来にわたる公務就任まで禁じられると宣言したことになる」


「私は王太子です」


「王太子であれば、国王の任命を覆せるのか」


 大広間が静まり返った。


 殿下は答えなかった。


「お前に認めたのは、王太子宮を差配する権限だ」


 国王陛下は、言葉を区切った。


「王宮全体の人事権でも、臣下の罪を認定する司法権でもない」


「ですが、ノエミは実際に傷つけられました」


「訴えがあったことと、罪が確定したことは同じではない」


「私は、愛する者を守ろうとしただけです」


「愛情は、権限を拡大する理由にはならぬ」


 殿下の手から力が抜けた。


 それでも、私の手を離しはしなかった。


「お前が今言ったことは、単なる越権ではない」


 国王陛下の視線が、殿下を貫いた。


「それは、国王の権に異を唱えることになるということを、分かって言っておらぬだろう」


 問いではなかった。


 殿下は、何も答えられなかった。


「自らの婚約を継続しないという意思を示すことは認める」


 国王陛下は告げた。


「だが、与えられた権限と国王の権限を区別できぬ者に、これまでと同じ裁量を預けることはできない」


「父上」


「本刻をもって、ファビアンの王太子としての職務および権限行使を一時保留とする」


 私は、殿下の横顔を見上げた。


 殿下が私を選んでくださった夜だった。

 ようやく2人の恋が認められるはずだった。


 なのにその瞬間、殿下の王太子としての立場まで揺らいでいた。


「継承者としての適性と、権限への理解を改めて審査する」


「私は、ノエミのために――」


「誰かのためであれば、持たぬ権限を使ってよいのか」


 殿下は黙った。


 私も、何も言えなかった。


 ヴェロニク様は最後まで表情を変えなかった。


「ベルナール公爵令嬢」


 国王陛下が呼ぶ。


「あなたに対する罪状および処分は、現時点では何一つ確定していない。職務上の行為については、正式に調査する」


「御意にございます」


「王宮からの追放も、公務就任の禁止も認めない」


「承知いたしました」


 ヴェロニク様は一礼したあと、私を見た。


「聖女様」


 私は身構えた。


「未決裁の依頼書と、明日以降の予定案は王妃府へ返却いたします」


「分かりました」


「今後のご予定は、聖女様ご自身のご判断によって確定されます」


 それは、私が望んだことだった。


「はい」


 私は答えた。


「私のことは、私が決めます」


 ヴェロニク様は、もう一度だけ頭を下げた。


「承知いたしました」


 その言葉の意味を、私はまだ知らなかった。




 翌朝、私の予定表は真っ白だった。


「今日の予定は?」


 寝室へ入ってきたリゼットに尋ねると、彼女は困った顔で白い紙を差し出した。


 朝食の時間さえ書かれていない。


「こちらには、何も」


「何もないの?」


 昨日まで、予定表には朝から夜まで細かな文字が並んでいた。


 起床。

 朝食。

 祈り。

 面会。

 移動。

 昼食。

 治癒。

 休憩。


 私の1日は、いつもヴェロニク様の決めた文字で埋まっていた。


「書記官に確認して」


「すでにお待ちです」


 リゼットが扉を開けると、聖女付き書記官のシルヴァンが入ってきた。


 その腕には、書類の束が抱えられている。


「今日の予定が届いていないのです」


 私が言うと、シルヴァンは予定表を見た。


「予定がないのではございません」


「では、どうして真っ白なのですか」


「聖女様が、どの依頼をお受けになるか、まだご決定になっていないためです」


 シルヴァンは机へ書類を置いた。


「本日中に回答が必要な依頼は14件ございます」


 療養院、神殿、孤児院、北部から到着した使節。


 どの依頼にも、私が出席すべき理由が添えられていた。


「全部、お受けします」


「本日の依頼をすべてですか」


「困っている方がいるのですから」


「同日にすべて伺うことは不可能です」


 シルヴァンは、移動時間と所要時間をまとめた紙を差し出した。


「では、どれを優先すればよいのですか」


「それを、聖女様にお決めいただくための資料です」


「あなたは書記官でしょう」


「決定された予定を記録し、関係各所へ通知することはできます」


 シルヴァンは静かに答えた。


「どなたの依頼を断るかを決める権限は、私にはございません」


 扉が開いた。


 王妃陛下が、侍女長を伴って入ってきた。


「おはようございます、ノエミ」


 私は慌てて立ち上がった。


「王妃陛下」


「座ったままで構いません」


 王妃陛下は机の書類を一瞥した。


「王妃府から、警備、神殿、医務局の担当者をつけます。依頼の内容、必要時間、政治的な影響についても説明させましょう」


「ありがとうございます」


「ただし、最終的な判断はあなたがなさい」


 私は白い予定表を見た。


「王妃陛下が決めてくださるのではないのですか」


「あなたは昨夜、ご自身のことはご自身で決めると、国王の前で宣言しました」


 責める口調ではなかった。

 ただ、事実を確認する声だった。


「その権限を望んだ以上、あなたにお返しします」


 権限を返す。


 まるで、これまで私が持っていなかったものを、本来の持ち主へ戻すような言い方だった。


「難しく考える必要はないよ」


 聞き慣れた声がした。

 ファビアン殿下が、開いたままの扉の向こうに立っていた。


 昨日までなら、王太子殿下がお越しになったと侍従が先触れを出した。


 今日は一人だった。


 胸元には、王太子の公務で使用していた印章がない。


「ファビアン」


 王妃陛下の表情がわずかに硬くなった。


「午前中は自室で待機するよう、陛下から命じられているはずです」


「母上。命じられたのは、王太子としての決裁を行わないことです」


「都合よく解釈しないように」


「午後には父上のところへ伺います」


 殿下は私へ笑いかけた。


「それまで、湖へ行かないか」


「湖へ?」


「昨日、約束しただろう」


 そうだった。


 ヴェロニク様から自由になったら、2人で湖へ行こう。


 誰にも急かされず、市場を歩き、好きなものを食べよう。


 何度も話していた。


「ですが、依頼が」


「今日中に決めればいいのだろう?」


 殿下は白い予定表を手に取った。


「午前中は空いている」


 空いている。


 その言葉に、胸が弾んだ。


 初めてだった。


 誰にも決められていない時間。


 ヴェロニク様の文字が、1つもない時間。


「午前11時までには戻ります」


 私が王妃陛下へ言うと、陛下は少しだけ目を伏せた。


「ご自身で決めたのであれば、止めません」


「ありがとうございます」


「ただし、本日正午が回答期限の依頼が4件あります」


 私はシルヴァンを見た。


「戻ってから決めます」


「承知しました」


 シルヴァンは、白い予定表へ初めて文字を書いた。


 午前8時30分。


 ファビアン殿下と外出。


 午前11時帰還予定。


 それを見た瞬間、私は本当に自由になったのだと思った。


 湖へ向かう途中、殿下は市場へ寄ってくださった。

 私が王都へ来たばかりの頃、珍しそうに眺めていた蜂蜜菓子の店を覚えていた。


「これが好きだっただろう?」


「覚えていてくださったのですか」


「君のことなら、何でも覚えている」


 殿下は焼きたての菓子を2つ買い、1つを私へ渡した。


 まだ温かかった。


 蜂蜜の甘さが口いっぱいに広がる。


 ヴェロニク様がいれば、人前で食べ歩くのは聖女としてふさわしくないと言ったかもしれない。


 市場へ出るには警備計画が必要だと、前日までに申請するよう求めたかもしれない。


 けれど今日は、殿下と2人で笑いながら歩くことができた。


「ノエミ」


 湖畔へ着くと、殿下は私の名を呼んだ。


 聖女ではなく。


 ただ、ノエミと。


「はい」


「昨日は、怖くなかったか」


 殿下は、王太子としての権限を止められた。


 本当なら、私が慰めなければならなかったのかもしれない。


 けれど殿下は、先に私の心配をしてくださった。


「少しだけ」


「もう大丈夫だ」


 殿下の指が、私の頬に触れた。


「僕が君を守る」


「ですが、殿下は」


「王太子でなくなったわけではない」


 殿下は笑った。


「父上は、少し慎重になっているだけだ」


「本当に?」


「すぐに戻る」


 その自信に満ちた声を聞くと、安心できた。


「君といる時だけ、僕は王太子でなくていい」


 殿下は言った。


「君も、僕の前では聖女でなくていい」


 その言葉が、私はずっと好きだった。


 王都では、誰もが私の力を求めた。


 治してほしい。

 祈ってほしい。

 祝福してほしい。

 正しい言葉を話してほしい。

 聖女らしく笑ってほしい。


 殿下だけが、何もしなくてよいと言ってくださった。


「私も、殿下といる時が一番好きです」


 私が答えると、殿下は嬉しそうに目を細めた。


 湖面が日の光を反射していた。


 ヴェロニク様はいない。


 予定を変えるよう告げる者もいない。


 この時間が、私たちの恋の始まりなのだと思った。




 王宮へ戻ったのは、午後1時を過ぎてからだった。


「少しくらい問題ない」


 殿下はそう言った。


 湖畔で話し込んでいるうちに、時間を忘れたのだ。


 私も、午前11時を過ぎていることに気づかなかった。


 部屋へ戻ると、シルヴァンが扉の前で待っていた。


「申し訳ありません」


 私は言った。


「予定より遅くなってしまいました」


「ご無事で何よりです」


 シルヴァンの顔には、責める色はなかった。


 そのことに安心しかけた。


「正午が回答期限だった4件については、先方へ期限内の回答が難しい旨をお伝えしました」


「待っていただけますか」


「療養院は、別の治癒術師へ依頼することになりました」


「私が行くつもりだったのに」


「回答がございませんでしたので」


「孤児院は?」


「創立祭へのご出席は見送られます。招待客と警備の手配を本日中に確定する必要があるとのことです」


「明日、お返事をすれば」


「すでに進行を変更したと伺っております」


「でも、私は行きたかったのです」


「そのお返事を、正午までにお待ちでした」


 シルヴァンは、事実だけを答えた。


「ノエミは悪くない」


 殿下が言った。


「外出が少し長引いただけだ」


「ですが」


「療養院には別の治癒術師が行く。孤児院の祭りも中止になるわけではない」


 確かに、そのとおりだった。


 私が行かなくても、世界は終わらない。


「予定を作る側が、余裕を持たせておくべきだったのだ」


 殿下の言葉に、私は頷きかけた。


 けれど予定を作るのは、今日から私だった。


 白い予定表には、午前8時30分から午前11時までの外出だけが書かれている。


 その終了時刻には、シルヴァンの細い線が引かれていた。


 横に、午後1時12分帰還と書き加えられている。




 数日後、南療養院から正式な治癒要請が届いた。


 候補者は9名。


「9名全員を治療します」


 私は言った。


「医務局の見立てでは、1日に対応可能なのは4名までです」


 シルヴァンが資料を開く。


「5名目以降は、治癒の精度が著しく下がる可能性があります。また4名を治療した場合でも、翌日の神殿祭祀には出席できません」


「祭祀を翌週へ移すことは?」


「王国全体で定められた祭日ですので、日付は動かせません」


「では、療養院を翌日に」


「患者のうち2名が手術を予定しています。聖女様の治癒を受ける場合は、手術を延期する必要があります」


「どうすればよいのですか」


 思わず声が強くなった。


「誰かが、正しい予定を教えてください」


 シルヴァンは答えなかった。


 代わりに、同席していた王妃陛下が9名の資料を机へ広げた。


「どちらを選んでも、残るものがあります」


「王妃陛下」


「療養院を優先すれば、4名を治癒できます。神殿の祭祀を優先すれば、王国全体の祈りを予定どおり執り行えます」


「どちらも大切です」


「ええ」


「なら、どちらも」


「あなたの時間と聖力には限りがあります」


 王妃陛下は患者の資料を私へ向けた。


 名前。

 年齢。

 病状。

 ほかの治療方法。

 回復の見込み。

 家族の有無。


 紙の上に、それぞれの人生が並んでいた。


「すべてを選ぶことはできません」


 私は9名の名前を見つめた。


「予定を決めるということは、行く場所を決めることだと思っていました」


「行かない場所も、同時に決めることになります」


 王妃陛下が言った。


「だから、ヴェロニク様は私の希望を断っていたのですか」


「彼女がすべて正しかったかどうかは、調査中です」


 王妃陛下は、すぐに肯定しなかった。


「しかし、何かを選べば、何かを選ばないことになる。それは誰が担当しても変わりません」


 私は、9名の資料を最初から読み直した。


 南療養院で、私は4名を治癒した。


 残る5名には、医師から今後の治療方針が説明された。


 私も同席した。


「今回は、私の治癒を行うことができません」


 自分の口で伝えた。


 泣いた家族もいた。

 静かに頭を下げた人もいた。

 責める人はいなかった。


 それが、余計につらかった。

 私は人を助けるために聖女になった。

 けれど聖女であっても、誰を助けるのかを選ばなければならない。


 選ばなかった相手が、いなくなるわけではない。


 ヴェロニク様は、これを何度繰り返したのだろう。


 私が知らないところで、誰に断り、誰へ説明していたのだろう。


 王宮へ戻ると、国王陛下から呼び出しがあった。


 謁見室には王妃陛下とファビアン殿下もいた。


 殿下とは、療養院へ行く前日に会ったきりだった。


 王太子としての権限を保留されてから、殿下には毎日、国王陛下または宰相との面談が課されていた。


「ベルナール公爵令嬢の職務について、暫定調査の結果が出た」


 国王陛下が言った。


 胸が縮む。


「私情に基づく不当な予定操作は、現時点では確認されていない」


 私は膝の上で手を握った。


「聖女の訪問先、面会、贈答、公務日程に関する判断は、王妃府より委任された権限の範囲内だった」


「では、私は」


「あなたが窮屈さを感じていたことまで、虚偽だと言うつもりはありません」


 王妃陛下が続けた。


「ヴェロニクの説明が十分だったとも考えていません」


 陛下は、机の上の記録へ目を落とした。


「ただし、彼女一人に、予定調整、説明、拒否、苦情対応を集中させた王妃府の配置にも問題がありました」


「母上が、謝ることではありません」


 ファビアン殿下が言った。


「ヴェロニクが、ノエミへもっと優しく説明すればよかっただけです」


「あなたは、まだそのように考えるのですね」


 王妃陛下の声が冷えた。


「ヴェロニクは、あなたとノエミが会う時間も調整していました」


 殿下が眉を寄せた。


「妨げていたのではなく?」


「あなたが王太子としての公務を終えたあと、ノエミにも無理のない形で会える時間を確保していたのです」


 王妃陛下は記録を開いた。


「湖への外出を断った日のうち、2日は外国使節の滞在中。1日は警備隊の配置不足。3日はあなた自身の公務遅延によるものです」


「それでも、僕たちは会えなかった」


「別の日程案が提出されています」


 私にも覚えがあった。


 ヴェロニク様から渡された、細かな文字の書類。


 私は最初の数行だけ読んで、机へ戻していた。


 難しい説明ばかりで、結局は駄目だと言われているようにしか思えなかった。


「贈り物が届くまでに時間がかかったのも?」


 私が尋ねた。


「贈り主、代金、宝石商、政治的な意図を確認していました」


「殿下からの贈り物です」


「王太子から聖女への高価な贈り物です」


 王妃陛下は言った。


「私的な愛情だけでは済まない意味を持ちます」


 殿下は黙った。


 私も、何も言えなかった。


「ベルナール公爵令嬢については、正式な調査を継続する」


 国王陛下が言った。


「しかし、本人はすでに王都を離れた」


「離れた?」


 思わず顔を上げた。


「ベルナール公爵が、娘を領地へ引き上げた」


「調査が終わるまでではないのですか」


「公爵は、今後ヴェロニクを王宮へ出仕させる意思はないと通告している」


 殿下が立ち上がった。


「職務上の問題がなかったのなら、戻せばいいではありませんか」


「戻す?」


 国王陛下が殿下を見た。


「誤解が解けたのです。ノエミも、今ならヴェロニクの仕事を理解できます」


 殿下は私へ視線を向けた。


「そうだろう?」


 私は答えられなかった。


 戻ってきてほしいと思った。

 予定を組んでほしい。

 依頼を整理し、誰に何と返事をすればよいのか教えてほしい。


 けれど、それはヴェロニク様が戻りたい理由にはならない。


「あの方は、戻りたいとおっしゃっているのですか」


 私が尋ねると、殿下は口を閉じた。


 国王陛下が言った。


「外す権限があると思ったからといって、戻すと言えば戻ってくるわけではない」


「父上」


「王命を用いれば、身体を王宮へ連れ戻すことはできるだろう」


 国王陛下の声は静かだった。


「だが、信頼まで戻すことはできぬ」


 殿下は、もう一度座った。


「ベルナール公爵は、職務上の潔白が認められることと、娘を再び王宮へ差し出すことは別問題だと述べている」


 それは当然だと思った。


 私はあの夜まで、ヴェロニク様を悪意のある令嬢だと思っていた。


 婚約者の立場を利用して、私たちを引き離す女性。


 そのように大勢の前で告げた。


 調査で違ったと分かれば、元の場所へ戻ってもらえる。

 そんなふうに考える方が、おかしかった。


 その夜、ファビアン殿下が私の部屋を訪ねてきた。


「明日、離宮へ行こう」


 殿下は、以前と同じ優しい笑顔を浮かべた。


「2人だけで過ごせるように、部屋を用意させる」


「明日は療養院へ参ります」


「また療養院か」


 殿下の笑顔が曇った。


「先日も行っただろう」


「別の療養院です」


「日程を変えればいい」


「もう先方へ伺うと回答しました」


「君が決めた予定だろう?」


「はい」


「なら、君が変えられる」


 その言葉は正しかった。

 私が決めたのだから、変更することもできる。


「変更すれば、療養院へ説明しなければなりません」


「体調不良とでも言えばいい」


「元気なのに?」


「聖女には休息も必要だ」


「殿下と離宮へ行くために、患者へ嘘をつくのですか」


「そんな言い方をするな」


 殿下の声に、苛立ちが混じった。


「僕は今、王太子としての立場まで疑われている」


「分かっています」


「君といる時くらい、すべてを忘れたい」


 胸が痛んだ。


 殿下が苦しんでいることは分かっていた。

 こんな時こそ、私がそばにいるべきなのかもしれない。


「ノエミ」


 殿下が私の手を取った。


「僕より、療養院の者たちの方が大切なのか」


 以前なら、その言葉を嬉しいと思った。

 私をそれほど求めてくださるのだと。

 けれど今は、違って聞こえた。


「比べなければならないのですか」


「僕は、君に会いたいだけだ」


「私も、殿下にお会いしたいです」


「なら」


「ですが、会うために、ほかの方との約束を破りたくありません」


 殿下の指が離れた。


「最近の君は、ヴェロニクに似てきた」


 その言葉に、胸を刺された。


「予定ばかり気にして、何も自由に決められない」


「私は、自分で決めています」


「僕を断ることが?」


「療養院へ行くことをです」


 殿下は、私を見つめた。


「自由とは、殿下のお誘いを断らないことですか」


「そうは言っていない」


「私が殿下を選ばなかった時だけ、自由でなくなるのですか」


「ノエミ」


「私は、殿下を愛しています」


 言葉にすると、涙が出そうになった。


 それでも、続けた。


「けれど、私を愛してくださるなら、私が守りたい約束まで邪魔者にしないでください」


「僕は、君に無理をさせたくないだけだ」


「無理かどうかも、私が決めます」


 それは、断罪の夜に言った言葉と同じだった。


 あの時は、ヴェロニク様から自由になるための言葉だった。


 今は、殿下から自分の予定を守るために言っている。


「明日は、離宮へは参りません」


 殿下はしばらく黙っていた。


「分かった」


 その声は冷たかった。


 扉が閉じたあと、私は一人で泣いた。


 嫌いになれたなら、楽だった。


 殿下が私を愛していなかったのなら、捨てることもできた。


 けれど殿下は、私を愛していた。

 私も、殿下を愛していた。


 ただ私たちは、愛している相手の時間を、誰が支えていたのか知らなかった。




 それから1か月ほど経った頃、私は王妃府へ書類を届けた帰りに、廊下の先でファビアン殿下を見かけた。


 殿下の隣には、国王陛下付きの法務官がいた。


「では、その会議を明後日へ移せ」


 殿下が言った。


「明日は、北部使節との面談を優先したい」


「殿下に認められているのは、日程変更の提案までです」


 法務官が答えた。


「決定権は、会議を主管する宰相府にございます」


 殿下は、すぐに言い返そうとした。


 唇がわずかに開いた。


 けれど、言葉が出る前に口を閉じた。


「……では、明後日への変更を提案する」


 殿下は言い直した。


「出席者への影響もまとめて、宰相府へ提出してくれ」


「承知いたしました」


 殿下は、私に気づかなかった。

 私は声をかけず、その場を離れた。


 以前の殿下なら、なぜ自分が決められないのかと尋ねただろう。


 今の殿下が権限の違いを理解しているのか、ただ言われたとおりにしているだけなのかは、私には分からなかった。


 それでも、言葉を飲み込んだことだけは分かった。




 1か月後、ベルナール公爵領の療養院から正式な訪問依頼が届いた。


 洪水のあと、領内で負傷した者のうち、通常の治療では回復が難しい患者が5名いるという。


 依頼書には、患者の状態、治療の緊急度、移動時間、必要と見込まれる聖力、治癒を行わなかった場合の治療方針まで記されていた。


 最後に、作成責任者の署名があった。


 ヴェロニク・ベルナール。


「お受けになりますか」


 シルヴァンが尋ねた。


 私は自分の予定表を見た。


 同じ週に、神殿の祭祀がある。

 翌日は、王立学院での祝福式。


 ベルナール領まで馬車で半日。


 5名全員を治癒すれば、帰還後に2日の休息が必要になる。


「医務局の見立てでは、何名まで対応できますか」


「3名までです」


 以前の私なら、なぜ人数を制限するのかと腹を立てていた。


 今は、3名を選ぶために必要な情報が、すべて資料へ記されていることが分かった。


「祭祀の代理は可能ですか」


「高位神官が務められます」


「学院の祝福式は?」


「日程変更が可能です。ただし、少なくとも10日前までに通知が必要です」


「ベルナール領には、いつまでに回答を?」


「5日後です」


 私は、資料を最後まで読んだ。


「ベルナール領へ伺います」


「治癒対象者については?」


「医務局の意見を添えて、先方と協議します。学院には、今日中に日程変更を打診してください。神殿の祭祀は代理をお願いします」


「承知しました」


 シルヴァンが予定表へ書き込む。

 私の言葉が、私の予定になった。



 ベルナール公爵領の療養院で、ヴェロニク様と再会した。


 王宮で見た時と同じ、整った姿だった。

 けれど王太子の婚約者として身につけていた豪華な宝石はない。

 濃紺の簡素な衣服で、数名の官吏へ指示を出していた。


「聖女様」


 私に気づくと、ヴェロニク様は正式な礼をした。


「遠路お越しいただき、感謝申し上げます」


「お久しぶりです」


「はい」


 それ以上、何を言えばよいか分からなかった。


 ヴェロニク様は患者の資料を差し出した。


「医務局との協議結果に従い、治癒をお願いする患者は3名です」


「残る2名は?」


「外科治療と薬物治療を継続します。ご家族への説明も済ませております」


 私は資料を受け取った。

 以前と同じだった。


 この人は、私に決定を押しつけていたのではない。

 決めるために必要なものを、私へ渡していた。


 治癒を終えたあと、ヴェロニク様へ時間をいただいた。


「謝らせてください」


 私は頭を下げた。


「私は、あなたが私を閉じ込めていると思っていました」


「そう感じられたことまで、否定するつもりはございません」


「ですが、あなたを悪意のある方だと決めつけました」


「私も、説明を諦めておりました」


 思いがけず顔を上げた。


 ヴェロニク様は、療養院の窓の外を見ていた。


「聖女様がご納得になっていなくとも、予定どおり1日が終わればよいと考えていました」


「それは」


「職務として予定を成立させることと、聖女様に理解していただくことを、別の問題として扱っていたのです」


「では、あなたにも悪いところがあったと?」


「改善すべき点はございました」


 ヴェロニク様は、静かに認めた。


「しかし、職務を私情で歪めたことはございません」


「はい」


 そこは、曖昧にしてはいけなかった。


「分かっています」


 私は指を握った。


「王宮へ戻るおつもりは、本当にないのですか」


「ございません」


 迷いのない答えだった。


「名誉が回復しても?」


「名誉の回復は求めます」


 ヴェロニク様は言った。


「ですが、王宮へ戻ることとは別です」


「私が、また予定を組んでいただきたいとお願いしても?」


 恥ずかしかった。


 それでも、正直に言った。


「お願いしたいと思うことがあります」


「そうでしょうね」


 ヴェロニク様の口元が、ほんの少し緩んだ。


「ですが、私が戻れば、聖女様はまた私を嫌うでしょう」


「今度は、説明を読みます」


 ヴェロニク様は、しばらく私を見ていた。


「それでも、望まない依頼を断られれば、腹が立つものです」


「はい」


 私も、少しだけ笑った。


「きっと、腹が立ちます」


「では、ご自身でお決めくださいませ」


 それは、突き放す言葉ではなかった。

 私が自分で立つことを認める言葉だった。


「ヴェロニク様は、こちらで何をなさっているのですか」


「領内療養院への予算配分、冬季の食糧輸送、洪水被害地域の復旧計画を担当しております」


「お忙しいのですね」


「王宮にいた頃よりは、仕事を分けております」


 ヴェロニク様は、廊下の先で待つ官吏たちを見た。


「父から、自分で処理する方が早いという理由で、すべてを抱えることを禁じられました」


「公爵様が?」


「娘を王宮へ戻さないと決めた父ですから」


 その言葉には、わずかな温かさがあった。


「どうか、お元気で」


 私が言うと、ヴェロニク様は礼をした。


「聖女様も」


 私たちは、友人にはならなかった。


 元の関係にも戻らなかった。


 けれど、それでよいのだと思った。



 王都へ戻ってから数日後、ファビアン殿下から面会の申し入れが届いた。


 以前のように、突然部屋へ来ることはなかった。


 シルヴァンが差し出した書面には、希望日時が3つ記されていた。


「殿下のご予定です」


「王太子としての権限は?」


「依然として保留されています」


 殿下は、国王陛下の監督下で公務を学び直していた。


 王太子宮の人事権も、独自の決裁権も戻っていない。


 それでも、会いたいと思った。


「明日の午後でお願いします」


「承知しました」


 殿下は、約束の時間より少し早く来た。


「ノエミ」


「ファビアン殿下」


 以前なら、すぐに手を取っていた。


 今日は、私が席を勧めるまで立っていた。


「ベルナール領へ行ったと聞いた」


「はい」


「ヴェロニクに会ったのか」


「会いました」


「戻るつもりはないと?」


「ありません」


 殿下は目を伏せた。


「僕は、戻せば済むと思っていた」


 正直な言葉だった。


「彼女を外したのも僕だ。なら、僕が戻すと言えば戻るものだと」


「国王陛下に叱られたのですか」


「何度も」


 殿下は苦笑した。


「王太子の権限は、僕の望みを通すための力ではないと言われた」


「はい」


「分かっているつもりだった」


「私も、自分の予定を自分で決めるという意味を、分かっているつもりでした」


 殿下が顔を上げた。


「君といる時だけ、王太子でなくていいと言ったことを覚えているか」


「覚えています」


「僕は、あれを優しい言葉だと思っていた」


 私も、そう思っていた。


「今は」


 殿下は一度、言葉を止めた。


「君に、僕の責任まで忘れさせようとしていたのではないかと思っている」


 完成した答えではなかった。


 それでも、以前の殿下なら口にしなかった言葉だった。


「君にも聖女であることを忘れて、いつでも僕を選んでほしかった」


「私は、殿下の前でノエミでいられることが嬉しかったのです」


「それは、これからも変えたくない」


 殿下の声が少し震えた。


「ただ、聖女である君まで消してしまいたくない」


 私は目を伏せた。


 今でも好きだった。

 湖畔で私の名を呼んでくれた声も。

 蜂蜜菓子を覚えていてくれたことも。

 誰より早く、私の寂しさに気づいてくれたことも。


 全部、嘘ではなかった。


「来週の午後、僕の公務が終わる予定だ」


 殿下は1枚の紙を取り出した。


「まだ王太子としての権限は戻っていない。だが、父上の補佐として会議へ出ることを許された」


 紙には、殿下の1週間の予定が書かれていた。


 会議。

 法務官との面談。

 王太子宮の権限規程に関する講義。

 国王陛下への報告。


「金曜日の午後4時以降なら空いている」


 殿下は私を見た。


「君の予定が空いているなら、湖へ行かないか」


 私はすぐには答えなかった。


 自分の予定表を開く。


 金曜日の午前は神殿。

 午後1時に王立学院との打ち合わせ。

 午後3時まで。

 翌朝は公務なし。


 湖までの移動時間を含めても、午後4時なら間に合う。


「午後6時には戻ります」


「分かった」


「市場にも寄りたいです」


「蜂蜜菓子か?」


「はい」


 殿下が笑った。


 私も笑った。


 予定表へ、自分の手で書き込む。


 午後4時。

 ファビアンと湖畔を散策。


 午後6時。

 帰還。


 真っ白だった予定表に、私はファビアンの名前を書いた。


 空いていたからではない。


 お会いするために、2人で時間を作ったのだ。

今回は、いつもの断罪される側ではなく、断罪する側の視点で書いてみました。


自分のことは自分で決めたい。


けれど、自由に選べるということは、選ばなかった相手や、引き受けなかった約束にも向き合うことなのだと思います。


予定表が真っ白になった時、そこに何を書くのか。


そして、誰かのために時間を空けるのではなく、会いたい相手のために時間を作ること。


そんな話になりました。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
不倫浮気カップルが自分達に都合の良い存在を手放したことを後悔しつつ自分達の成長に酔ってるお話にしか読めませんでした。 このお話内では酷使された令嬢に対してきちんと名誉回復されていないし感謝も謝罪も中途…
なんとなく公爵視点も読みたいですなぁ 激おこなパパがバッサバッサを切っているところ・・
自由には責任が伴うことを突きつけられて、実感して、やっと2人とも(精神的に)大人になり始めたのかなーと。 ファビアンもノエミも、自分のことだけ考えていられる子どもだったから。 ヴェロニクを見守ってい…
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