第二十八節
明日より4日ほどお休みをいただきます。
次回更新は9/18です。
9月12日。
夜明けに南東から吹いていた風は弱かった。
伊勢湾から運ばれた湿気は、濃尾平野の低い土地に残っている。
名古屋の空には薄い雲が広がっていた。
日差しは雲を透かし、白い光となって市街へ落ちた。
午前九時を過ぎる頃には、道路も建物の壁も熱を帯びていた。
遠くの山並みは霞んでいる。
中村公園の木々も、ほとんど揺れていなかった。
名古屋市中村スポーツセンター。
高窓から入った朝の光が、観覧席の上段に落ちていた。
照明の列が、ワックスを引いた板張りの床に細長く映っている。
赤と白の審判旗。
得点板。
正面には日の丸。
空調の低い音が続いている。
やがて、場内放送のスピーカーに電気が入った。
短い雑音が、体育館を一周した。
『只今より、第38回 全日本女子剣道選手権大会を開会いたします』
開会の宣言と共に拍手が降り注いだ。
二割。
恵は面を被った。
慣れた手つきで紐を結んでいく。
あの子。
ユーリちゃん。
才能の塊。
そう。
天から恩恵を受けたような、不思議な子。
遼太郎と同じ匂いがする子。
きっと、遼太郎とずっと共にいてくれる。
自分の代わりに守っていってくれる。
そう感じていた。
悪い気はしなかった。
そんな子まで練習に付き合わせた。
ユーリが繰り出す突き。
避けられたのは二割だった。
面越しに、正面の日の丸が見えた。
その下に大きく掲げられたトーナメント表。
名前があった。
有栖川 志麻。
順調に勝ち進めば、準々決勝でぶつかる。
紐を結ぶ指が震える。
結局。
ユーリは速度でしか、志麻に届かなかった。
春先の突き。
いや、高校最後の春に受けた突き。
あの精度、技量で繰り出されたら。
一割程度しか避けられないかもしれない。
勝機は一割。
避けて。
捌いて。
真正面から。
上段で叩き斬る。
それしか勝ち筋はない。
面を付け終わった。
観客席を見上げた。
家族が座る一角。
『恵先生頑張れ』
大きな横断幕があった。
道場の皆が作ってくれた。
富田と栞が、両端を持って掲げている。
その隣には。
白髪。
長い髭。
まさか、館長が来るとは思わなかった。
館長は背広姿だった。
ネクタイは無く、着崩していた。
懐かしい風体。
『おんどりゃ、ガキのくせになにヤニ吸っとんじゃボケカス共が』
『その腐った性根、ワシが叩き直したる』
駅前で志麻と怒鳴られた時の声が蘇る。
風貌からしてヤクザだと思っていた。
今では立派な好々爺。
爺。
確か、まだ五十代中盤だったはず。
老けたなぁ、クソジジィ。
ん?
…なんやあれ?
横断幕の下。
文字が見えた。
大きな団扇に描かれていた。
二つ並んでいる。
『焼』
『肉』
団扇の影から愛息の顔と銀髪が見えた。
ぶふっ。
笑いが出てしまった。
アホ。
けど、おもろいやんけ。
…ちょっとだけ肩の力抜けたやろか。
後ろを振り返った。
剛三とスタシアがいた。
二人とも手にペットボトルを握りしめている。
剛三と目が合った。
その目は泳いでいる。
二人が寄って来た。
「恵、大丈夫か」
「大丈夫や。ほんまビビりやなぁ、剛三」
「せやけど…」
剛三が眉をハの字にする。
手も微かに震えている。
「馬鹿社長、男でしょう? どっしり構えなさい」
スタシアがぴしゃりと言った。
「スタシアさん、わざわざ名古屋まですいません」
恵が頭を下げる。
「気にしないでください。ただ…プレッシャーをかける気はありませんが」
スタシアが目尻に皺を寄せた。
「あの女をぶちのめしてください。それだけで十分です」
声が強い。
目も据わっている。
そうや。
この人は志麻の被害者やったな。
飲みの席で散々玩具にされたと愚痴っていた。
「恵先生」
渋い声がした。
館長が二人の後ろにいた。
いつの間に。
「館長もわざわざお越しいただいてすいません」
「わしのことは気にせんでええ」
館長はそう言って剛三に目を向けた。
「おお、剛三君。そっちでうちの神社のパソコン見てくれるそうじゃな。助かるわ」
「いえいえ、商店会のついでですわ。それに礼は富田に言ってやってください。富田に仕切らせてますので」
剛三は観客席を見上げた。
「そうか、そうさせてもらうわ。で、悪いんじゃが、恵先生と話したいことがある。そこの別嬪さん連れて戻ってくれんか?」
話したいこと?
「分かりました。恵、水ここ置いとくからちゃんと飲むんやぞ?」
「脱水症状って危ないんですから、気を付けてくださいね」
剛三とスタシアが口々に言いながらペットボトルを置いていく。
水かぁ。
飲み過ぎると避けれんようになるのが嫌やなぁ。
悩ましかった。
剛三とスタシアは観客席へ戻っていった。
「さて」
館長が首をぽきりと鳴らした。
「恵、ワシから一個注文がある」
昔の声だった。
鉄拳制裁を食らっていたころの声だった。
あの頃に戻った気がした。
「なんや、クソジジィ」
「その言い方、懐かしいのう。…志麻には勝てんでもええ」
「は?」
「ただ、一発は入れろ。鼻っ面へし折って、ワシの元に連れて来い。説教じゃ」
志麻は館長と殴り合いの喧嘩までしていた。
そのくせ、高校を出てからはぱったりと交流が途絶えたらしい。
恩知らずの薄情者が。
薄情者。
…それは私もか。
乾いた笑いが出る。
「引きずってでも連れてきますよ」
「待っとるぞ? 一発も入れられんかったらゲンコツじゃ。覚悟しとけ」
クソ暴力宮司め。
館長が目を吊り上げる。
「返事は?」
マジヤバッ。
「はい!」
パーンッ。
館長は恵の背中をはたいた。
「よっしゃ、気合入れて行ってこい!」
昔のままだった。
「勝負あり!」
白い旗が三本上がっていた。
場内に拍手が広がった。
礼をした後、恵は正面のトーナメント表を見た。
自分の名前の上に線が伸ばされている。
ここまで危なげなかった。
上段で圧を掛け、相手に打ち込ませないようにしてきた。
今なら、打ち込まれても余裕をもって捌ける気がした。
特訓の成果だろうか。
場内放送が響き渡った。
『只今より、昼食休憩といたします。準々決勝は、午後一時より開始いたします』
会場内がざわめき立つ。
いよいよか。
恵は待機位置に座った。
面を外そうと紐に手を掛けた時だった。
「タヌキちゃん、逃げずによぉ来ましたなぁ」
声がした。
かつて焦がれた声。
今は虫唾が走る声。
ゆっくりと振り向いた。
漆黒。
ただ漆黒だった。
「そっちも医者で忙しいのによく来たな。あ、ヤブ医者やから暇か」
お前が医者やなんて未だに信じられへんわ。
悪い冗談だ。
志麻。
漆黒の道着。
手提げ袋。
黒髪のシニョン。
切れ長の一重。
うっすらと化粧までして。
馬鹿にしやがって。
「ヤブは傷つきますぅ。これでも繁盛してますさかい」
志麻は鼻息を荒くした。
「遼太郎から聞いたぞ? ヤニと酒どころかパチも辞めてへんらしいやんけ。そんな医者がどこにおるねん」
あの日。
ヤニと酒の匂いはうっすらとしていた。
経緯を聞いたら尚更、医者であるとは信じられなかった。
「誰かさんに男盗られて、猛勉強しましたんや。頭の出来が違いますさかい」
盗った?
「盗ってへん!」
大きな声が出てしまった。
視界の端で何か動いた。
志麻の後ろ。
観客席。
家族が慌ただしく立ち上がっていた。
加勢しに来るつもりだろう。
来んな。
座っとれ。
恵は腕を上げて掌をひらひらとさせた。
志麻がクスクスと笑う。
「味方呼ばへんのは偉いですなぁ。感心しますわぁ」
「何しに来たんや」
試合前にわざわざ来る。
察しはついている。
「邪険にせんといてください。差し入れですぅ」
志麻は手提げ袋からペットボトルを取り出した。
お茶だった。
怪しい。
何かあると思った。
「要らん。薬でも盛ってるんやろ」
睨みつけてやった。
志麻の顔から、みるみる笑みが消えていく。
あ…?
やっぱりか?
恵は拳を握った。
志麻の唇が何度か動いた。
間が空いた。
「恵。この試合で勝った方が――」
『勝った方がゴンちゃん好きにできるようにしまへんか』
あの時の言葉が過った。
「しつこい! 剛三は賭けるもんちゃうんや。人でなし」
志麻は黙り込んだ。
やっぱり図星や。
十年前と全く変わってない。
こいつは人のことを何とも思っていない。
こいつは。
こいつは。
私が好きやと知っていた。
それなのに振った。
私があれだけ好きやったのに振った。
拳に力が入る。
振るだけならまだいい。
諦めもつく。
そればかりか、剛三を狙って来た。
二人でいる時に限って邪魔をしてきた。
自分がいないところで剛三に差し入れやお弁当を作っていた。
全部知っていた。
その上。
高校卒業を控えたあの時。
剛三を賭けようと言い始めた。
剛三の意思も関係なく。
嫌だった。
受け入れられなかった。
断った。
なのに。
『文句あるんやったら、戦って勝てば良いだけですぅ』
頭に血が上った。
絶対に負けられなかった。
それなのに。
負けた。
目が霞み始めた。
志麻の顔が滲む。
あの突き。
志麻の実家に遊びに行ったとき。
家の流派の技やと、見せてもらった突き。
人斬りの突き。
その突きで負けた。
そこまでして勝ちたかったのか?
今までの思い出も、自分の思いも全部捨ててまで勝ちたかったのか?
許せなかった。
だから、勝負は無かったことにした。
あんな勝負は無効だ。
そう言い聞かせた。
結婚式にも呼ばなかった。
遼太郎が生まれたことも教えなかった。
剛三に薄情だと言われようとも押し切った。
薄情者で結構。
縁を切った。
それなのに。
また目の前に現れて同じことをやろうと言うのか。
お前なんか。
王子様やない。
私の志麻やない。
面が邪魔で涙が拭けなかった。
志麻がため息をついた。
「恵…いや、ええです。お邪魔してすいまへんなぁ」
そう言って、志麻は去って行く。
二度と現れないでほしかった。
死んでてほしかった。
王子様のままでいてほしかった。
しーちゃん。
なんで来たんや。
なんで戻ってきたんや。
漆黒の背が遠ざかっていく。
準々決勝開始まで一時間を切っていた。
基本的には好き勝手に書いております。
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