8話 捨て猫
6帖1間のワンルームマンションには、玄関側の炊事場に電子レンジがある。
夕食は、ほとんどコンビニ弁当をレンチンして食べていた。
お昼は学校で給食、朝は食べない。
管理人からは毎日、食事代として一番年上の芽衣にお金が渡される。
芽衣は美味しそうな夕食を買っていたけど、私には1日300円だけ渡された。
だから私の夕食は、いつも、具がほとんどないおにぎり2個ぐらい。
甘いものなんて食べられなかった。
同居してる2人は私と同じ中学に通っていて、帰ると2人でずっと対戦ゲームをしている。
そして夜になると隅にある布団を敷いて寝る。
このワンルームに3人が寝るのはかなりきつい。
部屋の壁は単調な白で清潔感はある。
これまでの母の心が壊れ、よどんだ部屋と違い、無機質な空気が漂う。
親が海外赴任し、残された子供達を管理人が預かっているということになっているらしい。
管理人は、何もしない。朝、封筒に入れたお金をポストに入れるだけ。
後で知ったけど、父は、この家の管理人に毎月3万円払っていたみたい。
管理人が入れたお金を芽衣が取り出し、私達に、その一部を配る。
狭いせいか、家具とかはなく、布団を敷くと、もう何も置けない。
壁には学生服と、1人2着の服がハンガーで吊り下げられている。
その他のジャージやブラ、パンツとかは布団のうえに無造作に置かれていた。
こうやって、親がいない生活が始まる。
上下関係が出来上がっていて、すぐに私は奴隷のような存在だと思い知らされる。
「詩織、おまえはここでは一番下なんだから、私たちの言うことは何でも聞くのよ。」
「何でもって?」
「何でもよ。お菓子買ってこいと言ったら、買ってくる。洗濯、掃除は毎日しなさい。わかった。」
「わかった。」
「わかりましたでしょう。」
ある日、私はいきなり横に飛ばされた。
突然のことで何が起きたのかわからなかった。
前には、私の頬を平手打ちした芽衣が見下ろしている。
「痛い。」
「おまえは、口で言っても分からないようだから体で教えないとね。ホコリが床に落ちてるじゃない。掃除をしろと言ってるでしょう。また、私のブラ、糸がほつれてたわよ。こんなことが二度とないように、洗濯も丁寧に行いなさい。言うことを聞かないと、これからもこうなるからね。」
「・・・」
「はいの返事は? なに睨んでるのよ。また殴らないと分からないのかしら。」
「はい。」
私の体は恐怖で固まる。
それから、私は何も言うこともできなくなった。
そして、家に帰りたくなくて、毎日、多摩川の河川敷で過ごす時間が増えていく。
沈みゆく夕日が川の水面に映り込む光景には心が奪われる。
カモなのかしら、何羽もの鳥がV字で楽しそうに空を飛ぶ。
あんなに自由に空を飛んで生きることができたら、どんなに楽しいことか。
いえ、あんな風に見えても、鳥の中でも序列があり、悩みが溢れているのかもしれない。
でも、私には、何も遮ることがない空を飛ぶこともできない。
粘ついた泥水の中にいて、どんなにもがいても前に進むことができない。
後ろに下がろうとしても、後ろから押され、自分の居場所はどんどん狭くなる。
上からも押さえつけられ、息もできない。
私は、雑草の中を悠々と飛ぶ目の前の蝶になりたい。
汚らしい毛虫から美しく成長した蝶。
今は、毛虫の頃の嫌な記憶は消え、誰もが美しいと目をみはる蝶。
そして、優雅に、雄と一緒に草木の間を飛び回り、命を楽しむ。
私にも、そんな時が訪れるのかしら。
そんな瞬間が訪れたら、わずかな時間でも最高の光を放つ。
それまでは、ずっと耐えてみせる。
あれ、知らない間に頬に雫が流れている。
芽衣から脅され、感情を押し殺し、表情がないと言われている私なのに。
でも、私には、どこにも逃げる場所はなかった。
最近、重い何かに押さえつけられる夢をよく見る。
なにか大きな岩のような物が重くのしかかる。
でも、ごつごつして痛いとか、平らな物が覆い被さるわけではない。
ただ、ものすごい重力が体に押しかかり、身動きが取れない。
昔は自由に空を飛ぶ夢をよく見ていたのに。
どうして、私を取り巻く世界はこんなに変わってしまったのかしら。
私は、同年齢の女たちの下僕として生活し、1年が過ぎる。
自分の考えを言うことは許されず、自分で考えることもなくなった。
ただ、言われたことをするだけの生活。
私は生きていてはいけない汚い女。
自ら考えてはだめなの。
私が考えて行動したら、周りの人をみんな不幸にしちゃう。
私はプリンを買ってこいと言われてコンビニに来ていた。
コンビニの前には、同年齢の女子校生達が楽しそうに笑っている。
どうして、あんなに楽しそうに無邪気に笑えるのかしら。
少し聞いていたら、恋バナをしているみたい。
いいな。好きな人がいるなんて。
私は、男のことは考えないようにしている。
だって、父とエッチしていた汚い女だから。
好きになる資格なんてない。
下を向き、存在を消すのがちょうどいい。
翌日の土曜日、芽衣の彼らしい高校生の男とカフェで一緒にいた。
男は3人いて、私もそこに呼ばれた。
「この子、詩織っていうの。本当に気持ち悪いでしょう。なにも面白いことないのにニタニタしていて、何を考えているのか分からないのよ。気味が悪いわ。でも、部屋の管理人からは、一緒に暮らせと言われているし、捨てられないから困っちゃう。」
「美人じゃないか。」
「そうかしら。唯一、男から好かれそうなのは、バストぐらいかな。雌牛みたいでしょう。私からは下品にしか見えないけど、男は、こういうのが好きなのよね。」
「たしかに。でも、俺は芽衣一筋だから、この女には寄り道なんてしないよ。」
「あたりまえでしょう。この子は私たちの奴隷なんだから。そうでしょう、詩織。」
「ええ、芽衣ねえさんたちの奴隷でいられて満足しています。えへへ。」
「本当に気持ち悪いでしょう。」
私は、カフェにいても、何も頼むことが許されなかった。
途中で、芽衣がスライスしたリンゴを床に投げた。
「物欲しそうに見てるんじゃないわよ。私も優しいから、これあげるわ。でも、手を使ってはだめ。口を床につけて舌で口にいれなさい。」
「わかりました。ありがとう。」
「ありがとうございますでしょう。本当に分からない子ね。」
「ありがとうございます。」
私は、犬のように四つん這いになり、口を床につけリンゴを食べた。
舌に砂利がまとわりつき、苦い味もする。
バストが床に当たり邪魔に感じた。
女子高生が私の周りに集まり、笑い声が響いた。
「この子はプライドってものがないのかしら。」
「汚いのに、ニタニタ笑ってるわ。」
「顔に砂がついてるじゃない。」
私は何を言われてもいい。
人間として生きていること自体が間違いだもの。
犬の方が私より清らかかもしれない。
そして、30分経った頃、芽衣は食べ終わったパフェのグラスを私の前に置いた。
私は、あまりに美味しそうだったから、底に残った僅かなクリームを食べる。
「この子の親は貧しいらしくて、仕送りがほとんどないのよ。だから、おしゃれもできなくて、毎日、こんなジャージ姿なの。しかも、ブラとか買えないから、みっともないわよね。」
「なんか臭いしな。」
私は週に1回しかお風呂に入る許可がでていなかった。
だから、頭は痒くて、掻くたびにフケが周りに飛び散る。
肌も、赤い斑点もいくつも出ていた。
睨んだりすると殴られるから、日々、ニタニタしておくしかない。
なにも楽しいことなんてないのに。
そんなんじゃだめと叫ぶ別の自分が心の中にまだ残っていた。
でも、同時にどうすればこの暗闇から抜け出せるかも分からない。
ただただ、もがき苦しむしかなかった。
心の中では、もう息をすることもできず窒息死していたのかもしれない。
ただ、意味のない笑いが口から漏れながら。




