10話 警察の捜査網
私も35歳になった頃、社長の要望で1ヶ月間、東京に同行して欲しいと言われた。
社長から強引に説得され、1ヶ月だけだしと思って、渋々と行くことにする。
久しぶりの品川。本当に久しぶりだけど、あまり、変わっていない。
駅から南に向かう道は、昔より少しおしゃれなお店が増えたみたい。
その道路は、昔と違い銀杏並木になっていた。
銀杏並木が黄色の世界に変わるのはもう少し先。
でも、多くの葉っぱはまだ緑色だけど、少し黄色に変わっているところもある。
これが、一面黄色の世界になったら、素敵でしょうね。
銀杏って、生きた化石と言われてるらしい。
絶滅しそうだった銀杏は、人間に好かれて広がっていった。
一面黄色の世界というのも、好かれた理由なんだと思う。
私も本気をだせば、多くの男に愛されてしまうことは分かっている。
でも、もう男との関係は疲れたし、一人で過ごす方が楽だと思うようになっていた。
社長は、今日の仕事を一段落させ、私を夜のレストランに誘う。
そして、2時間の会食も終えて、社長をタクシーでお見送りをする。
私は、品川の近くに予約したホテルに向かって歩いていた。
品川の夜道で、昔、キャバクラで一緒に働いていた女が私の目の前に佇む。
その女は、いつも、私にマウントを取ってきて嫌な女。
お店の暴力団に連絡を入れた時に、私の新しい顔の写真を渡していた。
お店から、その写真を、この女が見てしまったとお詫びの連絡が入っていたのを思い出す。
「痛いな。ぶつかってお詫びもなしなの。骨が折れたかも。病院代を出しなよ。あれ、詩織じゃない。たしか、あの殺人で手配になって、まだ捕まっていなかったような。私を殺さないで。謝るから。殺さないで。」
「別人ではないですか。言いがかりはやめてください。」
私は手を振り払い、走り出す。
「大変だ。お巡りさん、ここに殺人者がいますよ。お巡りさん。」
警察に補導され指紋のチェックとかされると、ごまかしきれない。
私は走って逃げた。どこまで、私は、運が悪いのかしら。
私は、タクシーに飛び乗った。
「大月までお願いします。早く出して。」
「わかりました。高速はどこから乗りますか?」
「任せます。」
せっかく、別人の名前をもらって、静かに暮らしていたのに。
品川なんて、知り合いが大勢いる所に来てしまったことを後悔した。
でも、今更時間を戻すことはできない。
しばらくして、相模湖に近づいてきた頃、タクシーの無線が入る。
若い女が逃亡したと話していた。
その女性は全国指名手配で凶暴な女だとも言っていた。
運転手が私のことに気付いて、そのまま警察に連れていかれたら逃げられない。
見つかる前に、降りないと。
私は、とぼけて、何もないように、運転手に話しかけることにした。
「こんな夜に若い女が逃亡するなんて話しがあるのね。でも、犯罪者だったら捕まえないと安心して暮らせないしね。」
「お客さん、本当にそうですよね。そういえば、どうしてこんな時間に、お客さんみたいな若い女性が大月になんて行くんです?」
「親の家が大月駅の近くにあって。」
「どこなんですか? その家まで行きますよ。」
「いや、お金、高くなるから大月駅の前でいいの。」
「そうですか。でも、大月駅から遠いと、こんな時間、女性の一人歩きなんて危ないですから。北側ですかね。あそこ、すぐに降り坂になって、そのあと、上り坂になっていますよね。神社とかありましたけど、なんていう名前でしたっけ?」
「なんだったかな。まあ、大丈夫だから大月駅前でいい。」
「わかりました。でも、お住まいが大月だと、こんな遅くまで品川で飲み会なんて大変ですね。」
本当にうるさい運転手。
多分、私のことを探っているに違いない。
さっきの神社の名前も本当は知っていて、試している。
隙があれば、無線で警察に連絡するのだと思う。
「本当にそう。上司から誘われて断れなかったんだけど、本当は、夕方ぐらいに帰る予定だったのよ。ああ、疲れたわ。」
「でも、毎日、大月から通勤だと大変ですよね。」
「親は大月に住んでるけど、私は、別の場所に住んでて、基本はリモートなの。でも、社長の都合でしばらくの間、品川に来いって。少しの期間だし、親の家から通うことにしたの。親とも久しぶりだし。」
「じゃあ、いつもはどこに住んでるんですか?」
「ごめんなさい。女1人暮らしだから、どこにというのは言えないかな。」
「そうですよね。なんか、いろいろ聞いちゃって、失礼しました。」
このドライバーは、私の行き先や住んでいる場所を探っているに違いない。
話す声は変わらず穏やかだけど、目はさっきより険しくなってる。
沈黙の時間が続いた。
一番まずいのは、このまま警察に連れて行かれること。
車の中から逃げることは難しい。
今、取り得る選択肢は1つだけ。早く、この車から出た方がいい。
幸いなことに高速での移動中なので、逆走はできない。
しかも、300m先の上野原インターから降りるとすぐに上野原駅に到着する。
その間に大きな警察署はないし、上野原で降りるという情報はまだ警察には入っていない。
「あ、検索したら上野原駅に、ちょうどいい電車が来るみたい。上野原駅は近いし、上野原駅で下ろして。」
「わかりました。では、もうすぐ高速を降りますね。」
私は、現金でお金を払い、タクシーを降りて、上野原から大月行きの電車に飛び乗った。
ここはSuicaで入れるけど、入口に駅員がいて、なんか怪訝そうに私を見ていた。
タクシーのドライバーが通報したのかしら。
もちろん、あり得る話しだから、それも踏まえて、これからの行動を考えないと。
上野原から大月まで5駅で約20分。
この間に警察がこの電車を捜索すると捕まる危険性は高い。
緊張で体がこわばったけど、そのようなことはなく時間が過ぎていった。
準備ができていなかったのか、この周辺には警察が少ないのか。
周りは、それなりの人がいる。
ほとんどの乗客は疲れて眠っているけど、学生の3人は酔っているのか大声で騒いでいる。
学生は、大声で迷惑だと表情をする私を一目見て、目をそらし再び大声で大笑いをする。
全国指名手配の女がこの車両にいることを誰も知らないのだと思う。
そうだ、警察は、この列車にいる乗客の命を守ろうとしているのかもしれない。
追い詰められた私がナイフで乗客を切りつければ大惨事になる。
それより、大月駅でプロの警察官が私を取り押さえた方が安全と判断したに違いない。
いずれにしても助かった。
外気は寒くなりつつある中で、車両の中は暖かく、窓に水滴がついている。
私は、知らず知らずに窓にハートマークを指で書いていた。
どうしてそんな可愛らしいことをしたのだろう。
久しぶりに、女だと周りから見られたいと感じていたのかもしれない。
大月駅に電車は到着する。私の目的地はもっと先の甲斐大和駅。
おじいさんが住んでいたあの家が目的地。
でも、大月駅とタクシーの運転手に言ったのは幸運だった。
警察は、大月駅で私が出てくる所を静かに待ち構えているに違いない。
私は、目の前に停車する甲府行きの電車に乗り込む。
そして、車内のトイレに入り、鍵を閉める。
この時間は乗客がなく、トイレに入ったところは見られていないはず。
電車は動き出し、私は恐る恐るトイレのドアを開ける。
誰もいない。私は、少し安心し、椅子に座る。
発車した電車は初狩の駅を通り過ぎた。
その時、私しかいない車両に車掌が歩いてくる。
車掌は、私に声をかける。
「どこまで行かれますか?」
「Suicaで運賃は払いますが、何か問題があるんですか?」
「いえ、これが終電なので、大丈夫かなって思って。」
「大丈夫です。終電ということも知ってます。ご心配、ありがとうございます。」
車掌は、私が刃物でも取り出して襲うんじゃないかって恐れているようにも見えた。
顔は冷静なふりをしながらも、足が震えている。これは寒いからではないと思う。
でも、それ以上、話すこともできずに、次の車両に歩いていった。
ただ、ドアを通り過ぎると、何やら電話をしてるように見える。
とっても小さな声で、怯えた様子で。
そして、私の方を何回も見て話してる。
一般的にいえば、夫や息子も含め、何人も殺した凶悪犯が目の前にいる。
私を攻撃する人を殺害しただけで私には非はない。
でも、知らない人は、狂気の女で、自分にも襲いかかってくると思うかもしれない。
でも、このままでは、駅で待ち構えられて捕まる。
次の笹子駅にはあと2分で到着する。さすがに、2分では駅に警察を配備できないはず。
目的地の甲斐大和駅にはあと6分はかかる。その間に警察は準備ができる可能性が高い。
私は、笹子駅で降りることにした。
笹子駅の前には、たしか駐在所があったはず。
だから、駅で降りると、甲斐大和方面の暗がりに消える。
ホームから線路に出て、線路を通じて道路に出ることにした。
線路は最初、道路の上を通り、その後、道路より下側を通ることになったと記憶している。
靴を脱ぎ捨て、真っ暗なホームの砂利の上を進み、なんとか道路に出ることができた。
靴を脱いだ足は痛く、ストッキングは破れている。
隣家の庭に置かれたスニーカーを拝借して履くことにする。
ここからは、甲斐大和駅まで甲州街道を歩くことになる。
夜は時々現れる電灯に道は照らされているけど、進むにつれて暗くなる。
気温は雪が降るほどではなかったけど、長く歩くと体は冷える。
道を通る車から不審な女が1人で夜道を歩いていたなんて言われても困る。
だから、車が通るときは、影に隠れた。
そんなことしていたから、思ったより時間がかかる。
朝3時ぐらいだったと思う、甲斐大和駅に着いた。
パトカーがいっぱい光を放っていて、検問所が設置されていた。
甲府行きだったので、甲府に到着した電車を調べたのだと思う。
そこには私はいないことを確認し、一駅づつ大月に警察隊を進めていったはず。
そして、朝3時、甲斐大和駅を捜索しているということだと思った。
ここで見つからなければ、笹子に警察隊を移すはず。
この様子だと、笹子で降りたことはまだ知られていない。
本当だったら、この駅から、しばらくはアスファルトの道で進める。
だけど、そうするためには検問を通らなければいけない。
これからも警察の要員は増えるかもしれない。
大勢の警察官がいれば、女の私は1人では逃げられない。
私は、アスファルトの道を迂回して、登山道に行くことにした。
この登山道は、一回、通ったことがあるけど荒れている。
山の地図にも点線でしか書かれていない。
確か、一部は通行禁止だったと思う。
そんな道を、こんなビジネススーツで行くなんて無謀だってことは分かっている。
でも、そうしないと捕まってしまう。
まだ朝の4時。ライトも持たずに、こんな険しい山を歩くなんて自殺行為。
足を踏み外して、崖から落ちてしまうかもしれない。
でも、それしか選択肢はない。
幸いなことに、今日は満月で、木々で暗い所もあるけど、道はなんとか見える。
無理でも進まないと。スカートを切り裂き、歩きやすいようにする。
もう、ここからおじいさんの家までは誰とも会わないから不審がられることはない。
途中には大きな岩をよじのぼる所もあったけど、泣いてる時間はなかった。
命からがら、あの山中のおじいさんの家に戻ってくる。
その時には、服は、木の枝とかに引っかかったりしてボロボロ。
綺麗に手入れをした爪も傷だらけだった。




