7話 業火
私は、今、長崎で海からあがる朝日を見ている。
子供を抱き、晃一が私の腰に手をあてて家族3人で。
私は、これまでのことは墓場にまで持って行く。
かわいい息子には、何も言えないでしょう。
夫には、中卒で、札幌のキャバクラで働いていたと言ってある。
親はもう亡くなったとも伝えた。
貯めたお金は銀行に預け、夫には伝えていない。
何かのときに息子のために使う。
やっと手に入れた幸せ。
夫は、焼酎の蔵元の長男。焼酎のことしか知らない。
家族のことを一番大切にする男。
男としてドキドキするところはないけど、安心して人生を任せられる。
息子は私の天使。赤ちゃんの匂いはとても好き。
毎晩、息子が寝ると、夫と焼酎で乾杯し、今日も何もなく過ごせたことを祝う。
こういう生活がしたかった。
特に何もない普通の生活。
でも、夫と息子に囲まれ笑顔で溢れる。
夫のご家族も私を大切にしてくれる。
息子の面倒も見てくれて、子育て中でも、それほど大変じゃない。
私は親がいないから、本当の両親のように慕った。
それが良かったのか、私のことをかわいがってくれている。
最近、家の窓から見える海の対岸には造船所がみえる。
寒い冬の間でも、船が日に日に建造されている姿は面白い。
息子をベビーカーで外に連れ出すと、息子の頬は寒さに赤らむ。
世の中はまだ寒いけど、これから春に向かって生命が溢れていく。
これまで、こんなことを考えたことはなかった。
寒さの先には、また寒さが待っているとしか思えなかった。
私の周りでは、寒さの中でも笑顔が溢れている。
これからずっと平凡という幸せが続くのだと思う。
この人と出会えて、本当に良かった。
息子とも出会いをくれた。
私は、これまで何を悩んでいたのだろう?
幸せって、こんなに近くにあったのに。
背伸びもせず、体から力を抜いて過ごすことができている。
ずっと暗闇に苦しんできたことへのご褒美なのだと思う。
もう私を苦しめる人は周りにいない。
こんな平穏な時間が欲しかった。
今夜、夫に息子をお風呂に入れるのを任せ、私は、料理を作る。
晃一が好きなハンバーグ。喜んでくれるはず。
私は、めずらしく歌を口ずさんでいた。
私は息子を産んだけど体型は維持できてる。
肌もどうしてかずっとすべすべ。
バストの形も崩れてない。
今の私には夫しかいないから、この体は全て夫に捧げる。
外を歩けば、こんな美人を連れている夫はどんな人だろうと皆が振り向く。
そんなんだから、夫も最愛の妻だといつも自慢してる。
今夜は、夫に抱いてもらおう。
夫も喜ぶはず。
私に一途だから。
ただ、最近は刺激のない生活にも一抹の不満があった。
晃一は、心のひだというものがなく、いつも単調で、私の心が止まる所がない。
でも、そんなことを見ないようにするのが幸せの秘訣だと自分に言い聞かせていた。
人生は矛盾だらけ。
矛盾したものを両方とも得ようとすれば、どちらも失う。
だから、この生活を選んだ私は、諦めることも必要。
そんなことを考えてフライパンに蓋を置いてむらしていた。
ふと、キッチンの窓から外の道路に目をやる。
そこには、目つきの悪い15人程の男がこの家を取り囲んでいるのが見えた。
まずい、あれは警察。どこかで過去のことがバレたに違いない。
私は、晃一、息子と一緒に逃げる選択肢はないと直感した。
晃一は、これまでのことを伝えて、分かり合える人でもない。
そんな状況で、息子を私に引き渡すとも思えない。
では、どうするか。一人で逃げるしかない。
しかも、逃げるために時間稼ぎをする必要がある。
今、時間かせぎができる方法って、何があるのかしら。
風が強いこの時間に、この家から火を出せば、この辺りは火の海になる。
そうすれば、警察も私より消火活動に専念せざるを得なくなる。
翠を殺した時に、家があっという間に燃えていくことは学んだ。
今、火をつければ、捕まる前に、この家は炎に包まれる。
私は、周りに油を染み込ませたタオルを何枚も投げ、カーテンに火をつけた。
まずは、私が火に巻き込まれたと思わせて時間稼ぎをしないと。
そのためにも、晃一と息子には犠牲になってもらう。
よく考えれば、晃一は家族のことしか考えないつまらない男。
私のために犠牲になれることは、ありがたいことでしょう。
どちらかを選べと言われれば、今の私は、晃一を殺して逃げる選択肢をとる。
息子は、そんなつまらない男との間にできたんだから、これからの人生も知れている。
息子が私の指を握り、微笑み返した映像が浮かんだけど、一時の感情は捨てないと。
私の価値は、そんな人達の犠牲をもってしても尊いものだから。
急に火に囲まれた晃一は驚いて、私を助けに来るかもしれない。
いえ、すぐに煙を吸い、倒れてしまうわね。
まだ1人では歩けない息子も同じ。
2人が外に逃げ出して助かるという可能性はゼロに近い。
そう確信して、私は裏口から隣家を通り逃げ出した。
10分ほどして振り返ると、小高い所にある家の一帯は大火事になっている。
風が強く、周りに燃え広がる。
消化活動の方が優先され、私の逮捕に警察は力を割くことはできないように見えた。
たしかにわずかな間だったけど、束の間の幸せはそこにあった。
逃げるために、晃一と息子を犠牲にしてしまったことには罪悪感もある。
でも、悪くはない私が犯罪者として捕まる訳にはいかない。
捕まったら、みんながよってたかって私を悪者にすることは目に見えている。
今は過去を振り返っている時ではない。
すぐに新幹線にのり、東京駅から山梨に向かった。
昔、登山をしていたころに逃げるならここと決めていた山奥。
私は、山梨の山奥をひたすら逃げていた。




