4.婚約解消
イザベラは目の前のカップを持ち上げ、一口紅茶を口の中に含む。
ぬるい。
冷めた紅茶は香りの広がりも悪く、決してはまずくはないがおいしいとも言い難い。しかし、これは淹れた者の、我が使用人の責任ではない。
それだけ紅茶を淹れてから時間が経ったということだ。
「黙っていないで何か言ったらどうだ」
不機嫌なのか何なのか、低く感情の含まれていない声でジョルジュが言った。ならばとイザベラも感情を表に出さないまま、カップを置く。
「理由を教えて頂けるかしら」
今日はジョルジュがクロワの家を訪問する予定ではなかった。突然の彼の訪問に驚きつつも応接室に通すと彼は開口一番に言った。
「婚約を解消してほしい」と。
突然そんなことを言われて納得ができるものか。こちらに責があるわけでもないのに。
一体どんな理由なのだろう、とそれなりの理由を考えてみたが、全く何も思い浮かばないゆえの先程の返答である。
「とある人と婚約をするためだ」
「そのために私を捨てると」
「それは言葉が過ぎないか?」
そうだろうか、妥当な言葉の選び方だと思うけれど。
「とある人」と相手を明かさず、一方的に婚約の解消を迫ることに対しては。
「そもそも私たちの婚約は互いの両親が決めたはずでしょう?」
ゲーテベルグ王国の宰相グロック・ヘンリックの息子と由緒正しい騎士の家、テオ・クロワの娘の婚約。両家とも国内では有数の権力の保持者であり、その力を強固にするための婚約だったはず。
「わが父の了承は取っている」
「私の父の了承は?」
「それはそちらで話を通してもらいたい」
「何と言って父を説得すればいいの? 婚約者が得体の知れない人物と婚約するから、私との婚約は解消することになったと?」
そんな言葉で父が納得するわけないだろう。そもそも、ヘンリック伯爵も納得しそうにない理由だが、一体ジョルジュはどうやって説得したのだろうか。
「確かに言われてみればそうだな。話が曖昧過ぎるとは俺も思っていた。ふうむ、王からは相手は明かさない方が良いと言われていたのだが……」
なぜ婚約の話にゲーテベルグ王が出てくるのか。イザベラは思わず眉をひそめる。
「相手はこの国の預言者だ。俺は預言者と結婚する」
「……っ!?」
なんですって! と叫びながら立ち上がりそうになるのをすんでのところで止める。
それはさすがに予想外だった。
だが、預言者と結婚するということは。
「あなた長子でしょう? 子供はどうするつもりなの?」
この国において預言者との結婚は許されているが、子供を持つことは許されていない。それを知らないジョルジュではないだろうに。
「そんなの、どうとでもなる。養子をとるなり、妹の子供に家を継がせても構わない」
それだけ、預言者との結婚にはメリットがあるということか。とイザベラは心のどこかで納得しかける。
「それにしても、君に子供の心配をされるとは思わなかったな」
「どういう意味かしら」
イザベラのこの言葉に、ジョルジュは一瞬目をを伏せた後、向かいの席から立ち上がり、イザベラの隣に座った。
「ジョルジュ?」
イザベラは怪訝に思っていると相手に伝わってしまうような声を出してしまう。
しかしジョルジュはイザベラには答えず無言で、彼女の手を取った。
その瞬間イザベラの心に緊張が走る。
イザベラはジョルジョの手から自身の手を抜こうとするが、彼が力強く手を握っているためそれは叶わなかった。
そしてジョルジュはイザベラの手の甲に軽く口づけをする。
――やめて。
イザベラは思わず身を強張らせる。心臓が激しく脈打つ。
彼女が緊張してることをジョルジュもわかっているようで、彼は冷たい視線をイザベラへと向けてくる。
「君と結婚したところで、子供ができるのか、ずっと疑問だった」
「私は自身の役目を全うするつもりよ」
そう言うとジョルジュは大きく息を吐き、被りを振った。
「そういうことじゃないだろう。特別に教えてやるよ。俺がお前とではなく、預言者と結婚する理由を」
権力以外という意味だろうか。いや、そもそもそれ以外に何の理由があるというの?
「預言者はな。俺を愛しているのさ、心の底から」
そうジョルジュに得意気に言われ、イザベラは言葉を失う。
愛?
「……愛のために、私との婚約を破棄すると?」
ジョルジュの口から愛という言葉が出てきたことに戸惑いながらそう言った。
イザベラとジョルジュはいわゆる幼馴染で、幼少期から共に過ごしてきた仲だ。しかし、二人の間に恋愛感情はなかった。それでも信頼関係は築けていたと思っていたのだが。その関係を恋愛感情により裏切られるとは、思ってもいなかった。ジョルジュはそのようなくだらないことをする人間とは思っていなかったのだ。完全に見誤っていた、彼のことを。
「なんだ、そんなくだらない理由で、とでも言いたげだな。俺はなそういうお前の冷酷な所が昔から気に食わなかったんだ。お高く留まりたいのか知らないが」
それにしても冷酷とは……。
幼馴染にそのように思われていたとは心外だ。
「別にそんなつもりは、それに愛とか言っているけれど、本心は預言者と結婚して権力が欲しいだけでしょう」
「預言者と結婚して得られる力など一時的、それならば、お前と結婚するさ」
「なら、私と結婚した方がいいじゃない」
「だが、このまま俺たちが結婚したとして、お前が俺を愛することはあるのか。ああ、それこそ友としてとか言うのはやめてくれよ。子供じゃあるまいし」
一人の女として、一人の男を愛せるか、と問われているということか。
「……それは」
とイザベラはジョルジュの視線から逃げるように顔をそむける。彼が相手でなければ、「愛することができる」と嘘をつけたかもしれない。しかし昔なじみの彼に対して不誠実な対応をするのは抵抗があった。
しかしやはりわからない。親同士が決めた婚約を捨てて、愛のために預言者と結婚する理由が。
「ああ、そうだろうな。わかっていたよ。いいか、お前はこの婚約解消が一方的だと思うかもしれないが、お前にだって非はあるんだ。そのことを忘れないでくれよ。それと、ルークや王を味方につけようとしても無駄だぞ、王はこの婚約に大賛成なんだからな」
そう言うとジョルジュは話を終えたつもりなのだろう。ソファから立ち上がり、応接室を出て行った。
イザベラは彼を馬車まで見送ることも、別れの言葉を発することもできなかった。
婚約が解消された。
相手はあの預言者なのだ、太刀打ちできる相手ではないと分かっていても、動揺が止まらない。
そもそもなぜ預言者はジョルジュと結婚したいと思ったのだろう。
愛している?
まさか、本当にそんな理由で、ジョルジュにイザベラとの婚約の解消を迫ったのだろうか。
それに王が賛成しているって、どうしてそこで王様が出てくるのか……。
ああ、今は考えてもまともな答えなど出そうにない。
「愛なんて、くだらない……」
イザベラは冷めた紅茶が入ったティーカップを見つめながら、ただただじっと座っていた。