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素直じゃない令嬢と彼女を甘やかしたい令息の実にささやかなる攻防戦

作者: 佐久矢この

誤字が多くてごめんなさい……

反省しています。でもたぶんまだあります。


朝露に濡れた薔薇の庭が、微かな光を纏い始める頃、アリア・ルーベントは窓際に立っていた。杖にすがり、薄紫の瞳でぼんやりと庭を見つめるその姿は、どこか儚げだ。彼女の舌には、いつも小さな棘が潜んでいる。


今日もまた、ハーヴェイが迎えに来るだろう。彼女の婚約者であり、学院の誰もが憧れる「アウラート侯爵家の次男」。侯爵家が持つ伯爵位を継ぐことが決まっている彼は将来有望で、その名を聞くだけで令嬢たちは目を輝かせるが、アリアはその存在を疎ましく思っている――少なくとも、そういうふうに見えるように振る舞ってしまっているとアリアは思っている。


「毎日毎日、本当に飽きないわね」


そう呟きながら、白猫を抱き上げる。その柔らかな毛並みに触れながらも、心のどこかでは彼が屋敷の門をくぐるのではないかと耳を澄ませていた。


扉の向こうから控えめなノックが響く。フリウが部屋に入ってきて、一礼する。


「ハーヴェイ様がお見えです。お迎えの準備をなさってくださいませ」


「今日も早いのね」


ぶっきらぼうにそう言いながらも、アリアは鏡台の前に立つと素早く髪を整える。その指先はどこかせわしなく、鏡に映る自分の姿を何度も確認する。その行為が「期待」と呼ばれるものであることに、彼女自身気づいていないふりをしていた。





馬車の揺れが止み、ハーヴェイの姿がアリアの視界に映ったとき、朝露に濡れた庭の薔薇が一層輝いて見えた。彼の淡いアッシュグレーの髪は陽光を浴びてきらめき、榛色の瞳がアリアをじっと見つめている。その無表情は、時折彼女の神経を逆撫でするようで、今日もアリアは小さく鼻を鳴らした。


「毎日ご苦労なことね。私のことなんてほっといてくれればいいのに」


アリアの言葉には棘が含まれている。しかし、その声の奥には微かな震えがあった。彼女自身、それを隠すように杖を握る手に力を込めた。


「君が言ったんだろう。学園への送り迎えをしろと」


ぶっきらぼうな声が返ってくる。その言葉にアリアは少しムッとしながらも、どこか安心感を覚える自分がいるのに気づいていた。


「そんなこと言ってないわ。ただ私は、あなたは忙しいから学園に入学したら会うことはないでしょうねと言っただけよ」


そう言いながら、彼の前を杖を頼りに歩き出す。彼女の白い髪がふわりと揺れ、ハーヴェイの視界を占領した。彼はその姿を見つめながら、小さくため息をつく。


「足元に気をつけろ。転ぶといけない」


心配げな言葉だが、彼の声はいつも淡々としている。アリアはそれに気づかないふりをして、肩を小さくすくめた。


「そんなこと、あなたが気にする必要なんてないわ」


ハーヴェイはそれには答えずに、ただエスコートの手を差し出した。

この送り迎えは、貴族学園に入学した半年前から続いていた。






馬車留めでハーヴェイと別れる。彼は経営科、アリアは淑女科なので、教室が違う。入学当初、途中まで一緒に行こうと言うハーヴェイに嫌と返してから、彼はわざとアリアが学園に入るのを見送り、時間差で登校している。


学園の大理石の廊下は冷たい光を宿し、アリアの杖の先が石の床を叩く音が小さく響く。その音が妙に自分の歩みの遅さを際立たせているように感じられ、彼女は杖を握る手に力を込めた。いつも通りのことだ。それなのに、今日の廊下はどこか息苦しかった。


周囲から聞こえる囁き声――それは耳に触れる小さな針のようだった。


「あれがルーベント伯爵家の令嬢よ」

「呪われた髪と足……ハーヴェイ様も大変ね」


アリアは顔を上げ、凛とした表情を崩さなかった。ここで怯んではならない。そしてこれが、ハーヴェイと廊下を歩きたくない要因でもあった。彼にこんな情けないところを見られるのは嫌。そう素直に言えたらどれだけ良いだろうか。


「……好きでこんな髪に生まれたわけじゃないわよ」


小さな声で呟いたその言葉は、誰にも届かずに消えた。アリアは俯きかけた自分を奮い立たせるように背筋を伸ばし、教室の扉を開けた。





図書室は学院の中でも特に静寂が深い場所だった。薄暗い木製の本棚が天井近くまで並び、その隙間から漏れる光が埃を照らしている。ここはアリアにとって唯一、周囲の視線を気にせず過ごせる場所だった。けれども、今日は違った。


扉を閉じて振り返ると、メレディ・アラートとその取り巻きのマーメント令嬢が、図書室の中央に陣取って勉強会をしていた。アリアの姿を見つけるなり、二人の瞳に冷たい光が宿る。


「まあ、アリアさん。その足で図書室に来るなんて大丈夫?お家で大人しくされていたほうがよろしいのではなくて?」


メレディが微笑みながら、刺々しい言葉を投げる。メレディはハーヴェイを狙う女性陣の中で、唯一露骨にアリアに絡んでくる。身分が侯爵家なだけに、伯爵家のアリアにはあまり強く言い返すことができず、なにかと面倒な相手だった。


「ご心配ありがとうございます」

「メレディ様はあなたのご心配などなさらないわ。杖の音が図書室で静かに本を読む皆様のお邪魔にならないかとご心配されているのよ」


取り巻きのマーメント子爵令嬢の冷ややかな笑い声が図書室に広がる。


「私の杖よりもあなたの笑い声の方が煩いのではないかしら。本を読む気がないならご退室されたら?」


それだけを返すと、アリアは二人を無視して棚へと向かおうとした。けれども、その背中に再びメレディの声が刺さった。


「どうしてハーヴェイ様はあなたのような人と婚約なんてしたのかしら? ああ、そうか――あなたの足の怪我の責任を取らされたのね」


その言葉は、胸の奥にしまい込んでいた傷をえぐり取るようだった。アリアはやはり振り返らず、ただ一歩一歩、棚へと向かう。きーんと耳鳴りがする。


「こんな子と婚約するなんて、ハーヴェイ様もお可哀想に。老婆みたいな白髪に、歩けない足の女と結婚しなければならないなんて」


アリアは聞こえていないフリをして、そのまま図書室の奥にあるいつもの場所に向かった。

小さな頃から実録の冒険譚が好きなアリアにとってはとっておきの本ばかり並ぶそのエリアは、気づけば放課後のハーヴェイとの待ち合わせ場所になっていた。


窓から差し込む光が本棚の隙間を縫うように伸び、埃がその中で舞っている。アリアは杖を片手に、棚の上段にある分厚い本を見上げていた。


「どうしてこんな高いところに置くのかしら。意地悪ね」


小さく呟きながら脚立を手に取る。しかし、片足を乗せた瞬間、背後から影が差した。


「危ないからやめろ」


その声に振り返ると、ハーヴェイが立っていた。無表情な顔が近くにあることに、アリアは思わず心臓を跳ねさせたが、それを隠すようにわざと棘のある声を出す。


「いちいち私に構わなくていいと言ったでしょう?」


「構わないで怪我をされたら困る」


そう言うと、彼は躊躇なくアリアの体を片手で抱き上げた。そのまま軽々と本棚の前に立つと、目的の本を取り下ろす。


「ちょっ!!ちょっと!降ろしなさい!レディを持ち上げるなんて――!」


アリアが叫ぶように言葉を放つが、ハーヴェイはそれをまるで気に留めない。


「お前は確かにレディだが、俺の婚約者だ。これくらい許せ。あと図書室では静かに」


その一言に、アリアは黙り込む。顔が真っ赤になり、反論の言葉が見つからない。ただ彼の腕の中でじっとしている自分が、どうしようもなく恥ずかしい。


「別に、助けなんて必要ないわ。本くらい自分で取れます」

「そうか」


ハーヴェイは短く答えると、彼女をそっと立たせ、その手に本を持たせた。


「……ありがとうなんて言わないから」


そう呟くアリアに、ハーヴェイは微かに口元を緩めた。その笑みは彼女に見せるつもりはなかったかもしれないとアリアは思った。




✻ – ✻ – ✻ – ✻ – ✻ – ✻ – ✻



それはまだ幼い頃、初夏の光が降り注ぐ王宮の庭園でのことだった。

白い雲が青空に浮かび、花々が彩りを競い合う庭園の片隅に、アリアは一人座っていた。周囲に響く子どもたちの笑い声から逃げるように、彼女はその場を離れ、木陰へと身を隠していた。


「まあ、みて。あの髪。真っ白だわ」

「わたしもさっき見たわ。お母様が、呪いなんじゃかいかって言ってたわ」


そんな声が背中を追いかけてきた。彼女は小さな手で耳を押さえ、木の根元に座り込んだ。


目を閉じて、声が遠ざかるのを待っていると、どこからか猫の鳴き声が聞こえた。


「……?」


目を開けると、一本の高い木の枝に、小さな白い猫が震えながらしがみついているのが見えた。その姿は、まるで自分を見ているかのようで、胸がぎゅっと締め付けられるようだった。


「どうしてそんなところに……降りられないのね」


アリアは小さな声で呟くと、慎重に木に近づいた。足元の草が風に揺れ、葉のざわめきが静かに耳を包む。


猫を助けようと、アリアが手を伸ばしたその時だった。背後から柔らかな声が響いた。


「何をしている?」


振り返ると、小さな頃のハーヴェイが立っていた。幼い頃の彼はもう少し柔らかい顔立ちをしていて、今よりも薄いアッシュグレーの髪が陽に照らされて白金のように輝いていた。


「猫が……降りられないみたいなのよ」


そう答えるアリアに、ハーヴェイはふと笑みを浮かべた。それはほんの一瞬だったが、彼女には鮮烈な印象を与えた。


「俺が助ける」


彼はそう言うと、手を軽く掲げた。風の気配が変わり、周囲の空気が緩やかに揺れ始めた。その瞬間、猫の体がふわりと宙に浮かび上がる。


アリアは驚きの声を上げ、一歩前に出た。それは風魔法の中でも貴族の子供たちが学び始めに使う初歩的な術だったが、アリア達の年では使える者はそういない。


だが次の瞬間、風が揺れ、子猫の小さな体が宙で翻弄された。その影響で木々がざわつき、葉が激しく揺れる。


「危ない!」


アリアは猫を助けようと飛び出した。その小さな手で猫を抱きしめた瞬間、空が反転し、地面が遠ざかり、次に感じたのは全身を打つ鈍い衝撃だった。



気がついた時、アリアは芝生の上に横たわっていた。足に激しい痛みが走り、立ち上がることができなかった。


「大丈夫か!」


駆け寄ってきたハーヴェイの声が耳元で響く。彼の顔は蒼白になっており、その指は細かく震えていた。


「大丈夫。猫は無事よ」


アリアは震える声で答えた。笑おうとしたが、痛みのせいでうまくできなかった。


その日を境に、アリアは杖がなければ歩けなくなった。そして、ハーヴェイはその責任を取る形で、彼女の婚約者となった。






馬車の窓越しに見える風景が、過去の記憶と重なり合う。アリアは手のひらを見つめ、今でも心に残る痛みを思い出していた。


「あれがなければ、私はもう少し、未来の伯爵夫人に相応しかったかしら」


彼女の呟きは、馬車の中の静寂に溶け込んで消えた。その言葉が間違っていることはよく分かっていた。

なぜなら、あの事故がなければハーヴェイがアリアの婚約者になることはなかった。気持ち悪いと揶揄される白髪の自分を嫁にしようなどという人間は現れなかったに違いない。

心の中には、幼い頃から抱えてきた感情が絡まり合っている。


車輪が石畳を叩く音が止み、馬車が屋敷の前に着いた。扉が開かれ、先に降りたハーヴェイが差し出した手が彼女の前に現れる。


「……一人で降りられるわ」

「婚約者にする当然のエスコートだ」


触れた指先の温もりが、心の奥底に染み込むようだった。






夜が訪れると、ルーベント家の屋敷は静寂に包まれた。高い天井の梁が月光を受けて影を落とし、蝋燭の火が揺らめく廊下には、風が運ぶ微かな葉擦れの音が混じるだけだった。アリアは窓辺の椅子に腰掛け、膝の上にタマを抱えながら、月光に照らされた庭を見つめていた。タマはあの日、アリアとハーヴェイが助けた子猫だ。あの後、アリアが父に頼んで屋敷まで連れ帰った。


白い猫はじっと動かず、彼女の指先にすり寄る。その毛並みは柔らかく、どこか儚さを帯びている。それはアリア自身の姿を映しているかのようだった。


「……タマ、あなたは自由でいいわね」


アリアの声は風のように静かだった。その瞳は遠く過去を見つめるようで、けれどもどこか揺らいでいる。


自分の中に渦巻く感情が、まるで庭に落ちる月光の影のように揺らめいていた。







学園の昼下がり、裏庭には穏やかな風が流れていた。大きな木の葉がそよぎ、地面にまだら模様の影を落としている。アリアとマリアーナはそんな静かな裏庭に足を運び、野草が揺れる茂みの傍のベンチに腰を下ろしていた。


「本当にここは落ち着く場所よね。表の庭園よりずっと静かだわ」


マリアーナが微笑みながら言うと、アリアも同意するように頷いた。

その時、小さな白い猫が茂みから姿を現した。ふわりとした毛並みが陽光を浴びて輝き、無垢な瞳で二人をじっと見つめる。


「まあ、かわいい!」


マリアーナがすぐにしゃがみ込み、猫に手を伸ばした。アリアもつられるように近づき、杖を横に置きながら茂みの上に座り込んだ。淑女としては少しはしたないが、マリアーナのようにしゃがみ込むことは難しい。

そっと猫の背中に触れる。


「捨て猫……じゃないみたいね。人慣れしてるし、きっと誰かに可愛がられているのね」

「学園で飼われているのかも。こんなに人懐っこいもの」


その時、後ろから速い足音が近づいてきた。アリアが振り返ると、ハーヴェイが険しい顔で立っていた。普段の冷静さを欠いたその表情に、彼女は驚きの声を上げた。


「……ハーヴェイ?」


ハーヴェイは息を整える間もなく、彼女の側に駆け寄ると、鋭い目でアリアの姿を上から下まで確認する。


「怪我したのか?」


彼の声は低く、けれども明らかな焦りが滲んでいた。


「怪我? してないわよ。ただ猫を撫でていただけだもの」


アリアは首を傾げながら答えるが、その言葉は彼の耳に入らなかったかのようだった。ハーヴェイは彼女の杖を見つけると、一歩近づき、片膝をつくようにして彼女の足元に目を落とした。


「……すまない。少し動揺したようだ」


その言葉に、アリアの胸が小さく波立つ。この裏庭は、魔法の暴発によって怪我を負った場所に似ていることに気がついた。それに、目の前には猫。確かに彼が望まぬ婚約者を得てしまったあの事故の状況に似通っている。


「怪我はしていないわ」


アリアはもう一度念を押した。


「それに、もし怪我をしていたとしても、あなたのせいではないわ」


ハーヴェイは鋭い目で彼女を見た。その瞳の奥には、彼がどれだけその過去を気にしているかがはっきりと宿っていた。


「……お前がその足で苦労しているのを、俺がどれだけ見てきたと思っている」


彼の声は押し殺したように低かった。


「お前がまた怪我をしたら、俺は――」


彼の声が途切れる。

突然、ハーヴェイは彼女の体を抱き上げた。その動作は速く、アリアは抗議の声を上げる暇もなかった。


「ちょ、ちょっと! 何をするの!」

「立ちあがるのは大変だろう」

「そんなわけないでしょ! いつも一人で立ち上がってるわよ!」

「わめくな」


ハーヴェイの声は短く、それ以上の説明をするつもりはなさそうだった。


猫を抱えていたマリアーナが小さく笑い声を漏らした。その声に、アリアはハーヴェイの肩越しに友人を振り返った。


「ハーヴェイ様、随分と過保護なのね。本当にアリアのことが好きなのね」


その言葉に、アリアは顔を赤くして彼女を睨みつけた。


「そんなことあるわけないでしょう! 彼はただ、その、ちょっと責任感が強いだけなのよ!」


「またそんなことを言って……アリアって、本当に素直じゃないんだから」


マリアーナの微笑みに、アリアは言い返す言葉を失った。その時、ふとハーヴェイの声が再び彼女の耳に届く。


「その猫はオスだな」


短い言葉だったが、その口調には僅かな苛立ちが含まれていた。


「ええ、オスみたいだけど、それが何?」


アリアが怪訝そうに聞き返すと、ハーヴェイはそっぽを向きながら小さく呟いた。


「タマはメスだ」


その一言に、アリアは呆れたようにため息をついた。


「だから、それが何だと言うの?」


けれども、その問いに対する答えは返ってこなかった。ただ、少し気まずそうにした彼の顔が僅かに赤くなったのを見て、アリアは「なんなの」と困惑の声を漏らした。


風が吹き抜け、草花を揺らす。その中で、アリアとハーヴェイの間に静かな空気が流れる。

どくんどくんと自身の心臓の音がうるさかった。



✻ – ✻ – ✻ – ✻ – ✻ – ✻ – ✻


ハーヴェイ・アウラートの子どもの頃の記憶の中で最も鮮烈な印象を放つのは、初夏のある日、王宮の庭で見かけた白い髪の少女の姿だった。陽光を浴びた彼女の髪は、雪のようにきらめき、その中で薄紫の瞳がどこか不安げに揺れていた。


子ども達のプレデビューを兼ねた顔ならしのお茶会の席で、彼は彼女を遠くから眺めていた。白髪と薄紫の瞳。それだけで多くの者が彼女を遠ざけているのがわかった。

女の子は凛と背筋を伸ばして、行儀良く椅子に腰掛けている。

ハーヴェイの目には、その姿がとてもとても美しく映った。


「呪われた髪ですって。怖いわ。彼女に近寄ると老婆になってしまうかもしれないわ。」


近くの令嬢たちの囁き声が耳に入った。ハーヴェイはただ彼女を見つめ続けていた。

やがて彼女は席を立ち、そっと庭園へと向かう。その後ろ姿を見たハーヴェイは、気づけばそのあとを追っていた。



庭園には柔らかな木漏れ日が差し込み、色とりどりの花々が咲き誇っていた。風が吹き抜け、草木を揺らす音が心地よい静寂を生んでいる。アリアは花壇の傍に立ち、空を見上げていた。その姿にはどこか孤独が漂っていた。


「どうしてそんなところに……降りられないのね」


小さな声でそう呟く彼女の目線の先には、木の高い枝にしがみついている白い猫がいた。その小さな体は風に揺れ、今にも落ちそうだった。


彼女が猫に手を伸ばそうとした瞬間、ハーヴェイは茂みの陰から姿を現した。


「俺が助ける」


彼の突然の声に、アリアは驚いたように振り返る。

彼女が次の言葉を発する前に、猫を助けるべく風の魔法を唱えた。それは一番初めに習ったとても得意な術だった。


猫の体がふわりと浮かび上がる。この時、ハーヴェイの心には、一目惚れした女の子にかっこいいところを見せたいという子どもらしい高揚感があった。

その時だった。


猫が浮かび上がる瞬間、アリアが一歩踏み出した。驚いた彼女の動きに反応したハーヴェイの魔力がわずかに揺らいだ。それは普段の彼なら制御できる些細なことだった。


けれども、彼女の髪が風に舞った瞬間、彼の集中は途切れた。


「危ない!」


風が突然暴れ出し、制御を失った魔法が暴走した。猫が投げ出されたのを見たアリアが、その小さな白い体に手を伸ばす。運良く猫をキャッチした彼女は、運悪く花壇に突っ込み、煉瓦で足を強く打ってしまった。


ハーヴェイが駆け寄ると、アリアは草の上に倒れていた。彼女の膝下からは血が滲み、痛々しい傷が見えた。彼女の腕の中には子猫が抱きしめられていた。


「猫は大丈夫よ」


震える声でそう言う彼女の瞳には、痛みを堪えながらも安心の色が浮かんでいた。その姿に、ハーヴェイの胸は締め付けられた。自分のせいで彼女が傷ついた。それでも彼女は、猫のことを気遣っている。


「俺が……俺が悪かった」


彼はその場で何度も謝罪を口にした。騒ぎを聞きつけた大人達が駆け寄ってくるのを感じながら、ハーヴェイはずっと、ただただ謝罪をしながら震えているしか出来なかった。




数日後、ハーヴェイは母親とともにルーベント伯爵家を訪れた。アリアのお見舞いを申し出た彼に、母親は驚きながらも許可を与えた。


ベッドに横たわるアリアは、枕元にタマを置きながら本を読んでいた。


「あら?あなた、あの時の……」


彼女は彼を見つけると、少しだけ眉を寄せた。その言葉に少しの棘を感じたが、ハーヴェイは怯むことなく彼女に近づいた。


「怪我をさせて……本当にすまなかった」


彼の言葉は短かったが、そこには深い後悔が込められていた。アリアは一瞬、驚いたように彼を見たが、すぐに冷たい表情を装った。


「猫は元気よ。あなたが謝る必要なんてないわ」


その言葉に、彼はかすかに眉を寄せた。


「それでも……俺が君を傷つけた。本当に申し訳なかった」


彼の瞳には決意が宿っていた。その言葉の意味を悟ったアリアは、驚きと困惑が入り混じった表情を浮かべた。


「大丈夫よ。あれはただの事故だったのだし、あなたが気にすることはないわ。お互いにもうこの件のことは忘れて、もう関わらないようにしましょう」


タマが彼女の膝の上で甘えるように鳴いた。その瞬間、彼女の表情が少しだけ柔らかくなった。


「俺は責任を取って、君と婚約したいと思う」


唐突な言葉に、部屋の空気が凍りついた。遠くで聞いていたハーヴェイの母親が「え?」と驚きの声を漏らすのが聞こえた。


「……何を言ってるの?」


アリアの声には困惑が滲んでいた。しかし、ハーヴェイは視線を逸らさず、まっすぐ彼女を見つめ続けた。


「今度は必ず、君を守る。これからは怪我なんて一切させないと約束する。それを証明する機会をくれ」


その言葉は、まだ幼さの残る彼にしては異様に重く、強かった。


母親が、「こ、こら! まだ療養中のご令嬢にいきなりそんなことを!」と慌てて口にするのを横目に、彼は心の中で決意していた。

どんなことがあっても、この婚約を実現させる。

絶対にどんなことからも彼女を守る。

それが例え自分自身からでも。




✻ – ✻ – ✻ – ✻ – ✻ – ✻ – ✻




曇り空が静かに動き始める早朝、冷たい光がルーベント家の窓硝子を薄く照らしていた。アリアは窓辺に立ち、馬車を見下ろす。扉から優雅に降りたハーヴェイの姿は、いつものように凛としている。


「今日も、また来たのね……」


誰にも聞かれることのない小さな声で呟く。胸の奥で何かがざわつくのを感じるけれど、それを無視するためにわざと眉をひそめた。


「責任なんて取らなくて良いのに」


そう言葉に出す度、なぜかその言葉が胸に引っかかる。彼の冷たいようで温かい視線、いつも真っ直ぐな態度――あのすべてが、怪我による責任なんか関係なくアリアに向けられるものだったならーー


「……そんなこと、あり得ないわね」


そう自分に言い聞かせながら、侍女促され玄関へと向かった。その足取りはいつも通りを装っていたが、杖を握る指が微かに震えていることに気づくのは、本人だけだった。




玄関を出ると、冬の風が頬を撫でた。庭木の間を抜けてくる冷たい空気が、アリアの白い髪を軽く揺らす。風が彼女の身体を通り抜けるその一瞬だけ、彼女はハーヴェイの視線を感じ取った。


「おはよう」


いつもの短い言葉。ぶっきらぼうで、何を考えているのか全然わからない。

さらに次の瞬間にはアリアを抱き上げていた。


「ちょっと! 降ろして! 自分の足で歩けるって言ってるでしょ!」


必死で抗議するが、彼は一切耳を貸さない。腕の中は安定していて、何かに守られているような感覚が、さらに彼女を苛立たせる。


「お前が自分で歩いているのは危なっかしい。それを悠長に見ていられるほど、俺は寛大じゃない」


静かに告げられたその言葉に、アリアは一瞬息を呑む。彼の顔は変わらず無表情だが、その声の奥には確かな優しさが宿っていた。


「と、とにかく降ろして!」


肩を叩いくが、彼の腕は揺るがない。

馬車の中に降ろされた瞬間、アリアはすぐに距離を取った。前に座る彼の気配が重く感じられて、胸がざわついて仕方がない。


「……なんなの。本当に。淑女を抱えないでって言ってるでしょう」


わざと冷たい声を出したが、彼はその言葉を意に介さない。


「どうしても俺が抱えたかった」

「な、なにそれ」

「言っただろう。危なっかしいと。転ぶのではないかと思うと気が気でないんだ」


その一言に、何も言い返せなくなる。

馬車の中に漂う静寂の中で、彼が何も言わず前に座っているだけで、心が妙に落ち着くのが悔しかった。





学園に到着すると、また彼に抱き上げられたまま馬車から降ろされた。周囲の学生たちのざわめきが耳に入るたび、アリアの頬はどんどん赤く染まっていく。

アリアは淑女らしさなんてすべて忘れて叫んだ。


「や、やめて!見られてる!見られてるから!」

「見られて困ることがあるのか?」


涼しげに返され、言葉を詰まらせる。抱え上げられたままの状態に耐えられず、アリアは必死でその肩を叩いた。


「もう、いいから! 自分で歩けるってば!」


ようやく彼に降ろされると、杖を手に持ち、足早にその場を離れた。彼の視線が背中に刺さるのを感じると、胸の中が熱くなる。ああ、悔しい。どうして自分だけがこのように動揺しなければならないのだろうか。





「おはよう。アリア!今日は朝からラブラブだったらしいわね」


廊下で声を掛けてきたのはマリアーナだ。

アリアは真っ赤な顔のまま振り返った。


「もう!そんなんじゃないの!いつもの過保護よ!」

「まあ、照れちゃって」

「本当に違うのよ!恥ずかしいからやめてって言ってるのにやめてくれないし……」

「まあ、なんてこと。まるでハーヴェイ様が勝手にやってるとでも言いたいような口ぶりね」


後ろから、大袈裟に驚いたような声がする。

ミレディが、嫌味たっぷりの笑みを浮かべて近づいてくる。


「まるで特別待遇のお姫様でも気取っていらっしゃるのかしら。怪我を理由にあんなことをハーヴェイ様に無理矢理させるなんて、どういう神経をされているのかしら」


「……あら。ごきげんよう。ミレディさん。羨ましいなら、あなたもハーヴェイに頼んで抱えていただいたら?」


「……っ。なんて人なの。本当に、嫌な人。そもそも、杖がなければ歩けない方なんて、未来の侯爵夫人にふさわしいとは思えないわ」


ミレディの言葉が胸を刺す。けれども、アリアは表情を変えずに立ち続けた。


「ふさわしいかどうかはあなたが決めることじゃないわ」


その言葉にミレディがさらに声を荒らげようとしたその瞬間、背後から鋭い声が響いた。


「何をしている?」


振り返ると、そこにはハーヴェイが立っていた。冷たい空気を纏いながらも、その榛色の瞳が真っ直ぐにミレディを捉えている。その視線だけで、廊下にいた全員が静まり返った。


「俺の婚約者を侮辱するのは、俺を侮辱するのと同じだ。そして俺を侮辱することは侯爵家を侮辱するということだが、それを踏まえていての発言か?」


ミレディの後ろに控えていた令嬢達の顔が青ざめる中、ミレディはかすかに怯えながらも強がりを見せた。


「私は事実を述べたまでですわ。こんな走れもしないような方がふさわしいと仰るのですか?」


「伯爵夫人が走ることなどないだろう。そういう状況が万が一あったとして、俺が抱えるから問題はない。というより、惚れた女を抱き抱えるのはある意味男の夢だ。あまり人の楽しみを取ってくれるな」


その言葉が響いた瞬間、アリアの心臓が止まりそうになる。


「ちょ、ちょっと! 何言ってるのよ!」


声が裏返りそうになりながらも必死に否定する。ハーヴェイは微かに口元を緩め、静かに答えた。


「こういった批判があるのは、態度に示しきれていない俺のせいもあるだろう。なので、俺はもう我慢しない」

「……なにを我慢しないのよ」

「アリア。君は誤解している。確かに俺はあの事故を後悔しているし、君が傷つくことを人一倍恐れている。だがそれは、責任感からだけのものではない。君を危険に晒してしまった俺がこんな事を言うのは虫が良いかもしれないが、それでも許されるなら聞いてほしい」


杖を握る手を上からそっと包み込むと、ハーヴェイは真剣な顔で言った。


「君を愛している。初めて君を見たその時から。学園を卒業したら、俺と結婚してほしい」


その言葉にアリアはそれ以上何も言えず、顔を伏せたままくるりと背を向け、まるで初めて歩いた赤子のように、よたよたと歩き出した。それを、ハーヴェイが追いかける。

生徒たちがなんとなく道を開ける中、アリアの足に合わせたゆっくりとした追いかけっこはしばらく続いた。


「つ、付いてこないで!」

「どうして」

「どうしてもよ!」

「アリア」


アリアの前に回り込んだハーヴェイは、真っ赤な顔で震えている初恋の女の子を見て、ふわりと笑った。


「それは、了承ということでいいか?」

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