8 蹂躙の世界
「ここが私たちの隠れ里だ」
どれくらいの間、少女――エルトロに情けなく抱きかかえられたまま時が経ったのだろう。
不意に彼女は立ち止まると、その男勝りな口調とは裏腹な優しい所作で、シノブを地面に降ろした。
シノブは、ポケットに収まっていた懐中時計を手に取る。
時計の針は、0時45分を指している。
無論午前か午後かもわからない。
鬱蒼としたジャングルのような場所にいるものの、空は青い。が、明るいからといってここは異世界なのだから時間の概念はきっと地球とはまた異なる。
異なるだろうが、あの時――シノブがまだ美少女エルフの姿をしていたころ、最後に時計の針が指していたのは午前0時間近だった。
仮にあの時からそのまま『時間』が流れているのだとしたら、いまは夜中の一時近くということになる。
しかしもはや、そんなことシノブに考え込む気力などなかった。
理由なんか今はもうどうでもいい。
ここにいるのは『オールクラフト』で皆を幸せにしてあげた美少女エルフではなく、こんな年端もいかぬ少女に助けられた禿げた中年なのだから。
――なにより、化物が支配する【Fランク】の異世界――『ゼ・ルドー』だというのだから。
「私たちの里……といっても、もはや私の知る限りヒトはここにしか住んでいないんだけどね 」
エルトロの憂いを帯びた声に、シノブは顔を上げた。
彼女は行き止まりになっている巨大な岩壁の前に立ち、まるで祈りを捧げるように両手を合わせている。
「でも、私はお前を知らないし、お前も私を知らない。
もしかしたらまだここみたいな隠れ里が大陸のどこかにはあったりするのかな……。みんな、お前を紹介したら喜ぶと思うよ」
――喜ぶ? 俺を紹介して?
チートスキル持ち美少女エルフならともかく、こんな何の能力もないに違いない枯れ切った中年を紹介して誰が笑顔になるというのか。
「……ここの里は代々五十年、私の曾祖父――『勇者ダムス』の代から守り続けてる里だ。
ダムスの血を持つ者だけが使える守護魔法――『セイン・トワエル』によってね」
そう言って、彼女がなにか呪文のようなものを唱えだす。
すると、みるみるうちに彼女の体が光の膜に覆われるように淡く白く輝きだす。
もしシノブが『グリンパウル』で魔法というものをこの身で味わっていなかったら、目を見張る光景だったろう。
岩壁はまるでスクリーンに投影されていただけだったかのように溶けていき、やがてそこに一つの集落が現れた。
なるほど、この岩壁は里を隠すカムフラージュとなっている魔法の幻影かなにかで、いまエルトロが唱えたのがそれを解除する術といったところなのだろう。
どこかのゲームかアニメで見たような魔法だ。今更驚くこともない。
なにせ、ついさっきまで自分が使っていた魔法のがきっともっと高度な術だったのだから。
「さあ、奴らに見つかる前に早く入るぞ。まずは食事と休息が必要だろう。――立てるか?」
「……ありがとう、一人で歩ける」
どうせロクでもない世界だとわかっていても、プライドがゼロになるわけではない。
これ以上中学生くらいの女の子に抱えられるわけにはいかない。
シノブはよろよろと立ち上がり、隠れ里に足を踏み入れた。
背後ですぐにエルトロが呪文を唱え始め、里の入り口に「岩壁のカーテン」を再び張り巡らせた。
「シノブ。この里の人間ではないにしても……なにか見て思い出さないか?
どんな場所に住んでたかとか、誰か懇意にしてる者などはいたかとか……」
「……生僧……すまないね」
もちろんシノブは日本で生きてきた二十九年間を覚えているし、先ほどまで美少女エルフとして生きていた束の間の二十四時間も覚えている。
けれど、そんな記憶を彼女に伝えたところで何の意味もないだろう。
二人はゆっくり、歩を進める。
隠れ里、というだけあって非常に小規模な人里だ。
丸太で組んだ家々が小さな丘に数件ある程度。どうやら魔法の類はあるようだが、文明レベル自体は決して高くない。
ひとまず私の家に案内する、と言った彼女について歩いている間に、里の人間に何度も声をかけられた。
「エルトロ様! その御仁は!?」
「まさか里の外にヒトが……!?」
「疲弊なさっているご様子……! まさかやつらに襲われて……!?」
「エルトロおねえちゃーん? そのおじさまだーれ?」
「おお……まだこの里以外にも生き残っているヒトが……!」
先ほどエルトロがぽつりと言っていたが、この驚き様は確かに、ある意味この世界の絶望であり、【Fランク】たる所以なのだろう。
もはやこの里に住んでいる人間はこの里以外の人間を知らないのだ。
恐らくあの化物――アシュ族とやらに蹂躙されて。
「騒がしくてすまなかったね。……でも、『ゼ・ルドー』という世界がどんな世界だったか、さすがに思い出してきたんじゃないかな?」
家に案内するなり、彼女は言った。
しかし思い出すも何も、シノブがこの世界について知っているのはあのハローワークで見た資料の情報のみである。
「とりあえずベッドで横になってて。――ああ、私に気を遣う必要は全然ないからね。慣れてる」
言いながら、エルトロは頭のターバンを解いた。
ふぁさり、と滑らかな碧色の髪が肩を滑る。改めて見ると、思わず目をそらしてしまうほどの美しい少女だった。
しかしそんな少女にときめく余裕も、少女が使っているであろうベッドに包まれることへの恥じらいも、シノブにはない。
ただ言われるがまま、体と精神の疲弊に従うがまま、部屋の脇のベッドに倒れ込んだ。
「……ご両親は?」
とはいえ、この状況をなにか勘違いされても居心地が悪い。念のため尋ねた。
「いるわけないだろう?
――ってああ、すまない、記憶がないんだったな……」
ベッドの横の椅子に座りながら、エルトロはなにか饅頭のようなものをシノブに差し出した。
しかし食欲なんてかけらもなかったので首を横に振った。
「ここに来るまでの間、里の者を見たろ? 大人なんていたかい?」
「…………」
そういえば、みんな子供か、エルトロよりも少し歳が上程度であろう者しか見ていない。
「私たちは自分たち『ヒト』って種族が本来どれだけ長く生きられるかを知らない。
みんな三十歳になるまでには死ぬ。――いや、殺されるから。アシュ族によってね」
「……!!」
「私たちの知る限り、三十六歳で勇敢な死を遂げた我が曾祖父――『勇者ダムス』がヒト史上最も長生きしたヒトだ」
三十六歳で、曾祖父とは。
見たところエルトロは十五歳前後だ。子孫繁栄のため、血を絶やさぬため、彼女の母も祖母も日本の法律ではおよそ不可能な年齢で子を産んだのだろう。
「私も……とっくに子供がいなきゃいけない、年齢、なんだけどね…………」
エルトロは少しだけ顔を赤らめて、シノブから目を逸らした。
……おそらく、子孫を作る方法はシノブの知る行為と同様の類なのだろう。
「でも、お前も割と長生きしてるようだな。まさか曾祖父ほどではないだろうけど……」
当然シノブには今のこの姿の年齢などわからない。
先ほど懐中時計に映った情けない顔を見る限り、割と『ダムス』と張り合えそうな年齢だとは思うが……
「……守護魔法で守られている限りこの里がアシュ族に侵略されることはない。
それでも生きるための食糧を得るためには里の外に出ていかなければならない。
……何度里の場所を変えて、やつらにバレないようにしても、一歩外に出ればやつらはどこにでもウジャウジャ湧く。
そして一度見つかればほぼ100パーセント助からない」
「……アシュ族 っていうのは、何のために君らを?」
尋ねると、意外にもエルトロは少しだけ微笑んだ。
はじめて見る、年ごろの少女らしい可憐な笑みだった。
「ふふ……お前は本当になにも知らないんだね……。なんだか新鮮で、つい笑ってしまった。すまない。
お前は至って真剣なのにな」
「いや……」
――笑っていた方が君は可愛いよ。なんて、そんなことは言えなかった。こんな容姿では。
【残り 22時間48分59秒】




