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39 月がきれい

 ――残り、二十分? だって?

 いや、確かに体の怠さや感覚からかなりの時間は経ってしまっただろうと予測はしていたが、まさか残り三十分も切ってしまっているなんて……!


「――シノブさん? どこか体の具合、悪いですか?」


「いや……」


 時計を見て顔面蒼白になっているシノブは当然不審であり、優しいルーメは心配そうに顔を覗き込んできた。


 そのルーメのいつもの優しさと、この時計と、窓から差し込む美しい夕陽を見比べていたら、不思議と呼吸が穏やかになった。どうやら長時間の睡眠はシノブの肉体だけでなく、精神も大分回復させてくれたらしい。



 ――それにしても、約十時間も眠っていたのか。大寝坊もいいところ…………いや、そうでもないのか……。


 一日一回、異世界転生。二十四時間ぴったりでその異世界での暮らしは終わり。

 そういう呪いだが、しかし呪いとは無関係に、ふつうの人間は二十四時間ずっと起きたままフル活動しているわけではない。長い引きこもり生活のおかげで昼夜逆転していたシノブでさえ、さすがに一日のどこかで仮眠をとらなければ生活することは難しかった。


 このイマジェラに転生してからは、ハーゾフ牢獄で少々仮眠をとったのみだ。まともな睡眠らしい睡眠は今回が初めてといってもいい。しかもあれだけのことを成し遂げてしまったあとだ、体や心に蓄積した疲労は現実世界の比ではない。


 ――そうか……よく考えれば当たり前だけど、たった二十四時間でも、二十四時間をフルに使って生きられるわけじゃないんだよな……。

 俺に与えられた時間はその見た目よりももっともっと少ないってことか……。


 いや、いまはそんなことどうでもいい。いまはそれよりも――――



「……あれから……どうなった……?」


 シノブは、恐々尋ねた。


 あれから、とは、もちろん自分たちがハーゾフを脱獄しこのルーメの隠れ家に来てからだ。

 十時間も経過したのなら、少なからず事態が進展しているはずである。


「大丈夫です。たぶん、みんなで考えた作戦通りうまくいっています。ここに隠れるしかない以上、あたしにもわかる情報は他の国民の皆さんと大差ないんですけど」


 ルーメは鏡台にあった丸椅子をベッドに引き寄せて、そこに座りながらバツが悪そうに苦笑いした。


「あたしも結構寝ちゃってたんで、完璧に情報収集できてるわけじゃないんですけど」


「なにか、情報を収集できる手段があるのかい? 文字魔法とか?」


 そういえば、いきなり投獄されてしまったからこの世界の文明レベルというものをほとんどシノブは知らない。テレビやラジオといった類のものはあるのか。新聞や雑誌のような紙媒体の情報誌なんかはあるのか。


「はい。『伝言』っていうんですけど、国とか情報専門派閥が毎日唱えてる文字魔法があります。その日起こったニュースとか事件を伝える魔法ですね。

受け取る側は、マギアペンで一言『受信』って書くだけです。伝言は基本朝と夕だけの配信なんですが、今日みたいな大事件が起きると号外的にリアルタイムで配信し続けたりするんです」


 つまり、新聞やネットニュースのようなものか。


 ルーメはシノブの枕元にある小さな机の引き出しからマギアペンを取り出すと、短く『受信』と空中に刻んだ。


 すると、シノブの『世界照会(グランドボタン)』のように虹色の光とともに紙切れが顕現し、それは一枚では終わらず二枚、三枚、四枚と次々現れてはひらひらシノブのベッドに舞い落ちた。


 紙が出現し続ける中、シノブは一枚一枚それを手に取って中身を読んだ。



〝イーアザッド・ユーマス会長、男と熱愛発覚! 相手はルインフォーク家の隠し子スレイ・ロック氏〟


〝新種の伝達魔法の一種か? ハーゾフ牢獄近郊都市モンゼルピアの住民百二十万人が声を聞く〟


〝気品さのかけらもない二人の口論、百万人の国民にリアルタイムで配信。ショックのあまり病院に搬送される人多数。現場は大パニック〟


〝イーアザッド会長、権力濫用で不正に国民を投獄の疑い。一人はラインメッセ家のご息女との報道〟


〝イーアザッド会長とスレイ氏、共に精神状態が著しく不安定のため国営病院へ緊急入院〟


〝『アイクスオス文豪』の没落、解体は免れない〟


〝騒ぎに乗じて複数のノットラックス人が牢獄を脱獄か? 保安派閥の迅速な対応が望まれる〟


〝脱獄ではなくこのスキャンダル暴露こそが目的だったという噂も? 声を聞いた住民たちが多数証言するも、混乱を極めていたためか証言は複数存在〟


〝壁に刻まれた文字魔法が存在か?〟


〝脱獄したと思われるルーメ氏とシノブと名乗る若い男性の行方は不明。この二人がすべての計画を実行していたという噂も。保安派閥が全力で行方を追う〟



「……すごいな、こりゃ……」


 思わず言葉が撞いて出てしまう。まるですべてゴシップ記事の一面のようだ。


「イーアザッドとスレイは入院……二人の悪事もスキャンダルも暴露……派閥は解体……国民は失望と激怒の中にいる……うまくいきすぎなくらい、作戦成功だな」


「……はい」


 微笑みつつも俯きがちなルーメの横顔に、ほのかに影が差す。その影の理由は明白だった。


「……スレイのことが気になる?」


「!…… えへへ、シノブさんにはすぐバレちゃいますね」


「俺じゃなくたってわかるよ。あんなヤツでも、スレイはルーメさんに文字塾を開かせたきっかけだ。ここまでの目に遭わせる必要はないって、作戦決行の瞬間まで君は顔が曇ってた。今もね」


「……でも、これで良かったんです。

復讐とか因果応報とか、そういうんじゃなくて、あたしたちは正しいことをしました。イーアザッド会長は私的な理由で派閥権力を利用して、スレイさんは監獄長の息子という立場を利用してハーゾフ牢獄を自分の庭のように扱ってました。

権力の不正な濫用は、この国では重く裁かれる罪ですから。


……ですから、別にあたしは、男女の恋愛とか、二人が愛し合ってたことに対して、どうこう言うつもりはないんです。罰を与えるつもりもないんです。

……結果的には、そういうことになっちゃいましたけど」


 まったく、この子はどこまで聖人なんだ。

 シノブが聞いているのだから、ルーメだって間違いなく()を聞いているだろうに。あの二人の非人道極まりない会話を。ルーメを拷問すると。裸にして浮浪者に襲わせてやると。


 そのスレイの暴言にショックを受けていないはずないだろうし、今も苦しんでいるだろうに。それなのに彼女は、まるで自分だけが辛いわけじゃないとでも言うように気丈だ。それでいて、どこか儚い。


 恐らく、彼女自身の家庭の事情や過去も関係しているのだろう。

 それを深く聞くつもりもないし、シノブにはもうそんな時間も残されていない。


「それにしても、随分と俺たちのことも記事にされちゃってるようだけど、ここは安全なのかい?」


 【残り 00時間12分56秒】


 時計を見ながら、シノブは話題を変えた。


「とりあえず『ハイク』で隠匿魔法はかけてあります。古語の術なんで、並大抵の解除魔法では解除されないです。

……でも、あまり長居はできないですね。イーアザッド会長に次ぐほどの魔法使いがここを見つけたらすぐバレちゃうと思うんで」


 シノブは、先の戦いであっという間に自分の隠匿魔法を解いてみせたイーアザッドの凄まじさを思い出した。


「なので、もうちょっと休んだらまた場所を変えましょう! ここは都市モンゼルピアに近いんで危険ですし。

シノブさんには不便かけちゃいますが……その……しばらくは二人で逃亡生活、です」


 ルーメは少し顔を赤らめた

 それは、これから先もシノブと一緒にいて、ほとぼりが冷めるまでは一つ屋根の下で二人で暮らしていくことになる、という恥じらいからだろう。


 本当だったらシノブも顔を真っ赤にしているであろうシチュエーションだ。女の子と二人、一緒に暮らしながら逃亡生活を送るなんて。危険も伴うだろうけどなんだか夢のようだ。


 しかしそれは夢のよう、ではなく、ただの夢であることをシノブは知っている。知っているから、照れながらも幸せそうに微笑むルーメの顔を見ることができなかった。


「あいつら、まさかあんなにぺらぺら俺のことも喋るなんてな……。

どちらかというと、世界はルーメさんじゃなくて俺を追うと思うよ。なんてったってシノブって男は指で文字魔法が使えて壁にも刻めるって噂になっちまってる。

それに、ルーメさんは貴族だし無実だ。派閥を追放されたのだって言いがかりだ。被害者でしかない。俺と一緒にいるより――」


「イヤです……!」


 俺と一緒にいるより、君は一人でいたほうが安全だ。

 そう言いかけた真意はあと数分で消え去ってしまう自分のことなんて気にかけないでいいというシノブの願いだったが、掻きむしるような声でルーメはそれを遮った。



「あたしは、シノブさんと一緒にいたいんです……!」



 涙を両目にいっぱい溜めて、シノブの目を射抜く。



 【残り 00時間9分40秒】



 懐中時計がその涙を金色に反射して、シノブはその眩しさに目を逸らす。


 ――だめだ。だめだ、やばい、俺。泣きそうだ。ここで泣くなんて意味不明なのに。彼女を困らせちゃうだけなのに。


 だからこらえなきゃ。もう二度と出会うことはない、永遠の別れがすぐそばまで来てるって、そんなこと思いもしない目の前の彼女のために。



「……サロゼルフたちは無事かな」


 しばらくの沈黙の後、またシノブは話題を変えた。


「……はい、きっと。思いがけず離れ離れになっちゃいましたけど、捕まったってニュースはないです」


「骨に刻んでおいた隠匿魔法もあるしな。透明人間のまま、無事逃げられたんだろう。

……ノットラックスに帰るのかな。俺たち、見捨てたと思われちゃってるかもしれないし」


「大丈夫です! あの義理堅くて体も心もおっきいサロゼルフさんがそんなこと思うはずありません!

あたしたちのニュースを聞いて、きっと心配してくれてます。必ずあたしたちの助けになってくれるはずです」


【残り 00時間6分06秒】


 シノブも同感だった。サロゼルフたち、ノットラックスの誇り高き戦士たちは、決してルーメをこのまま見捨てない。一人にしておかない。


 だからこそ、安心してこの世界とさよならすることができる。


 ただ――――


 ただ――安心することと、この世界とさよならすることの悔しさは、まったく別であり。


 唇が否応なしに震え出す。

 今にも溢れ出しそうな涙を必死にこらえて。



 【残り 00時間4分49秒】




「月がきれいですね」



 ふいに、ぽつりとルーメが呟いた。


 シノブは驚いてルーメを見た。ルーメは、遠い目をして、窓の外の夕焼け空を眺めていた。


「月……?」


「はい。この季節は空が澄んでるから、夕焼けの中にも白い月が見えます」


 シノブもルーメにならって窓の外を見上げた。

 たしかにそこには、雲一つない赤紫色の美しい空に浮かぶ、まあるく白銀に輝く月があった。


 ――月……この世界にも、月……? いや、自動翻訳機能が俺にも通じるように勝手に翻訳しているだけか……



【残り 00時間2分25秒】



 しかし、確かにあの空の天体はシノブの知る地球から見る月そっくりの姿だった。



 月がきれい。



 いくら学がないシノブでも、日本語だけにあるその言葉に秘められた奥ゆかしい気持ちの逸話は知っている。


 そしてもちろんルーメに深い意図がないのもわかっている。



【残り 00時間1分43秒】



 それでも不死魔法によって未だ活性化しているらしいシノブの脳は、カウントダウンがゼロに迫るにしたがい、すうっと、ミントのように清涼に澄み渡っていく。



「月か……。ルーメさん、俺、実は少しだけ記憶が戻ったんだよ」


「ほんとですか!?」


「ああ。なんで俺が『ハイク』を使えるかってことだけだけど。俺がいた世界には、俳句よりももっと歴史が古い、和歌ってやつがあったんだ」


【残り 00時間00分59秒】


「『ワカ』……? ん……? シノブさんがいた、世界(・・)って、どういう意味……?」


「俳句は五・七・五。和歌は五・七・五・七・七が基本なんだ。

月を見て思い出したよ。今、俺の〝指〟で和歌を描くよ。君にあげる。素敵な言葉だ。君ならきっと、俺なんかよりずっとうまく綺麗に唱えてくれる」


 目を丸くしたままのルーメに向かって、シノブはゆっくり右手を掲げる。そして念じて、人差し指を虹色にかがやかせた。



【残り 00時間00分13秒】



「『君にいかで 月にあらそふ ほどばかり

めぐり逢いつつ 影を並べん』



 ――毎晩闇夜で出逢う空の月と競うほど、恋しい貴女とめぐり逢い、ずっと肩を並べていたい。



 きれいな月そのものを、愛と訳した古人たち。


 当時は頬杖をつきながら「くだらない」と授業を聞いていたシノブだったが、今少し、彼らの気持ちがわかった気がした。



「さようなら、ルーメさん」



 時計の針の音が聞こえる。この世界の終わりを告げるカウントダウンが聞こえる。



 行きたくない。


 ずっとこの世界に留まっていたい。


 もっともっとルーメさんと話したい。笑いたい。一緒にいたい。




 懐中時計は、残り五秒。


 とうとう我慢できずに、シノブは泣いた。


 シノブが指で描いた月の和歌は、美しい文字のまま虹色に燦然と輝いている。


 最後に見えたのは、涙でぼやけた向こう側にいる、ルーメだった。月の和歌をきらきらとした瞳で見つめる、希望に満ちたルーメの笑顔だった。





【残り 00時間00分00秒】

これにて第2章「言の葉の国・イマジェラ編」完結です。

初めて主人公が絶望の中で希望を見出し、初めて人としても成長する、この物語の本当の意味でのプロローグとなる章でした。


ここからは転生時計の謎に迫りつつ、またイマジェラとは全く違う設定と世界観の異世界を描いていきます。


次章はまたこれまでと遥かに異なる展開となる予定ですので、ぜひこれからもお付き合いいただければ幸いです!


よろしければ評価・ブックマークしていただければ執筆の励みになりますので、何卒よろしくお願いします!

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