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35 雀の子そこのけそこのけお馬が通る

 その瞬間は、ほぼ打ち合わせ通りであった。


 脱獄作戦開始前、イーアザッドとスレイの一大スキャンダルを世に暴露しながら、脱獄すらも図る。


 それが簡単なことではないのは最初からわかっていた故、あらゆる展開や状況を想定し、そしてあらゆる文字魔法を準備して策を講じてきた。



 いま、シノブとルーメに同時に降りかかっているこの状況。


 この状況は、想定していたケースのひとつだった。


 二手に分かれるも、片方はイーアザッドと遭遇し、片方はスレイと遭遇する。できればどちらも交戦せず話し合いで時間が稼げればベストだった。ルーメにしてみればスレイともっと話ができていることがベストだったろう。



 ただ、ベストではないにしろ、この状況は比較的ベターであった。


 ――そう、隠し持っていた(・・・・・・・)この文字魔法を同時に使えるという点では――




「――いまだっ、ルーメさん――!」


「――いまですっ! シノブさん――!」


 シノブとルーメは、伝達魔法で息を合わせながら、同時に右腕の袖をまくった。ルーメはスレイの文字魔法によって全身を重力で拘束されていたが、歯を食いしばって右腕に力を込め、床との摩擦を利用して袖をまくった。


 お互いの右腕の袖をまくり、露になった二人の肌。右腕。



 そこには、事前にシノブの〝指〟で刻んでいた、文字魔法――『ハイク』が一文字一文字虹色に輝いていた。




『雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る』




 ――〝術者の想い出の場所に、対象を強制転移させる呪文〟。


 暴風を纏い、今にもそのペンの切先から凶悪な文字魔法が炸裂しそうなイーアザッドに向かって、シノブは右腕に刻まれたその『ハイク』を発動させた。


 〝指〟すら使わない、不意打ちの文字魔法。これもまたルーメの知る限りではシノブだけが有する能力らしかった。空間だけでなく、自分の体に刻んでおいて好きな時に発動できる文字魔法。


 未知であり不意であるその術に、いくらイーアザッドといえど警戒できるわけもない。瞬時に対応できるはずもない。


 目を覆うほどの閃光とともに現れる、虹色に輝く一頭のペガサス。

 事前にルーメから聞いていたとおりだった。虹色のペガサスは光の粉をばらまきながら、シノブが一瞬まばたきをした間に、イーアザッドをさらってその場から光の中へ消えてしまった。



 ――うまく――いったのか――? この魔法によってイーアザッドが行く場所は決まっている――もしルーメさんもスレイに対して成功していたなら――



「――!?」


 ――まて、なぜ、ペガサスがもう一頭いる!?


 イーアザッドがこの場から消え去って溺れるような息苦しさから解放されたシノブの目に、颯爽と上空から舞い降りるペガサスが映った。


 そのペガサスは優雅にいななくと、光の翼をきらきらと波打たせた。


 もちろん、シノブが召喚した『お馬』――魔法のペガサスのはずである。しかしシノブの唱えた魔法はもう既に役目を果たしているはずで、いまここに更なるもう一頭が現れる理由がわからない。


 ――なぜ――?


 と、もはや困惑する時間もなかった。

 ペガサスはイーアザッドに対してそうしたように、疾くも優しくて麗しい身のこなしでシノブを背に跨がせると、やはり同じようにその場からぱっと姿を消した。




――――――――――――――




「わあっ!?」


「ひゃっ!?」


 光がまたたき、その光が一気に収束した瞬間、シノブは思わず素っ頓狂な声で叫んだ。そして叫んだのはシノブだけではなかった。


 シノブのすぐ後ろ、それこそ体が密着しそうな距離に、目を見開くルーメの姿があった。

 驚くべきことに二人は、あの虹色のペガサスの上に跨っていた。空高く、どれほど高いのかわからないほど高い、夜空の上で。


「えっ!? ルーメさん!? い、一体これは――」


「シノブさんっ!」


 なにが起こったのかを確認し合う前に、ルーメはシノブに勢いよく抱きついた。あまりの勢いにバランスを崩しかけるが、シノブも彼女の体を抱き締め返すことでペガサスの上でバランスをとった。


「よかった……! シノブさんだ……! 良かったまた会えて……っ!」


 ルーメはシノブの胸にぐいぐいとおでこを押し付け、涙混じりの声を引き攣らせた。

 いつものシノブなら照れて照れて仕方のないシチュエーションではあるが、今はそれよりも唐突すぎるこの状況への疑問が勝った。


「る、ルーメさん、一体なにがっ? 『雀のハイク』は成功したんだよな? なんで俺とルーメさんが同じペガサスの上に――それにここは一体――」


「ぐすっ……はい、あたしの腕にシノブさんが書いてくれた『雀のハイク』も、ちゃんとスレイさんに……」


 シノブの胸から顔を剥がすと、涙でぐちゃぐちゃのルーメの上目遣いが現れた。


「……そっか。スレイとは……話せたのかい?」


「……話せはしまし……いえ、あんなのは話とは言いませんね……あはは、やっぱり、だめでした。あたしの声は届かなかったみたいです」


 目尻を細めて微笑むけれど、そこからは涙の滴が頬を伝う。

 スレイと対面したルーメがなにを話し、なにを言われたかは迂闊には聞けないが、やはりイーアザッドに心酔しルーメをただ利用していただけのスレイを改心させることはできなかったのだろう。


 だからこそ、シノブとルーメは、秘策――『雀のハイク』を同時に放ったのだ。


「俺の方もうまくいったと思う。ペガサスはイーアザッドとサロゼルフを〝あの場所〟へ転移させてくれたはずだ」


「はい。あたしのペガサスもスレイさんを転移させてくれたはずです。……同じ場所へ」


 そう、同じ場所。

 〝術者の想い出の場所に、対象を強制転移させる呪文〟。


 まだこの世界で半日しか生きていないシノブには、そんな想い出の場所なんて限られている。



「――ついさっきまで俺たちが捕まってた、あの牢獄へ」



 サロゼルフたちと出会い、ルーメを救い、サロゼルフたちと結託し、強い意志の下脱獄を決意した場所。

 あの場所以上に、このイマジェラでシノブにとって想い出の場所などない。


 あの場所に、スレイとイーアザッド、そしてサロゼルフたちを集めること。

 それがこの作戦の終着点――二人の大スキャンダルでイマジェラに変革をもたらすというこの壮大な脱獄計画の最後のピースだ。


 けれど、本来ならその後、シノブとルーメもサロゼルフたちと合流するのがベストの手筈だった。

 既にすべてを仕込んである(・・・・・・)とはいえ、脱獄の仲間であるサロゼルフたちを置いてこんなペガサスで夜空を羽ばたく計画なんて無かった。


「ルーメさんが教えてくれたこの『雀のハイク』……なんで俺たちにまで発動したんだ? しかもなぜこんな想い出の場所でもなんでもない、落ちたら真っ逆さまの上空に……」


 シノブはゆっくり慎重に前に向き直りながら、はるか下方を見下ろした。

 あの切り立った摩天楼は……おそらくハーゾフ監獄だろう。脱獄騒ぎで看守がフル動員しているのか、上空にいてもなにやら騒がしい声があちこちから聞こえてくる。


 ここはハーゾフ監獄の敷地内上空。つまりそこまで遠くに転移したわけではないということだ。ただ、ペガサスに跨って思いもよらずシノブとルーメは、半強制的に脱獄に成功してしまった、ということになる。



「……あの『ハイク』、あたしにとってすごく思い入れのある大事な魔法だって話、しましたよね」


 脱獄作戦会議中にその話は確かに聞いた。が、不意に腰に手を回されるものだから、シノブは反射的に変な声を出してしまった。いやもちろん、ルーメがここから落下してしまっては困るので自分にしがみつくのはいいんだけれど――


 気を取り直し、ルーメの話に耳を傾ける。


「あたしのお兄ちゃんが教えてくれた一番素敵な文字魔法です。

想い出の場所に、人を移動させる。

すごく素敵な魔法だと思うんです。本来、きっとあんなふうに使う魔法じゃなくって」


 イーアザッドとスレイを貶めるためじゃなく、とルーメは言いたいのだろう。


「でも、良かった。良かったんです。シノブさんが使ってくれたおかげで、あたし、やっぱりこの魔法は世界一素敵だなって今泣きそうなんです。あ、泣いてますねとっくに。あは」


「俺が使ったおかげで? でも俺は〝指〟で俺たちの腕にあの文字魔法を刻んだだけだ。イーアザッドとスレイを俺たちがいた牢獄へ送り込むための秘策でしかない。


…………どうして俺たちがこの瞬間めぐりあうことになったか、もしかして想像ついてるのかい?」



「はい。それこそ、シノブさんの言う通り想像でしかないですけど。

……たぶん、あたしたちの〝肌〟に同じ人が同じ『ハイク』を刻んだからだと思います。肌に文字魔法を刻むなんて、本来なら考えられないことです。でもシノブさんにはできた。


『雀のハイク』は、術者の想い出の場所に対象を転移させる呪文です。言い換えれば、想い出を詰め込んだ文字です。

だから、肌に刻まれたこの『ハイク』は、シノブさんの強い想いを直接あたしたちに注ぎ込んだ。同じ想いを、同じ文字で、同じ瞬間に。あたしたちの間だけで発動した文字魔法なんだと思います」


 わかるような、わからないような。

 シノブは片手でしっかりペガサスのたてがみを掴みながら、未だ右腕で輝く虹の俳句を見つめた。


「でも、それがどうして俺たちがめぐりあうことになるんだ? しかもこんな大空で」


「シノブさんがあたしに会いたいと思ってくれたからだと思います。あたしも、シノブさんに会いたいと思ったからだと思います」


「…………」


「…………あっ!? あ、あの、あたし、すいません、なんか変なこと言っちゃって……!」


 背後でルーメがわたわたと身を捩るのがシノブにはわかった。それがわかるくらいには、その時、シノブは冷静にルーメの推測に納得がいっていた。


 ――そうか。会いたいと思ったからか。


 同じ色の想い出をお互いの肌に刻んだ時点で、つまり、俺たちは俺の想い出とやらでいつの間にか繋がっていた、ということなのだろう。まるで二人が再会するための鍵のように、この文字は。



 あの時、イーアザッドに、スレイに、同じ『ハイク』を放った瞬間、シノブもルーメもお互いのことを想っていたのだ。強く、強く。雀のように必死に小さな翼をはためかせてでも会いに行きたいと。


 ――なんだか――嬉しい。


 ルーメの体温を後ろから感じて、感じていることを頭の中でもう一度噛み締めて、シノブは泣きそうになった。



 くだらなかった生前の二十九年間の人生。


 家族に疎まれて当然の毎日を過ごして、呆気なく逝った二十九歳の津久井志信。


 生まれ変わるチャンスとともに手にしてしまった、呪われた時計。


 絶望しかなかった、永遠に繰り返す二十四時間ぽっきりの輪廻転生。


 何度繰り返しても何度生まれ変わっても意味がないと思っていたこの輪廻転生。


 それでも、それでも意味があるというのなら。


 希望があるというのなら。


 はじめてこの世界で生きようと思った。

 この世界のため、たった一日のため、目の前の人のため、できるだけせいいっぱい生きようと思った。


 そうして得られた、この〝誰かに会いたい〟という気持ちは、シノブの胸を強く震わす感情だった。そしてルーメもシノブに会いたいと想ってくれたこと、だからこそ今こうしてめぐりあえていること、このかけがえのない真実は、いつまでもどこまでもシノブの目の前を明るく照らし出した。




「……ありがとう、お兄ちゃん。この大空が、お兄ちゃんの夢……想い出だもんね。シノブさんと、お兄ちゃんのおかげでいまあたしたちは空を翔べてるんだよ」


 シノブにも聞こえないほど小さな声で、語りかけるようにルーメは呟いた。


 一方シノブは、ルーメのぬくもりを感じながら、何度でも噛み締める。人を想うということ、人に想われるということ、その例え難いしあわせを。



「ありがとう、ルーメさん。でも、まだ終わってない。サロゼルフたちに任せることになっちゃったけど、でも彼らならきっとやってくれるはずだ。

…………待とう、最後の魔法が聴こえてくるまで(・・・・・・・・)





【残り 10時間45分45秒】

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