3 夢と悪夢のはじまり
次に津久井志信が目を覚ました時、その体はふかふかのベッドの上に横たわっていた。
思わず目を細めてしまうほど眩しく、白く、鼻腔をつく独特のツンとした匂いから、すぐに自分が病院らしき場所にいるのだとわかった。
――ああ、もしかして、今までのは全部夢っていう……ありきたりなやつ……?
いやまあ、冷静に考えてそうだよな。転生先相談ハローワーク……だったか? んなもん現実にあるはずがねえや。
大方、大晦日で一人はしゃぎ過ぎて酩酊し、家族に見つかって救急車で運ばれたといったところだろうか。
家族もさすがに見殺しにするわけにもいかないからしょうがなしに119番を呼んだんだろう。
いっそこのまま死んでほしいに違いないからわざと通報を遅くした可能性すらある。
やれやれ、しぶとくも生きてるとわかったらさぞや落胆した顔で面会にやってくるんだろうな、と志信は大きくため息を吐いた。
――そう、とても大きく、「はあ」と声が出るくらいにため息を吐いた。
だからこそ異常に気付いた。
自分の呼吸――声――が、自分のものではない。約三十年間使い続けてきた声ではない。
志信は布団を跳ね飛ばす勢いで半身を持ち上げた。
まずは周りを見渡す。
広いカーテンに、白いベッド。やはりどこかの病室だ。外は夜なのか窓の向こうは黒く染まっているが、病室の電気はすべて灯っていて白く眩しい。
人の気配はない。どうやらこの病室には自分ひとりのようだ。
「あーーー」
先ほどの溜息に違和感を覚えたので、発声してみる。
「…………」
まさか、と思い、今度は両耳に小指を突っ込んでほじくってみる。だが、どうやら耳が詰まっているわけでもないようだ。
「おれは、つくいしのぶ」
今度ははっきりと言葉を喋ってみる。ここまできたら、もう疑いようもなかった。
「……女の声じゃね? 俺」
信じられない思いで今度は掛け布団を全部蹴っ飛ばす。そして自分の体を隅々まで見渡した。
水色のパジャマを着ているが、明らかに体のサイズが本来の自分のものではない。
手足は棒のように細く、腕をまくってみるとムダ毛なんて一本も生えていない絹のような柔肌で、上着のボタンを全部外すと膨らみかけの胸が現れた。
――え?
膨らみかけの、胸?
「――――!?」
志信はベッドから飛び上がり、とにかく何か反射するもの――鏡のようなものはないかと周囲を見回した。
そして立った瞬間にも訪れる違和感。明らかに視線の位置が低い。自分の背が低いのだ。
ふと、金色に反射する煌めきが志信の目を突いた。
それはベッドの脇に設置されている小さなテーブルの上からだった。
その光に志信は見覚えがあり、そして、今自分の身に降りかかっている状況を疑惑から確信へと変えるものでもあった。
「さっきの……懐中時計」
夢かと思っていたが、どうやら夢ではないらしい。
鎖がちぎれたこの黄金の懐中時計は、あの忌々しいハローワークにてシュピノとかいう職員から奪ったものだ。
もちろんあの時は志信も興奮しており、シュピノを傷つけるつもりも彼女の懐中時計も奪うつもりなどなかったのだが、これがこうしてここにあるということは、少なくとも一連の出来事は夢や幻ではなかったということだ。
震える手で、懐中時計を手に取る。
時計の裏面はまばゆいほどの金色であるため、まるで鏡のように志信の顔をそこに映し出した。
――――!!
思わず手で口を押さえて、叫びそうになる。
まぎれもない。女の子の顔だ。二十九歳ガチニートの津久井志信の顔ではない。
大きなエメラルド色の瞳に、肩ラインに揃えられたスミレ色の髪。無理矢理染めでもしなければ自然界には存在しない髪色である。
――地球ならば。
「……オイオイ、おいおいおいおい……マジ……!?」
興奮を抑えきれず、自分が今少女の姿をしていることなど気にせず昂った声が漏れてしまう。
懐中時計に映った自分自身を見つめながら、何度も目をしばたく。そうやってここが夢ではないことをしつこいくらいに確認する。
それにしても、美少女だ。
年齢は――十歳前後くらいだろうか。
よく見ると両耳が少しとんがって見える。これはまさか、エルフ、とかいうやつではないだろうか。
いや落ち着け、それも『地球』での概念の話だ。
なにせここは恐らく『異世界』――今までの常識なんてどれも通用しないに違いない。
――そうだ! 異世界だ! やったぞ! 夢じゃなかったんだっ!! やったっ!!
しかもこんな美少女に! もしエルフだとしたら魔法とか使えたりすんのか!? オイオイオイオイ!! 一体なにが起きてるっつーんだよ!?
実際、なにが起きているのか志信には皆目見当がつかなかった。
二十九歳日本在住の津久井志信は死んだ。それは間違いないだろう。
そうして死後の世界的な――あの悪趣味なハローワークに辿り着いた。そこも間違いないだろう。
しかし、あそこで一体なにが起こったのか。
志信はシュピノのおすすめする転生先資料をすべて拒否した。
やがて彼女の倣慢な役人態度に怒りが抑えきれず、どうせ死んでるんだし何してもいいだろうと自暴自棄になり、やけを起こした。
そこまでは確かで――そして彼女の首からちぎれ落ちたこの懐中時計を掴み取ったことも、確かだ。
そこで記憶は途切れている。
気が付けばここのベッドの上で、津久井志信は、十歳前後のエルフのような美少女に転生している。
この世界がどんな世界なのかは当然まだなにもわからないが、少なくともシュピノが提示した転生先資料にこんな容姿Aランク以上の転生情報はなかった。(どれもこれも容姿ランクEで性格も財力も酷い男だった)
なにが起こったかはこれから確かめるしかないだろうが――少なくともいま志信は、あの時シュピノが提示してきたロクでもない転生先よりもはるかにマシな転生状態にあることだけはきっと間違いなかった。
「……そういえば、この懐中時計を掴んだ瞬間すごい光に包まれたような……。
うん、というかあん時あの女めっちゃ焦ってたよな、確か。ってことはアレか? この時計、転生を司るアイテム的ななにかだったりすんのか?
やべえ、俺、もしや裏技みたいなモン使っちまった? 学歴詐称して一流企業に就職したみたいな感じか? くっくっ」
今の自分の愛らしい姿にそぐわぬ卑屈な笑みが思わず零れてしまう。
しかし、当然この時まだ志信は知る由もなかった。
今から約二十時間後――耐え難いほどの絶望に突き落とされることに。
【残り 22時間41分55秒】




