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26 夏草や兵どもが夢の跡

 時が止まったのかと思うほどに、その虹色はシノブから目だけでなく耳も奪った。


 憎悪の雄叫びをあげる囚人たちの声も、それを諌めようとするサロゼルフの声も、ルーメの悲鳴すらも、刹那にシノブの脳裏を掠めたその可能性(・・・)はすべてを掻き消した。



 ――え? もしかして、これ、文字魔法が使えるんじゃ――?



 それは直感でしかなかった。


 指先が虹色に光る現象はまだこの世界でも見たことがないが、マギアペンという名の魔法の杖先端が虹色に光る現象ならもちろん知っている。投獄される前に何度も見ているし、なんなら自分だって使ったことがある。


 この世界特有の魔法。


 先ほどのサロゼルフの口ぶりからしても、おそらくはマギアペンがなければ使えるはずのない魔法。


 だが、この世界の住人ではないシノブからしたら、そもそもそういった先入観(・・・)すらなかった。


 電気がなければテレビは点かない。ガスがなければシャワーからお湯は出ない。ガソリンがなければ車は走らない。

 この世界にとってはもしかしたらそれくらい当たり前である「マギアペン=文字魔法」という常識を、幸か不幸かシノブは持ち合わせていなかった。



 だからこそ指先の虹色を疑うことはなかったし、いま、自分が文字魔法を使えるかもしれないという可能性に自然と賭けることができるのだった。


 ――できるっ! きっと! 理由なんて今は考えるなっ! 「俺なんかどうせ」なんてクセ忘れろっ! 今の俺は文字魔法が使えるっ! 使えるんだ! 今この瞬間のために必要で最適な魔法だけを考えろっ!!



 シノブがこれまで見てきた文字魔法は決して多くない。まだこの世界にきて六時間程度しか経っていないのだから。


 ただ、ルーメの得意とする『ハイク』といい、あの双子が使っていた文字やイーアザッドが使う『退廃文学』といい、文字魔法の共通点は〝呪文としての言葉の美しさ〟だ。


 美しい呪文がより強力な魔法となる。

 思えば、それはシノブの知るファンタジーの常識ともある意味一致していた。得てして強力な魔法というものには完成された美しい詠唱が伴うものだ。この世界の文字魔法は、よりそれが顕著であるということ。


 基準や基本はなにもわからない。


 が、どうやら《転生時計》で転生したこの肉体……この人間は、割と文字魔法の素養や才能があるのは間違いない。そうでなければ偉人の遺した偉大な作品とはいえ、咄嗟に刻んだ文字があそこまで強力な効果を発揮することはなかっただろう。


 ――咄嗟に……だ。そして今回も文字を吟味している時間はない。今回も咄嗟に頭に浮かんだ偉人の言葉を刻むしかないらしい。


 連想ゲームのごとく、シノブの脳内でいくつもの言葉と過去がめぐり合い、混ざり合う。


 ――俺が最初に使った文字魔法――シュピノに出会い、俺がこの世界に希望を持てるきっかけになった文字――『ハイク』――つまり俳句――日本一有名な俳人の俳句――俺が他に知ってる句は――!




「――――『夏草や 兵どもが 夢の跡』」




 その文字にこの状況を打開できる何かを見出したわけではない。

 ただ単純に、頭に思いついた偉人の名句を唱えただけだった。なにか起これ、ルーメを救えとは言わない、囚人たちを薙ぎ倒せとは言わない、せめてさっきみたいに囚人たちの注意だけでも引きつけてくれ。


 願いながら、シノブは光る指先で文字を刻んだ。虹色に光る粉が散り、軌跡を描いて、空中に望んだままの文字が刻まれる。思った通りこの指先は文字魔法が使えた。ここまではうまくいった。


 次だ。

 この文字は、俳句は、魔法は、この状況をなんとかしてくれるのか。


「……文字魔法……!?」


 サロゼルフが驚嘆の声を漏らす。それはおそらくシノブが指先だけで瞬時に文字魔法を使用したことによる驚愕。なにか魔法が顕現したわけではない。


 魔法は、まだなにも起きていない。シノブは息を止めて、いや勝手に止まって、張り詰めた緊張感の中その時を待った。


「やめっ……て、くだっ……! え……? あれは……シノブ……さん……?」


 続いて、ルーメがシノブの文字魔法に気づく。まだ、なにも起きない。


「な、なんだァ!? てめぇ、一体――」


 すでにルーメの手首を乱暴に掴んでいたスタークスが、ルーメの視線の先を追う。まだ、なにも起きない。


「文字魔法か!?」


「ばかなっ! くそったれなマギアペンもないのに――!」


「やはりこのガキもイマジェラの者だったか!」


 周りの囚人たちも異変に気づく。まだ、なにも起きない。


「……なんと、いうことだ…………」


 まだサロゼルフは絶句している。なにか変わった様子は見られない。まだ、なにも――



 ――なにも…………起きていない……だって?


 この場で一番遅れて異変に気づいたのは、魔法を放った張本人であるシノブだった。

 シノブは勢いのまま振り返り、サロゼルフを見た。


 ――そうだ、まだなにも(・・・・・)起きていないこと(・・・・・・・・)が、おかしいじゃないか!

 サロゼルフも、他のやつらも、どうして大人しくこの状況に従ってる? 俺の文字魔法が不発でなにも起きていないのだとしたら、今頃とっくに俺なんて返り討ちに遭っているはずで――


「……おお……! なんと……なんという…………!」


 サロゼルフは、膝から崩れ落ちて、涙を流していた。

 髑髏の右目からも、金色の左目からも、同じ涙を流して全身を打ち震わせていた。


「見える……見えるぞ……! 我が同胞たちが……! 死んでいった(・・・・・・)不死身の(つわもの)どもの英霊が……!」


 なにが起こっているかわからないシノブは、ただ呆然とその様子を眺めることしかできない。

 すると、すぐにスタークスや他の囚人たちも涙を流しながらその場にくずおれて、サロゼルフと同じように声にならない嗚咽をあげ始めた。


 立ち尽くすシノブの周りには、まるでシノブに頭を垂れるかの如く蹲るゾンビの囚人たち。想像だにしない、異様な光景だった。


 ただその時、唯一シノブが理解したこと。

 それは、自分の使用した文字魔法が――『夏草や 兵どもが 夢の跡』が、何らかの効果を発動し、彼らノットラックスの戦士たちに何か〝幻〟を見せているのであろうということ。


「なんて……なんて美しい言葉だ……。意味なんてわからぬはずなのに……なぜこんなに胸を衝く……!

なぜこんなにも同胞たちの英霊が視える……! なぜ幻だとわかっているのに涙が止まらぬ……っ!」


 頭を抱え、歯を食いしばるサロゼルフ。

 シノブは少し迷ったが、彼に近づき、しゃがんで目を合わせた。


「……なにが見えてるんだ?」


「……先の『否定戦争』で散っていった我が同胞たちの英霊……そして我が団長の、御姿……!」


 ぼさぼさの前髪に見え隠れする金色の瞳が、涙に揺れながらシノブの向こうを見ている。もちろんシノブの後ろには、誰もいない。


「……俺には見えていない。それに……さっきのあんたの話だと、あんたらは不死身なんじゃないのか……?

戦争で散っていった英霊なんて……」


「……先ほどスタークスも言っていただろう。不死魔法がある限り我々は死なんが、殺されれば死ぬ(・・・・・・・)

文字魔法には、人の命を奪う禁呪が存在する。どんなにイマジェラが愚かだろうが絶対女王が残虐だろうが、奴らも決して使用を推奨しなかったという禁呪中の禁呪だ。そもそも、使える人間がほとんどいないという話だ」


「つまり、その人を殺す文字魔法で、あんたらの多くの仲間たちが……」


「そうだ……。禁呪をためらいなく使用する一部のイマジェラ兵に、俺たちの師団は半壊させられた。二百年以上昔の話だ。

団長が殺され……副団長だった俺は戦意も戦士としての誇りも気概も失い、文字通り生ける屍となった……。

殺されぬ限り死ぬこともできず……死に場所すら選べず……ただ不毛の荒野を弟のスタークスや部下とさまよい……二十五年前、とうとう残党狩りの連中に敗北してこのハーゾフ牢獄に投獄された」


「……! 二十五年間も……ここに……!」


「ああ……すべて、不甲斐ないこの副団長サロゼルフのせいだ。俺には皆を導く力も資格もなかったのだ」


「兄貴ッ! それは違ぇ!」


 涙を撒き散らしながら声を遮ったのは、スタークスだった。


「不甲斐ないのは俺たちの方だろうがよ!? 腕っぷしもつええのは兄貴だけで、いつも俺たちは兄貴の足を引っ張って……!

奴らに捕まった時だって兄貴が俺らを庇おうとして……!」


「そうですともサロゼルフ副団長! あんたが多くの同胞を庇ってくれたから、無事捕まらずに逃げられた戦士もたくさんいるっ!

そして副団長に助けられた同胞たちは今も戦士の魂を失っていねえはずです! ――ああ……! 英霊たちもそう仰ってますっ!」


「オオオオ……!」


「ウウッ……! すまない……すまない……! 不甲斐ない我らをお許しください……英霊よ……!」


 彼らの悲痛な叫喚に、シノブはかける言葉が見つからない。


 いや、そもそもかけていい言葉などあるはずがないのだ。

 自分はノットラックスの民でもなければイマジェラの民ですらもない、この世界に生まれてたった六時間の赤ん坊に過ぎない存在。

 こんな自分なんかよりも遥か悠久の時を生き、大半を理不尽な戦乱の中で過ごし、死ぬことすら許されずに何十年もこんなところで無駄に命の灯火を燃やし続ける……そんな彼らに、たった二十九年間の人生すら浅はかでしかなかった自分がかけるべき言葉など。


 彼らの涙に包まれながら、そんな自分自身の感情にシノブはなによりうろたえた。


 こんなふうに誰かに感情移入できるなんて。

 哀れだ、と。可哀想だ、と。辛かっただろうな、と。

 こんなふうにもらい泣きしそうになっている自分がいるなんて。


 それはきっと、この《転生時計》を手にしてからシノブも絶望を味わってきたからだ。

 素晴らしい異世界がたった一日で無に帰す宿命。地獄のような異世界で二十四時間も過ごさなければならない宿命。出会いと別れを繰り返すのではなく、別れと出会いしかない宿命。


 ある意味で〝不死身〟といえるシノブは、死に場所を選ぶこともできない輪廻の中にいるシノブは、どうしたって彼らに同情してしまうのだった。



「団長……っ!」


 突然、サロゼルフがシノブの両肩を掴み、ぐっと顔を引き寄せた。


「おお……団長あなたは……! まだ俺にそう言ってくれるのですね? 〝戦え〟と。〝戦士の誇りを捨てるな〟と」


「あの、俺は――」


 団長じゃない。そう言いかけて、ハッとした。

 おそらくサロゼルフには見えているのだ。兵どもが遺した夢の跡、シノブの身体に重なる……彼らの団長の英霊の姿が。


「この者たちと共に戦え、と……!

ふふっ……ははは……! まったくなんて魔法だ……! こんな恐ろしい文字魔法は生まれてこのかた見たことがない!

この俺に……百年以上体も心も朽ちていたこの俺に……俺たちに……魂を注ぎ込むとはっ!」


 サロゼルフはシノブの肩を掴んだまま勢いよく立ち上がると、一際高く大きく吼えた。そのあまりの勢いにシノブはよろめくが、シノブを掴むサロゼルフの力と彼らの勇ましい咆哮の方が圧倒的に強かった。


「シノブよ……いや、今この瞬間からお主のことは団長と呼ばせてくれ」


「えっ、ええええっ! いやいや、さすがにそれは――」


「おかしくはないっ! 今の俺にはお主と団長の姿が重なって見えているのだから!

たとえそれがお主の魔法によるもの――ただの幻だとしても、団長の魂はそこにある。悠久の時を生きるこの眼はもう誤魔化せんのだ。嘘でもまやかしでも、お主は英霊たちの魂を我々の前に呼び戻した。


――その時点で、我らにとっては既に幻でも嘘でもないのだ。彼らの魂、熱、心、言葉、気概……あらゆるものが我らの魂を揺さぶってしまった時点で! そうだな!? 同胞たちよっ!!」



 オオオオオオオオ、と地響きのような雄叫びが鼓膜も空気も鉄格子すらも揺らす。

 待て待て待て、まずは落ち着け、大体さっきから騒ぎすぎだしいい加減看守とかが異常を察してすっ飛んできちゃうから――



「うわぁぁぁんっ! シノブさぁんっ! 怖かったよおぉ――っ!」


 しかし、その時すっ飛んできたのは看守ではなく――ルーメだった。

 とっくに囚人たちから体を解放されていたルーメは、シノブを押し倒して抱きつき、その胸でわんわん泣くのだった。


 少し照れ臭く思いながらも、やれやれこれから一体どうなるんだと、とりあえずシノブは彼女の頭をぎこちなく撫でた。




 こうしてシノブはこの瞬間、ルーメ・ラインメッセを救出しただけではなく、サロゼルフ副団長をはじめとするノットラックスの戦士たちを見事従えたのだった。





【残り 17時間39分52秒】

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