始まりと死⑩
生まれ育った町を捨てるなんて
この店を、この店の子を捨てるなんて
出来ない
…そうか
俺はずっとここに囚われているのか
そういえば継ぐときに言われたなにかに囚われているような…
「ケンはこの町から逃げられない」
「詳しい事情は分かりませんがその様ですね」
「うん。ごめんね」
何故ヤスが謝るんだ
「いいえ」
優しく微笑んで優しい手つきで頭を撫でる
「ケンさんが「大切」なんですね」
「すごく不服だよ」
猫の様に気持ち良さそうにしていた表情を苦い顔に変える
それを見てナギはくすくすと笑う
「あなたの落とし方を学びたいところだけれど、きっとケンさんを真似てもあなたは私に落ちてくれないでしょうね」
「そうだね」
穏やかな表情で微笑み合う
「だって俺はもうきみに落ちてるから」
「正気ですか」
「じゃなかったら普段と違う部屋を使ったりしないよ」
「そうでしたか。2階の行き来も許されているのに妙に慣れていなさそうでしたが、普段と違う部屋だったんですね」
「気付いてないとは意外だね」
「全知全能の神じゃないんですから」
言って少し気不味そうに視線を逸らす
「そうだね」
ヤスも悲し気に視線を逸らす
「そうだ、今夜も」
いつもの調子で明るく言うが遮られる
「嫌です」
「なんで?」
「それは」
ナギが視線を逸らしてもヤスは逸らさない
その視線に耐えかねたのか、ため息を吐く
「――分かりました」
弱った、とでも言うように承諾の返事をする
「ヤス、ナギは表の者ではない」
「本人が承諾してるんだから良いと思わない?」
「だが」
「ケンさん、ありがとうございます。でも大丈夫です」
だがヤスが抱いていないというのが嘘なら
それなら、俺がこの部屋に入ったときに見た光景はなんなんだ
ナギのあの言葉はどういう意味なんだ
「ケン、働くのは明日からなんだよね?」
俺の思考を遮るようにヤスの声がした
「ああ」
「じゃあナギ借りるよ」
「あ、ああ…」
少年の様な笑顔に思わず返事をしてしまった
なので付け加える
「当人が承諾するなら俺に止める権利はない」
「だって。行こうよ。この町を案内するよ」
差し伸べられた手に自分の手を乗せる
今回はためらいも思案もしなかった
「まるで夢を見ているようです」
緊張感のある笑みだった
それでもどこか幸せそうで、不思議に思った
「奇遇だね。俺もだよ」
ヤスはというと、穏やかな笑みだ
けれど、どこか苦しそうにも見える
こちらも不思議な表情だ
「行ってきます」
それでも2人揃って俺に言って向けた表情は笑顔
少年少女の無邪気なそれだった
手を繋いで駆けて行く後ろ姿は兄妹のように思えた