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アリーのトイレー9

 それから数週間が経ったある日から、みんな、僕のところにやってきては、トイレの中を眺めては、ため息をつくようになった。

 はて。

 一体何があったんだろう?

 朝一番にやってくるシマちゃんとアキちゃんも二人して、ため息をついていた。

「はぁー」

「ほんと、はぁー、だよね」

 二人はそう言い合いながら鏡に向かって立っていた。

 そしてトイレの個室を眺めながら、化粧直しをしているのだった。

 その日の二人の会話もそれだけだった。

 一体。

 みんなに何があったんだろうか。

 僕のところへやってきても、誰一人、前みたいな噂話もしなくなってしまった。

 あんなにも楽しそうにしゃべっていた人たちが、みんな。

 こういう時、本当は柏木さんに聞くのが一番いいのだけれど、最近柏木さんもオフィスを留守にしていることが多くて、あまり見かけない。

 ダイスケ君も、おしゃべりがあまりはずまないようで、個室に入ってはため息をつく、というのを繰り返しているようだった。

 あのー。すいません。

 誰かこの会社で何が起こったか教えてください。

 ただ、唯一変わらない人がいるとすれば、それは掃除のおばさんだった。

 明日、おばさんに聞いてみようかなぁ。

 そう思っていた時、ジョンが僕のところへやってきた。

「おっと。誰もいない」

 ジョンはつぶやきながら、周りを見渡した。

 相変わらずだなぁ。

 彼はため息をつくどころか、これまでと全く変わらない様子で個室へ入っていた。

 ジョンも最近外回りをしているからか、久しぶりにオフィスへやってきた様子だった。

 周囲の雰囲気をものともせず、ジョンは鼻歌なんか歌っている。

 その歌に引き寄せられるように、アキちゃんがやってきた。

 アキちゃんは手を洗いに来たようで、個室には入らずに、洗面台の前に立って黒王子の歌を聴いている様子だった。

 個室から機嫌よく出てきたジョンを眺めながら、アキちゃんは、まったく、黒王子はご機嫌ねぇと声をかけた。

「っていうか、なんでみんなそんなに暗いんっすか?」

 おっと。

 ジョン、よくぞ聞いてくれた。

 そうそう。

 僕も、それ、知りたい。

「え、知らないの?ジョン?」

 アキちゃんはびっくりした顔で黒王子を見た。

「知らないっす」

 驚きの表情も見せずに、黒王子ことジョンはさらりと返した。

「なんかね、この前の監査役いたじゃない?」

 アキちゃんがちょっと声のトーンを落として話しはじめた。

 なんでも、噂によると柏木さんが転勤になり、イケてない支店長が、彼女の分までここの支店を切り盛りすることになるのだとか。

「でも、なんで、そんなことが?」

 どうやら。

 青木さんという名前の監査役は‘コンプライアンスオフィサー’と呼ばれている役職らしい。

 つまり、法律や社会の規律を守っているかどうかをチェックする役目を担っているのが彼の仕事なのである。

 ふむふむ。それでそれで。

「この前の監査の結果の責任を取ってのことらしいんだけど」

 どういうこと?

 監査の結果、柏木さんが法律を守っていなかったということになるのかな?

「何が原因なの?」

 ジョンはエライ。

 素直に思ったことを口にできるのは、彼の特権だ。

「それが」

 アキちゃんは、一瞬ためらった。

 僕も聞きたい。

 まさか、どうでもいい接待費?

 ゴルフの会員権?

 支店長が何かやらかした?

 柏木さんは悪いことをするような人には見えないから、きっとそんなことだろうと思っていたら、アキちゃんは意外なことを口にした。

「このトイレが原因なの」

 黒王子が固まった。

 と。

 同時に僕も固まった。

 え。

 どういうこと?

 僕が原因って?

 なんで?

「男女一緒だから」

 アキちゃん、ありがとう。

 ストレートに僕の疑問に答えてくれて。

 黒王子の不思議そうな顔に向かってアキちゃんは、またため息をついた。

「はぁ?」

 ジョンは一気に不審そうな表情を浮かべて、続ける。

「アホちゃうかね。その禿おやじ。青木小太りじいさん」

 一気にジョンは真っ黒い王子様の顔になった。

「誰かトイレが原因で、飛ばされたりするわけ?やってられないなぁ、日本の会社は」

 わざと誰かに聞こえるくらいの大声でジョンは言った。

「ちょっと、ジョン」

 アキちゃんがジョンに、そんなに大きな声出さないでよと言おうとすると、その口をジョンがふさいだ。

「アキちゃん、良いこと聞いたよ。ありがとう」

 ジョンの大きな手が、アキちゃんの口の動きを完璧に静止させていた。

「それでみんな雰囲気が暗いんだね。なるほどなるほど」

 小さな声でそうつぶやいてから、ジョンはウィンクをしてアキちゃんを見つめた。

「僕にいい考えがあるから、あとで相談に乗って」

 ジョンはさりげなくそう言って、アキちゃんから手を放すとさっそうとトイレから出て行くのであった。

 ひゃー。

 格好良すぎる。ジョン。

 さすが王子様だ。

 ジョンの大きな手とウィンクの攻撃にやられたアキちゃんは、頬がすっかり赤くなってしまっていた。

「・・・」

 アキちゃんは小さくつぶやいた。

 私、何ドキドキしてるわけ?ひゃぁ、びっくり。

 そして、個室へと駈け込んで行った。

 誰かに真っ赤なほっぺたを見られないように。

 アキちゃん、かわいいなぁ。

 彼女は個室に入って、はぁっ、と短く、幸せなため息をつくのだった。

 無理もないなぁ。

 まぁ、どこかキザというかなんだか格好つけているというか、そんな雰囲気を漂わせて許されるのも、ジョンぐらいしかいないだろう。

 僕の知る限り。

 と。

 ジョンのことはとにかくとして、僕が原因で柏木さんが転勤になるなんて、そんな理不尽なことがあっていいのだろうか。

 待てよ。

 というか、僕が原因。

 男女一緒なのが悪いとしたら。

 多分、そのうち僕自身も解体されてしまうかもしれないってことだな、つまり。

 本当に人間っていうのは自分勝手だ。

 ちゃんとトイレにだって、トイレとしての人格があるというのに。

 世の中には都市伝説だとか学校のトイレには誰かが住んでいるだとか、いろんな噂があるけれど、実際どのくらいの人が僕の存在に気が付いているのだろうか。

 普通に生活していたら、トイレ自身がやってくる来客のことをしっかり観察しているなんてことに気が付くわけがない。

 いや。

 もしかすると掃除のおばさんくらいは知っているんじゃないだろうか。

 あれだけの愛情を持って、手早く、そして丁寧に僕を磨いてくれる人は、きっと僕の存在を知っているんだと思う。

 アリーのトイレ。

 そう呼ばれてから今まで、解体されるかもしれないなんて一度も考えたことがなかったけれど、もしかしたら、現実になるかもしれない。

 そうなったら。

 僕はどうなるんだろうか。

 二つの分身になって、それぞれ男性トイレと女性トイレを眺めることになるのだろうか。

 いや。

 違う自分に生まれ変わるのかもしれない。

 まぁ考えても仕方のないことなのだけれども、もっぱら、今の僕の関心事項は、僕がどうなるのか、ということだ。

 アキちゃんが言うことが本当だとしたら、きっと、僕は僕でなくなるに違いない。

 それにしても。

 男女一緒のトイレの何が悪いんだ?

 さっきのアキちゃんの解説だと、社会の規律に反するからなんだそうだが。

 でも、よく考えてみたら、みんな、家のトイレって男女兼用じゃないか?

 たとえばどこかのレストランのトイレ。

 男女兼用なことが多くないか?

 僕の仲間たちは、同じような環境の人が何人もいるというのに。

 冷静に考えてみたら、やっぱりジョンの言うとおり、この会社は何かがおかしいのかもしれない。

 柏木さんに会いたい。

 ずいぶん僕のところにやって来ていないと思うのだけれど、彼女ならきっと僕が何を思っているのかわかってくれる気がするのだ。

 彼女は僕の名付け親だからだ。

 アリーのトイレ。

 そう名付けた時、彼女はまだ課長だった。

 アメリカの弁護士世界を描いたドラマで、柏木さんをはじめとするある世代の女性たちの間で流行った作品だ。

 ドラマの中でも僕のところと同じようにたくさんの働く人たちが噂話やどうでもいい話、仕事の悩みなどを話す場面があるのだと柏木さんが言っていた。

 みんなにとって、僕はどんな存在なのだろうか?

 ただのトイレ。

 確かにないと困る場所。

 生きるために必要な場所ではあるけれど、僕である必要性ってなんなんだろう。

 ねぇ。柏木さん。

 多分。

 彼女なら、その答えを持っているんじゃないかと思うのだ。


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