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アリーのトイレー8

 そんな風にして始まったある日の午後、普段見慣れない来客があった。

 少しかしこまった感じの支店長と一緒に一人のちょっと小太りなおじさんがやってきた。

「じゃあ、このあと第一会議室でお待ちしてますね」

 トイレの入り口前で柏木さんが二人に話しかける声が聞こえる。

 もしかして、このおじさんが、昨日柏木さんが言っていた、‘監査’に来た人なんじゃないだろうか。

「青木さん、先にどうぞ」

 青木さんと呼ばれた背がちょっと低めで、小太りな男性は、一番奥の個室へと入って行った。青木さんが個室に入るのを見届けてから、支店長も個室へと入って行った。彼は太田部屋に入っていった。

 用事をすませて青木さんが個室から出てきて、手を洗っていると、そこへ山本さんがやってきた。

「こんにちは、いらっしゃいませ」

 営業らしく、おだやかな表情で山本さんは青木さんに話しかけると、そそくさと個室へ入っていった。

 その一瞬の出来事が理解できずに、青木さんは思わず、彼女を振り返った。

「どうかされましたか?」

 青木さんの様子に個室から出てきた支店長がたずねると、ここのトイレは男女兼用なのかね、と質問が返ってきた。

「ええ、そうです」

 支店長は何か問題でも?というような表情で、青木さんの質問に答えた。

 そのあと無言で二人は手を洗い、トイレから出て行った。

「あの小太りじいさんの接待をやらされるところだったのね、私」

 個室から出てきて、洗面台で山本さんはそういいながら、大きなため息をついた。

「やっぱり行かなくてよかったわ、気持ちわるっ」

 なるほど、山本さんが接待ゴルフに巻き込まれそうになった事件で、接待した相手はこのおじさんだったのか。

「本当にあきれるわねー。社内接待ごときにこれだけ労力を費やすなんて、バカバカしいわ」

 彼女はそう言ってトイレから出て行った。

 ご苦労さん、山本さん。

 山本さんが出て行ったあとしばらくしてから、呉さんとダイスケ君がやってきた

「今日はお客さんが多いから疲れるねぇ」

 呉さんはトイレに入った瞬間に、ダイスケ君にそう言った。

「へぇ、呉さんでも疲れるんですね」

 ダイスケ君は呉さんの言葉に少し驚いたような表情を見せながら笑った。

「当たり前だよー。めったに来ない人で、どんな人かもわからない人と会うことほど疲れることはないよ」

 その言葉にダイスケ君はふと、自分のことを思い出したようだ。

「まぁでも呉さんはそうかもしれませんが、僕たち営業なんかいつも知らない人とばっかり会いますよ」

「うーん」

 呉さんはなるほど、と言わんばかりにダイスケ君を見た。

「とはいえ、オフィスで会うわけじゃないですけれどね。確かによくわからない人がオフィスに来たりするのって、ちょっと疲れますよね、慣れない緊張するっていうか」

 ダイスケ君は呉さんに笑顔を添えて、トイレの個室へと向かっていった。

 その姿に一瞬見とれたあと、呉さんは大きくため息をついてから、個室へ向かう。

 二人は個室に入ったまま、会話を続ける。

「監査役ってそんなにエライ人なんですかね、ちょっと正直僕、イメージがつかめないんですよ」

「まぁ。エライっていうか」

 呉さんは一瞬そこで止めてから、続ける。

「昔エラかった人だね。正確に言うと。そして今は影響力が大きい人って思えばいいよ」

 なるほど、とダイスケ君は短くうなずいた。

 二人はほどなく個室から出てきて、手を洗いながら、顔を見合わせた。

「ま、そういうわけで、早く帰ってほしいね、お偉いさまには」

 呉さんはちょっと意地悪な笑い顔をして、ダイスケ君に向かってそう言うと、お先に、とトイレから出ていった。

「あの呉さんがこんな表情をするなんて、びっくりだ」

 取り残されたダイスケ君は一人、鏡を見ながら、呉さんの意地悪な笑顔を真似しようとしたが、なかなかうまくいかないようだった。

「ははははは」

 そのうち自分が可笑しくなったのか、ダイスケ君は鏡を見ながら笑い始めた。

 一人で笑いこけているダイスケ君を発見したのは、細貝君だった。

「え、何かあったの?」

 細貝君に話しかけられながら、いや、それが、特になんでもないんですけど、とダイスケ君が笑い声の合間に苦しそうに言葉を発する。

「いや、呉さんがあまりに面白、くて」

 細貝君は呉さんの姿なんか、ないんだけれど、という風に周囲をキョロキョロと見渡した。

「さっきです、さっ、き」

 苦し紛れにダイスケ君がつぶやくのを聞きながら、細貝君は個室へと消えていったのだが、笑いを必死でこらえようとするダイスケ君の耳触りな笑い声がトイレ中に響いてしまい、細貝君もつい可笑しくなって、個室でこっそり笑い始めてしまった。

「マジでやばい」

 細貝君がそう思った時はすでに遅く、彼もまた、何がなんだかよくわからない笑いに夢中になっているのだった。そして彼は個室の中から、笑いが収まるまで出られないでいるのだった。

 今日の職場は、大きな声で笑うことすら許されない雰囲気なのかもしれないとふと思った。まぁ、無理もないなぁ。本社からお偉い様とやらが来ているのだから。

 そして、そういう日は、皆、いつもよりおしゃべりになる。僕のところへ来たときだけが、唯一、心から何かを話すことができるに違いない。

 さっきの呉さんも、嫌味と茶目っ気たっぷりの笑顔をダイスケ君に見せて行ったけれど、普段はそんな表情を浮かべることもない。

 柏木さんも今ちょうどやってくるなり、大きなため息をついて、個室へと消えて行った。個室に入って座るなり、さっきよりもさらに大きな声でため息をついて、あーあ、と声まで出していた。

 その声がちょうどトイレに響き渡った時、何かの虫の知らせを聞いたかのようなタイミングで山口さんがやってきた。

 声の主がいつもお世話になっている部長であることに気が付くと、彼は個室から柏木さんが出てくるのを待って、声をかけることにした。

 手を洗いながら、あら、山口さん、とそこに立っている経理課長にいつもと変わらぬ笑顔を見せた。

「柏木さんもため息つくことあるんですね」

 その言葉に、あら、聞こえてたの、そりゃそうよ、私だっていろいろ大変なのよと彼女はさらに大きな笑顔を見せて、トイレをあとにするのだった。

 みんな、個室に入った途端に、自分が一人きりになったように錯覚するのかもしれない。

 だからふいに大きなため息をついたり、独り言を言ったりする人が多くなる。

 携帯電話を持って個室に入って、こっそりゲームをしているのか、メールを読んでいるのか、はたまた何か秘密のインターネットサーフィンをしているのか、電話の画面を見ながら微笑んでいる人もいるくらいだ。

 ここはみんなにとっての、数少ない憩いの場なのだから、それも仕方ないということなのだろう。

 世の中の男性トイレは、一般的に個室で仕切られていないことが多い。そのため、個室に行くということは、短い滞在時間では済まされない用事があるという特別な場合を意味する。

 でも、アリーのトイレは違う。

 男女関係なく、同じ個室を使っているのだから、個室に行くことがトイレでの用事を済ますことにつながるし、また、誰が入っているのか、個室に入るその姿を見ない限り知る由もない。

 ただもしかしたら、世の中の女性のうちの一部の人は、僕のことを嫌いに思うかもしれない。女の人が大事にしているお化粧直しの時間だったり、歯磨きの時間だったり、トイレにこっそりしまっている女のモノだったりするものを、男性に見られたりすることを毛嫌いする人はつらいと思う。

 幸い、この会社にはそんな女性はいない。いや、もしかしたら実はいるのかもしれないけれど、実際、歯磨きをしたりお化粧直しをする間に割って入ってくる男性もほとんどいないし、気にしているようなそぶりを見せる人は見たことがない。

 むしろ、僕のところに来た人たちは、いつも以上におしゃべりになり、それぞれの思いのたけを叫んでいくことが多い。

 今日は監査役とやらが来ていることもあってか、いつもより多くの人が僕のところへやってきて、その度に、お互いにいつもよりおしゃべりをしてから出ていくようだった。

 まぁ、無理もないか。

 知らない人がオフィスにいると、あの人はどこの誰かというのが、必ず話題になるものだ。今日みたいな日はアリーのトイレでも、監査役の話でもちきりになる。


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