アリーのトイレー3
僕が好きな時間帯の一つがお昼休みのころだ。
お昼休みのはじまる五分前になると、必ず僕のところへやってくるのが営業の太田さんだ。
太田さんは外回りが多いこともあって、めったにオフィスには来ない。でも、オフィスにいるときは必ず、お昼休みの五分前にトイレにやってくる。ちょっと背が高くて、黒ふちのメガネをかけている太田さんは、一見、まじめそうに見えるのだが、実は飲むと暴れるという性質の悪い人だったりもする。
去年の忘年会は確かこのオフィスの近くでカニ鍋か何かを食べに行っていたはずだった。そこで太田さんは飲みすぎてしまったようだった。
もうお店を出る時点で暴れまくって汗だくになっていて、足元はふらふら、なんだかどうやらお皿を割ったとか割らないとか、介抱した営業部長たちが言っていた。
どう考えても自力で家にも帰れず、タクシーにも断られそうというのが理由で、太田さんは会社に運び込まれた。
会社には仮眠用の毛布が応接室に用意されていて、長いソファーで眠ることもできるし、暖房もあるから、というのが理由だった。
ところが酔っ払いにありがちで、彼は気持ち悪くなってしまい、僕のところへ駈け込んできたのだ。一番入口に近い個室に飛び込んで、便器の中に顔を突っ込んで、相当苦しんだ様子だった。
太田さんが吐いて苦しむ中、営業部長の柏木さんとアキちゃんやらシマちゃんやらが、彼を介抱するために、お水や胃薬を用意したり、背中をさすってあげたりしていたのをよく覚えている。彼は吐きながら、俺は絶対あの契約をものにすると叫んでいたので、柏木さんが少しだけ引き気味だったと記憶している。
こういう状況で、しっかり人の面倒を見てくれるのは、いつも女の人なんだよなぁとつくづく思う。太田さんだけじゃない。新入社員歓迎会で飲みすぎた新入社員を介抱していたのも確かに柏木さんたちだったかも。
太田さんの時は、同じ営業のダイスケ君という後輩が、彼をトイレまで担いできたのだけれど、結局、太田さんが苦しんでいる間、ダイスケ君はただ見守っていただけだった。
太田さんが吐いたあとしばらく、一番入口に近い個室は、太田部屋と呼ばれていた。その事件以来、酔いつぶれた人が出ると、皆、太田部屋に運び込まれることが習慣になった。でもどれだけたくさんの新入社員が酔いつぶれようと、介抱されるときだけ、この個室の名前だけは、太田部屋と呼ばれ続けているのが面白い。
僕としては、便器の中に顔を突っ込まれるのはちょっと恥ずかしい気もするけれど、気持ち悪くなって部屋の中を汚されるよりは百倍ましだった。
彼は今も、トイレに入ると無意識に太田部屋、つまり、一番入口に近い個室に入る。
太田さんは昼休みが始まる前にぱっとトイレの個室に駈け込んで、本当にあっという間に用をすませて、出て行ってしまう。手を洗うのも早くて、鏡を見たりすることもない。
たぶん彼は、お昼休みに万全の態勢で臨みたいのだろう。
確かに太田さんは正しいと思う。
お昼休みのチャイムが鳴ると、僕のところに一斉に人が入ってくる。一日のうち、これほど僕のところが混雑することもないと思うほどだ。
当然ながら、男性も女性も一列に並んで、順番を待つ。この順番待ちのとき、貧乏ゆすりがたえない人がいたりする。貧乏ゆすりは見ているこっちがいらいらさせられてしまうから、できればやめてほしいのだけれど、これもまた、本人は全く気付いていないのだから、困ったものだと思う。
この、順番待ちの間に、女性陣は今日は何を食べに行くのかという話をしていることが多い。そしてそれを聞きながら男性陣たちは、今日は別の店に行こうと決めるのだと柏木さんが冗談まじりに言っていた。
お。今日は珍しく支店長がいるんだなぁ。
支店長は前に並ぶシマちゃんと、後ろに並んだ柏木さんに囲まれている。
「一週間振りじゃないですか?」
シマちゃんが振り返って支店長に話しかける。
「そうだったかな?」
支店長はちょっとだけ遠い目で自分がこのまえいつここに来たのかを考えているようだ。
「そうですよ、確か先週の月曜日ですよ」
すかさず後ろから柏木さんが支店長に話しかける。
「さすが柏木さん。よく覚えていらっしゃいますねー」
シマちゃんが支店長の後ろに立っている柏木さんに話しかけると、彼女はサインもらいに行ったからよ、と言いながら、くすくすくすと笑った。
「いやー、女の人の観察力はすごいね」
前後を女性に囲まれた支店長はちょっとだけその勢いに圧倒されそうになっていた。支店長はまだ自分がこの前いつここに出社したのかを思い出せないようなのが、僕にはなぜか面白く感じられた。
僕が思うに、トイレの順番待ちに、上司が先だとか部下が先だとかそういうのがないのがいいと思う。早い者勝ちだから。
そういう意味でも、僕のところでは、皆、争うこともないし、上下関係も気にしなくていい気持ちになるんじゃないかと思う。
昼休みがはじまると一斉に人が僕のところへなだれ込んでくる。今日は誰が一番最初にやってくるんだろうと、いつもわくわくしながら、その入口のドアが開くのを待ち構えてしまうのだ。
そしてそういう時間だからこそ、普段は出会わない人たちが僕のところで出会い、なんだかよくわからない会話を交わしたり、会釈をしたりするものだから、それがちょっと不思議な風景で、僕はこの時間がたまらなく大好きなんだと思う。
「じゃあ、支店長お先にー」
明るい声でシマちゃんが空いた個室へ入って行く。シマちゃんが向かおうとしている個室からはつい先日会社に入ったばかりのジョンが出てきて、洗面台で手を洗っていた。
「ジョン、支店長に挨拶しときなさいよー」
柏木さんが手を洗っているジョンに話しかける。
「あ、支店長。すいません、全然気が付きませんでした。あまりにも会社にいらっしゃらないものですから」
ジョンが真顔で支店長にそんな挨拶をするものだから、柏木さんも、その後ろにいた営業の人たちも皆、それぞれ笑い出してしまった。
なんと素直なジョン、と言わんばかりに柏木さんは本当にその通りですね、だってジョンと支店長はまだ二回目じゃないですか、顔を合わせるの、とフォローを入れた。
支店長はジョンの素直すぎる言葉に思わず苦笑いを隠せない様子だったけれど、やっぱり皆がそうだそうだとうなずくものだから、そうだね、もう少しオフィスにいることも考えないといけないねと思わず返事をしたのだった。
さすがジョン。
僕がそう思っていると、柏木さんが同じことを口にしてくれた。
やっぱりみんな、そう思っているんだなぁ。
ジョンは日本人とアメリカ人のハーフで、これまでも思ったことをすぐに口にして、皆を何度も笑わせたり、時には不快な思いをさせたりしてきた。まだこの会社に来てから一か月もたっていなかったけれど、すっかり有名人だった。
濃い茶色の髪の毛に、透き通るような青い目をしたジョンは、女性社員たちの心をあっという間に射止めてしまった。皆に王子様というあだ名までつけられた初日だったが、ジョンのあまりにストレートな言葉に、王子様というよりは政治家ではないのかと噂されるほどだった。
入社して二日目には、トイレで手を洗っているときに、山本さんに急に話しかけられ、決めたわ。これからあなたのことを黒王子って呼ぶわよ、と一方的に通告される始末だった。
「やっぱ黒王子は違いますねー」
支店長が個室に入って行くのを眺めながら、営業のスタッフたちがジョンの話を始める。
「ホント、黒王子は黒い王子だわ。彼になんでも言いにくいこと言ってもらおうかしら?」
柏木さんがちょっとだけお茶目な表情を見せながら、営業担当の若者たちを笑わせた。
トイレの中でこんな風に笑い声が絶えないことは、僕にとっても幸せなことだ。
皆が笑っているとそれだけで、ああ、僕は今日もこの人たちと過ごせてよかったなぁとつくづく思えるからだ。彼らがそれぞれの机で、営業先でどんなふうに過ごしているのかまったく想像がつかないけれど、少なくとも僕のところにいる間は、楽しい時間であってもらえたら、トイレ冥利につきると思う。
そんな笑い声が響くのもつかの間で、昼休みもはじまってから十五分が過ぎると、僕のところに静寂が訪れる。
この静寂で、皆、ご飯を食べに外に行ったんだなぁということを知る。
今日のヒットはやっぱりジョン。黒王子の一言だった。確かに今の支店長に代わってから、このオフィスは支店長不在になることが多かった。実際はお客さんとツアーに行っているのか、外で誰かと会っているのかさぼっているのか全く知らないのだけれど、たぶんお得意様とゴルフでもしているのではないか、というのがここにいる全営業スタッフ一致の見解だった。
だからジョンの一言は何気にパンチがきいていて、なかなか重みのある発言だったんじゃないかと思う。ジョンは本当に思ったことをすぐに口にする人だ。入社初日に、トイレが男女兼用であることを知ると、なんかアメリカみたいでいいっすねと言って、ここで悪口言ったら、みんなにばれるってことですねと総務担当の案内役を困らせていた。