アリーのトイレー21
人事異動というのはある日突然、そして実はあっけなくやってくるものだということを僕はみんなの会話から知ることになる。
みんなのことを観察できる余裕がなくなってから、たった数日で、僕の身の回りは一気に雰囲気が変わっていった。
最初に姿を見なくなったのは支店長だった。
支店長は例の事件の後、二回ほどオフィスにやってきたけれど、その二回目が最後だったようだ。
彼の態度はいつもとあまり変わらなかったからか、僕には正直、その日が彼とのお別れの日であることを悟るのは難しかった。その事実に気が付かされたのは、彼がオフィスから本当に出て行く時に、最後にトイレに寄った時だった。
呉さんと山口さんがトイレの入り口付近で、あ、お待ちしておりますからと話しているのが聞こえた。そして支店長は悪いな、ちょっと待っててくれと言って、トイレの中に入ってきて、いつもと同じように個室に入って行った。
用事をすませたあと洗面台で手を洗いながら、彼は鏡の中の自分の姿をまじまじと見つめていた。
「ここともお別れだな、ほんと」
彼はぶっきらぼうにつぶやいて、ふっとため息のような、ほくそ笑むような声をあげて、蛇口から手を放した。
「もう戻ってくることはないだろうな」
どこかさみしげな、小さな小さな声が僕の耳に突き刺さった。
どうしてその瞬間だけ、僕の意識が彼の言葉に飛んだのかすら分からない。
ただ、他人には聞こえないほどの小さな声が、トイレの中に置いていかれた感じだった。
「悪いな、最後まで」
トイレのドアを開けながら支店長は待っている二人にそう声をかけて、出て行った。
残された言葉は、その日眠りにつくまで、僕の中にとどまり続けた。
次に訪れた変化は柏木さんだ。
彼女はパーティの後、たった一度だけオフィスに現れた。その日が彼女の最終日で机を掃除しにきたようだった。
その日、彼女は僕のところにやってきて、赤いバラの入った一輪挿しを洗面台の片隅に置いて行った。
「アリーのトイレ、ありがとうね、みんなを見守ってくれて」
彼女はしばらくアリーのトイレでただ立ち尽くして、洗面台からトイレの中をしばらく見渡していた。その時、山本さんがひっそりと扉をあけてやってきた。
「柏木さん、本当にありがとうございました」
かみしめるようにゆっくり、山本さんは目からあふれ出てくる小さな水滴をぬぐいながら、柏木さんにかけよった。
「もう、会社からいなくなるわけじゃないから」
山本さんをぎゅっと抱きしめながら、柏木さんは笑顔だった。
「またすぐに会えるわよ、どこかで、必ず」
その前向きな言葉が胸にささったらしく、山本さんは抑えていた何かを爆発させるように声をあげた。
「泣いたら綺麗な顔が台無しよ」
狭いトイレの中で、山本さんがすすり泣く音がこだまする。
そうね、色々あったわね。
柏木さんは言葉を出さずに彼女をただ抱きしめた。
女の人はどうしてこうも涙もろいのだろうか。僕はこうやって誰かがどこかに異動する度にこの場所で、互いに抱きしめ合ったり、泣きあったりする姿を見てきたことをふと思い出した。
大人になると素直に人に物事を言えなくなるからと誰かが言っていた。そして思っていることを伝える方法を忘れて行くのだと。子どもの頃は皆、無邪気に思っていたことをストレートに伝えられたし、そんな機会もたくさんあったのに。
よく、年を取ると時間が過ぎるのが早くなるというけれど、それは忙しさに負けて、心を失っていくからなのかもしれない。素直に何かを伝える、思ったことを言うという心だ。
山本さんの涙がおさまると、二人はそっと僕のところから出て行った。
確かに、ここのところ、みんなのことを観察する余裕もなくなっていたのだけれど、この瞬間だけは見守っておくのだとなぜか強く思った。僕は確かに、この人たちと共に、ここにいるのだと実感できたから。
僕は、アリーのトイレだ。
そう自分で言ってみた。
ふっと、何かが僕の中で、すとんと降ってくるのが分かった。
静かに、ゆっくりと、僕の中の時間が止まっていくのを、僕はただかみしめていた。
そしてその時間の流れがいつまでの続くかのように、 どうしようもない眠気のような何かに襲われて、僕の意識が次第に遠くなっていった。