アリーのトイレー19
山本さんは少し平静を取り戻すと、軽くお化粧をし直して、そのまま僕のところを去って行った。
ちょっとだけ腫れた目が赤くて、少しだけかわいそうな顔だったけれど、腫れが全部ひくまでなんて待てない気持ちもわかる。一刻も早くここを去りたいというのが本音だろう。
そんな風にあわただしく午前中が去って行って、気が付くとお昼休み前、太田さんが僕のところへやってくる時間になってしまった。
お昼休みになるとほぼ全員の従業員が入れ替わり立ち代わり、アリーのトイレにやってくる。今日朝から見かけた人で、お昼休みのトイレにやってこなかったのは、帰ってしまった山本さんと支店長、呉さんの三人だけだと思う。
と、推測するに、支店長と呉さんもオフィスの外に出たのだろう。
お昼休みの五分前に太田さんがやってきたときから、一気にアリーのトイレは噂話で充満した。山本さん、もう帰ったらしいよ。かわいそうに目を泣き腫らしていたそうよという噂話から、証拠写真がなんとか、だとか、支店長は処分を免れるために呉さんを囲い込むつもりだとかそんな、どうでもいいことも含めて、僕の空間は昨日の出来事でいっぱいになった。
ただ、みんなの話を聞いて、山本さんが泣いていた理由がはっきりした。
支店長、呉さん、に山本さんは呼び出されたそうだ。山本さんは一人で行けないのでと柏木さんの同行を求めたのだが、呉さんに最初は一人で来て応接室に来てほしいと言われしぶしぶ行ったのだそうだ。
呉さんが珍しく弱者の味方をしてくれた。昨日撮影された証拠写真を現像して、それを山本さんに見せたのだ。今にも彼女の胸に迫ろうという支店長の写真だった。
その写真の衝撃からか、支店長も思わず言葉を失って、ただ山本さんの前に平謝りするしかなかったそうだ。
ただ謝るしかない、申し訳ない、と言う言葉を繰り返すだけだった。
姿勢を低く構えて謝る支店長だったが、その姿にさらに怒りを覚えたのか、山本さんは大声で叫んだ。そんなこと言われても私の記憶が変わるわけでも、支店長の記憶が塗り替わることもないじゃないですか、と。
その声を聞きつけた柏木さんが、応接室に山本さんを迎えに行ったところ、感極まって山本さんは大声で泣き叫び始めたのだ。オフィスのみんなにも聞こえるほどの声だった。でも、なぜか僕は耳を澄ましていたのに、その声が聞こえていなかったようだ。
「支店長のご身分を考えて、これまでのどんなセクハラ行為だって我慢してきました。セクハラかどうかは個人が決めることだということくらい、私も知っています。でも今回の件だけは、ありえません。本当に許すとか許さないとかじゃないです。私は警察に訴えたいです」
怒りで興奮した女性を落ち着かせるのはそう簡単なことではない。それを知っている柏木さんは、山本さんに、言いたいことをきちんと全部この場で言いなさいと諭したのだそうだ。
これまでのゴルフ接待だ、何だかんだ、というセクハラについて彼女が永遠と語るのをただ呉さんと柏木さんは黙って聞くしかなかった。そして支店長は顔をうつむけたまま、ただ山本さんの集中砲火を受けるしかなかった。そして、そんなやり取りが小一時間くらい続いて、山本さんの気持ちもわかるけれど、警察に訴えるのかどうかの前に、一度本社のしかるべき部門と相談を、という結論になんとか落ち着かせることができたようだ。
そしてその一部始終をきちんと観察していた人たちがいる。
ジョンはもちろんのこと、女性社員たちは皆、その応接室での出来事を外から見守っていて、ときどき聞こえる山本さんの甲高い泣き叫ぶ声に耳を傾けていたようだ。
何があったのか推測する噂話で充満しているアリーのトイレだったが、そのにぎやかな、何か事件があった時に野次馬になってしまうような雰囲気は一瞬で崩れさった。
ドアを静かに開けて、一言、二時から全員会議室集合よ、と言って入ってきたのは柏木さんだった。
そこにいた皆が目にしたのは休憩時間を楽しむ優しい柏木さんではなく、険しい表情を浮かべた柏木部長の姿だった。柏木さんは洗面台でおしゃべりをしていた部下たちには目もくれず個室へとまっすぐ歩いて行った。そしてその姿にただ、そこにいた人たちは釘づけになってしまった。
パタン。
個室のドアが閉まる音がトイレに響き渡ると、おしゃべりを楽しんでいた従業員たちは誰かに言われたでもなく、そろそろとトイレを後にするのだった。
いや、さすがだな、柏木さん。
僕としては何があったのか詳しく聞けたことは大変ありがたいことなのだけれど、結局こんな風に皆が事実かそうでもないことを話し続けることほど、無駄なことはないのだ。
実際僕のところで皆が口にすることの大半は事実だったりする。でもその事実は人によって受け止め方も違うし表現も違う。おしゃべりが好きな人たちはその事実と自分の意見をごっちゃにして、色んな人に話してまわるわけだ。
時にそれは正しくて、時にそれはゆがんだ既成事実を作りあげることもある。
往々にして、何か事件があったとか、悪い噂なんかは、既成事実になりやすい気がする。それは悪気があってすることなんかじゃなくて、ただ、みんな、知らないことを知りたいだけなのかもしれないけれど。
いずれにしても柏木さんの見事な一言で、洗面台のおしゃべりは一気に静まりかえり、みな、それぞれの席へと戻って行くことになった。
誰もいなくなったことを察したタイミングで、柏木さんはようやく、個室から出て洗面台にやってきた。
「はぁ、本当にやってられないわ」
柏木さんが堂々とそんな言葉を口にしたのは、僕の知る限り初めてのことだった。
彼女の表情からその疲れの色がわかる。そうだよなぁ。彼女は自分の立場もあるだろうし事実として山本さんという被害者となる部下を抱えて、疲れないわけがない。
柏木さんは鏡の前で髪の毛を整えると、頬をぱんぱん、と叩いて、よし、最後のひと踏ん張りだわと言って、アリーのトイレを出て行った。
いつもスーパーレディでいる柏木さんにとっても、一人きりになれる場所は必要で、多分それは、誰もいない、この一瞬、この場所しかなかったのだろう。
皆、思いのたけをどこかにぶつけたいことだってある。
誰かに聞いてほしいときだってある。
会社の中で偉くなっていくということは、どんどんどんどん、人にそんな悩みや苦労を話せなくなることなのかもしれない。
お昼休みのあとのしばらくの沈黙の時間がやってきた。
いつもアキちゃんがやってくる時間になっても、今日は彼女はやってこなかった。そりゃあそうだ。今頃柏木さんが会議室で今日の一部始終を皆に説明していることだろう。
僕はただ、皆がここへ帰ってくるのを待つしかない。
でも確実に言えることは、会議室で柏木さんが今朝の事実を皆に話したとしても、結局ここ、アリーのトイレでは噂話のネタの一つとなってしまうことだ。会議が終わったら皆、ここへやって来て、お昼休みと同じように噂話をするだろう。さっきと違うとすれば、それぞれが持っている情報量が同じになったということだ。