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アリーのトイレー18

 洗顔フォームは日帰り温泉ツアーの乗客に配られる試供品だった。手ぶらで参加できるのを売りにしていることもあって、こういう試供品を入手する営業ルートを開拓してきたのは、他ならない柏木さん本人だ。

 アキちゃんがどこからともなくタオルを持ってきて、支店長に手渡した。

 支店長は今、みんなの見世物になっている。

 一挙一動を皆が観察しているのだ。

 ただ、当の支店長本人は意外とのんびりした様子で、まるで自分がそんな風にみんなから見られているようにも感じていないようだった。

「さ、みなさん、仕事に戻りましょ」

 支店長の様子をずっと見ていても仕方がないと思った柏木さんが観客たちに呼びかけると、みな、それぞれ小さくうなずいて僕のところからオフィスへ戻って行った。

 呉さんが、僕が面倒みますからとシャツを片手に持ったまま柏木さんと目配せで会話をした。

 アリーのトイレには呉さんと支店長の二人だけが残った形になった。

 支店長はタオルをお湯で温めて、体を拭いた。

「昨日着ていたシャツ、気が付いたらすごいことになっていてね」

 呉さんが買ってきたシャツを受け取りながら、彼は再度個室で着替えるのだった。

「もう捨てないとだめだな」

 そうつぶやきながら、昨晩着ていたシャツを袋に入れて、瞬時に高価なブランドシャツをただのゴミに変身させた。

 洗顔とタオルの効果で支店長は一見、いつもと同じ様子になった。

 やれやれという表情で鏡を見つめている支店長に呉さんがゆっくり口を開いた。

「支店長、お疲れのところ、申し訳ないのですが、お話があります」

「ああ」

 いつもと違う呉さんのただならぬ気配を察したのか察していないのか、支店長は軽めにうなずいた。さすがにその様子に呉さんも内心呆れたのか、続けて、支店長の身に関わる大事なお話ですと付け加えたのだった。

 その言葉に支店長は一瞬だけ顔を曇らせたが、冷静を装ったまま、ああ、わかった。十分後に応接でと答えた。

 呉さんがどうやって話すつもりなのかさっぱり分からないのだけれど、昨晩の出来事に記憶がない人に、これはあなたがやったことですよと、ほぼ犯罪まがいのことを説明するのは困難がともなう。ましてや被害者となった山本さんにどんな顔を向けるべきなのかさえも分からない。

 二人がいなくなった後、いつもに増して静かな時間が流れるのが僕にも確かにわかった。

 これだけ静けさがトイレにこだまする時間も、珍しい。

 多分、三十分くらいの時間だったと思う。

 でも僕にはそれは、永遠に続く静けさのようにさえ思える時間だった。オフィスに誰もいない夜中がずっとずっと続いていくかのような気持ちになった。

 ふと、ああ、もうあれから一時間以上経ったなぁ。きっと今頃呉さんは支店長に何かを話しているに違いない。どんなふうに話をしているのだろうかと考えていると、山本さんがアリーのトイレに駈け込んできた。

 今までの静けさがまるで嘘の世界だったかのような、大きな足音と声だった。

「ああああぁぁ、もういやぁ」

 狂ったように大きな声で叫びながら山本さんは一番奥の個室へ入っていった。

 バタン、と強い音がして、トイレの中全体に妙な振動が走った。

「気持ち悪い、もう、無理!」

 げほっ、げほっ、ごほっ。

 苦しそうな山本さんの嗚咽の声が響く。

 その声をそっと見守るように立ち聞きしている人がいた。

 それは柏木さんだった。

 彼女はそっと洗面台の前に立って、山本さんの様子を見守るのだった。

 何の言葉を発することもなければ、大きな音も立てず、まるでそこにいる気配を自ら消しているような雰囲気さえあった。

 しばらくすると、水を流す音が聞こえて、そっとドアを開けて出てきた山本さんが現れた。彼女は柏木さんの姿を見つけても表情を変えず、ただ力が抜けたような足取りで洗面台の方へと向かってきた。

「今日は帰りなさい」

 柏木さんは彼女にそれだけ言ってアリーのトイレを後にして行った。

 山本さんは、彼女が出て行った背中を見ながら小さくうなずくのがやっとの様子だった。と、突然、洗面台で化粧も気にせず、手に水をすくって顔を洗い始めるのだった。

 何か本当に拭い去りたい何かがあると水で綺麗に流したくなる心境は、皆同じなんだろう。ひたすら、蛇口から出てくる水を両手ですくいあげ、顔に当てる。山本さんはゆっくり、でももう数えきれないくらいの回数になるほど、同じ動作をただ繰り返しているのだった。

「ちゃんと洗った方がいいわよ」

 トイレに入ろうとして、ただならぬ雰囲気を察したアキちゃんが、洗顔フォームとタオルを持って、そっと山本さんに近づいてきた。

 アキちゃんはさっき、一度ドアをそっと開けて、山本さんが涙ながらに顔を洗っている様子を目にしたのだ。

「アキさん」

 山本さんはまるで取りつかれた何かから解放されたように、ようやく言葉を口にした。

「ね、ちゃんと洗って。で、お化粧しなおそう。せっかくの美女が台無しだから」

 目がびっくりするくらい腫れている。

 涙を流すと体の中の悪いものが出て行くというのも事実だが、女の人にとってその代償は大きい。たとえば頬は真っ赤に紅潮するし、目だってびっくりするくらい腫れあがる。

 せっかく朝からキレイにお化粧してきても、泣いてしまったらすべてが台無しになることくらい、周知の事実だ。

 山本さんの様子を気遣いながら、アキちゃんは今朝がた支店長に渡したものと同じ試供品の洗顔フォームとタオルを手渡した。

 ずいぶん長い時間、二人は無言のまま、アリーのトイレにいたと思う。

 ゆっくりと顔を洗い流して、腫れた目が落ち着きを取り戻すまでの間、アキちゃんはひたすら山本さんを見守っているだけだった。冷たい水が山本さんの顔のほてりを少しづつ取り去っていく様子を、ただ見守っているのだった。

 不思議なものでその間、僕のところに来客もなく、沈黙と水の音に僕は耳を傾けていた。

 アリーのトイレで泣いた人を見かけることはたまにある。

 皆それぞれの思いがはじけてしまって、ここで泣くのだ。いい大人になると他人の前で涙を見せるのが難しくなる。本当に泣きたいとき、涙を流したいとき、人は一人になりたいと無意識に場所を探す。そうしてたどり着いた場所が僕の個室だったりするのだ。いい大人が涙をするなんてと批判的な人もいる。でも、涙は出る。泣きたいときに泣ける場所がない方が本当はつらいんだということに、その人は気が付いているのだろうか。

 子どもの時と違って、自分の身に何かがあった時に、簡単に家に閉じこもれることはない。会社には出勤してこないといけないのだ。そんな大人たちが心に抱えた何かを叫んだり、吐き出したり、どうしても耐えられなくなったとき、僕の個室は大活躍するのだ。

 いや、個室だけじゃない。

 鏡の前で自分の姿を見ながら、ひそひそと話をしたりする姿だって、同じようなものだ。多分この場所でみんな、机の前に座っている自分から少しの間だけ解放されるのを楽しんでいるのかもしれない。


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