アリーのトイレー17
パタン、と入口のドアが開いて、シマちゃんが現れた。
気が付いたらもうそんな時間なのか、とふと思う。
また今日もいつものオフィス、いつもの時間、いつもの風景が始まるのだ。
「あれ?」
さすがのシマちゃんも、トイレの個室のドアが一つ、閉まっていることに気が付いたようだった。
シマちゃんは一番奥の個室に入って、用事をすませてから出てきた。
その帰り際に、太田部屋のトイレのカギがしまったままであることに気付いたのだ。
こんこん、と軽くノックしてみるのだが、全く反応がない。
あ、そうそう、シマちゃん、そこには支店長がいるんだと、僕は一生懸命彼女に伝えようとする。
「うーん」
シマちゃんは、首をかしげつつも、まぁ、いいかと妙に納得して、そのまま鏡の前に戻ってきた。
うん、そうだな。
起こさなくていいよ、シマちゃん。
そこの部屋にいるのは、昨日の夜をここで明かした支店長様なんだよ。
シマちゃんは自分の顔を見ながら、やっぱりトイレの個室が気になっている様子だ。
口紅をひくペンを持っているシマちゃんの手が止まる。
あ、と彼女は思い立ったかのように、手早く化粧を直し終えて、出て行ってしまった。
もちろん、今日も私イケてる、という一言は忘れることなくつぶやいて出て行ったのだが。
と、突然、ごごごご、という地響きのような音が突然僕のところに響きはじめた。
ん?
これはまさか。
トイレという場所はもともとタイル張りだったりすることもあって、音がよく響く。
わぁ。耳が、痛い。
支店長のいびきが結構な音量になった。
僕もじっとしているのが難しいくらいだ。
ちょっとそわそわするくらいの音に思わず耳をふさぐ。
「はははは」
笑いながらアリーのトイレにやってきたのは、アキちゃんとシマちゃんの二人組だった。
入口のドアを開けるなり、二人は無言で顔を見合わせた。
「さすがに起こした方がよくない?」
「でもさ、男の人がいた方がいいよ」
「となると」
二人はオフィスに戻って、出社したばかりの呉さんを連れてきた。
呉さんは普段よりも早めに出社していた。さすがに昨日の事件のこと、支店長の様子が気になったのだろう。
呉さんの人事課長としての能力はある意味すぐれているのかもしれない。
実際今日、早く来たことで、さらなる事件を起こさなくて済んだのも事実のようだ。
昨晩応接室で眠っていた偉大なるボスは、なんとまぁ、今度は居場所をトイレに変えたのだというのを、今目の前で聞かされたのだから。
呉さんはちょっとだけげんなりした表情を浮かべたものの、潔くアリーのトイレにやってきて、太田部屋をノックした。
「支店長!」
ノックの音に、一瞬、地響きが止まる。
「支店長、起きてください、呉です」
呉さんはノックを続ける。
「ん??」
いびきではなくて、人の声が聞こえた。
「ああああぁ」
どうやら呉さんの声に反応を示したようだ。
「ん、ちょっと、待って、くれ」
弱弱しい声が聞こえてきた。
そのあと、しまった、という支店長がつぶやく声が、はっきりとトイレの中に響きわたった。
「呉くん、すまないが」
彼は続けた。
シャツを一枚買ってきてくれないか、と。
その言葉に呉さんの後ろに立っていた、女性二人が慌てて飛び出して行くのが見えた。
呉さんは支店長、わかりました。でも大きさはどのくらいでしょうか、個室の扉ごしに会話を続けてから、僕のところを去って行った。
時計の針はまだ八時半をさしていた。
「シャツなんか買える店はコンビニくらいしか開いてないなぁ」
呉さんが力なくつぶやいて、オフィスから出ていくのが見えた。
アキちゃんとシマちゃんは面倒な出来事に巻き込まれたくないという思いもあって二人して応接間に隠れて、ただ一人支店長の面倒を見るおじさんの観察を続けていた。
そもそも応接間自体、若干アルコール臭くなっていたので、消臭スプレーをかけることにしたようだ。
「支店長、相当飲んだみたいね」
「っていうか、こんな格好悪い姿、誰にも見られたくないわよね、普通」
昨晩の出来事が夢ではなくてこうして今日につながっているという事実を二人は思い知らされたようだった。
「なんか、あったのかもね」
「浮気がばれた?」
「え、そっち?仕事関係とか?」
女の子たちの噂と詮索好きはたとえそれが、自分たちのいやな記憶を掘り返すことにつながることであってもとどまることを知らない。
二人が応接間を掃除しながら、そんな会話をしているころ、他の社員たちも次々に会社にやってくるのだった。
呉さんが帰ってくるまでの間に、ほとんどの社員が出社したのではないだろうか。
皆、トイレにやってくると、何も変わらない様子で、挨拶を交わし、それぞれの個室へ入って行く。
太田部屋に人が入りっぱなしであるということに気が付く人は、いるのだろうか。
皆、支店長が一番最初の個室に入っていることには注意も向けず、それぞれの朝を迎えているようだった。
「おはよう」
柏木さんが普通にやってきて、いつもと変わらない様子で声をかけた。
ちょうど細貝君が洗面台で手を洗っているところだった。
「山本さんを見かけた?」
「いえ、今朝はまだ見かけていない気がします」
「そう?ふーん、わかったわ、ありがとう」
軽い会話を交わして彼女は一番奥の個室へと向かう。
柏木さんが個室に入ったのとほぼ同時に呉さんとアキちゃん、シマちゃんの三人がやってきた。
「なんか大勢ですね」
三人が一緒にトイレに入ってきたものだから、細貝君は若干目を丸くしていた。
まぁね、とアキちゃんが答えて、続ける。
「なんか変な叫び声とか嗚咽とか聞こえなかった?」
シマちゃんが細貝君にたずねると、彼は首を横に振った。
「また寝ちゃったのかもね」
「寝ちゃった?」
「そう、支店長、ここにいるはずなのよ」
冷ややかな声でアキちゃんが細貝君に打ち明けた。
念のため、とシマちゃんはコップに入ったお水と胃薬を手にしていた。
「支店長?」
ドアを再度ノックする。
・・・。
が、反応がない。
「沈黙ね」
柏木さんが会話を途中から聞いていたようで、手を洗いにやってきた。
こんこん、とノックをしてもう一度、皆で声をあげる。
「支店長!」
さすがに今度は沈黙を守れないと覚悟を決めたのか、それとも、単に本当に眠っていたのか事の真相は不明だが、中から声が聞こえた。
「ああ、起きた」
「お水と薬をお持ちしましたから、少し飲まれた方がいいと思います」
お客様にご挨拶をするかのようななめらかな口調でシマちゃんが続ける。
「わかった」
妙に落ち着いた声で支店長が個室のドアを開けた。
なんだか、追い詰められた犯人が立てこもりをしていて、ついに覚悟を決めたかのようにも見えるほど、ゆっくり、そっと、その扉は開かれた。
「うっっ!」
「え、支店長・・・」
中から出てきたのは、上半身裸の支店長の姿だった。
当然ながら髪の毛はぼさぼさになっていて、一見、この人が本当にこの場所においてもっともエライ人とは思えない様相だった。
「上着を買ってきましたけれど、その前に少し顔を洗われた方がいいかもしれません」
呉さんが冷静を装いながらそう言った。
「そうだな」
これまで見たことがあまりないような、少しうつろな表情の支店長はそのまま洗面台へ向かって顔を洗い始めた。
「どうぞ」
顔を洗い始めた支店長に柏木さんが差し出したのは試供品の洗顔フォームだった。
「すまない」
支店長が珍しく弱気そうに答えた。