アリーのトイレー16
もちろん、もしこの支店長の事件がなかったとしても、そろそろお酒もなくなるし、パーティは終焉に近づいていたことに間違いはないのだが、それにしても、なんとも後味の悪い終わり方だ。
イスは元あった場所に戻された。
飾りに使った花は柏木さんのデスクの上に飾られることになった。
そして僕は元のアリーのトイレになった。
何があったのか一部始終をカメラに収めていたジョンは柏木さんにカメラを手渡した。
「証拠写真です、どうぞ」
カメラを受け取った柏木さんはジョンの目をまっすぐに見つめ返した。柏木さんは珍しく驚きの表情と固まってしまった表情が入り乱れたような表情だった。
「そうです。支店長は何も覚えていないでしょうから」
ジョンは冷静にそう言った。
「訴訟問題になった時に使えると思いますから」
黒い王子がそういうと、その様子を見ていた山口さんや太田さんがジョンに拍手を送った。
「さすがに今日の一件は偶然とはいえ、ちょっと度が過ぎているでしょう」
山口さんが淡々と言葉を口にする。
「ありがとう、ジョン。そしてみんな」
柏木さんは意を決したようにそういって、ジョンの持ってきたカメラの画像のスイッチを入れた。
最後に撮影された写真は今まさにみんながきれいにあと片付けを終えた、ごくごく普通のアリーのトイレの姿だった。
写真を前へと送っていくと、山本さんに覆いかぶさって、今にもその手が彼女におそいかかるかのように見える支店長とのツーショットがあらわれた。
「なるほど」
柏木さんは写真を見ながら少し驚いた表情をしていた。
ジョンの写真は的確に状況を伝えていた。もしかすると若干大げさに見えるかもしれないくらいに。というのも、本当に今まさに支店長の左手が山本さんの胸に迫ろうとする一瞬を間違いなくとらえたものだったからだ。
支店長の左手の指先が何か柔らかいものをつかもうと、若干折れ曲がっているのがまた現実的な画像だった。
「ひゃあ、俺、すごい」
改めてその写真を見てジョンもつぶやく。
黒王子、さすがです。
その写真が伝えようとしている何かをつかみ取るかのように、その場にいた全員が釘付けになった。
これ以上言葉を紡ぐのも難しいなと皆が思い始めた頃、柏木さんがゆっくりと次の一枚へと写真を送った。
次に出てきた写真はそこまで迫る勢いではなかったものの、支店長とその下敷きになってしまった山本さんの写真だった。
柏木さんは無言でしばらくその映像を眺めたあと、次の一枚、またその次の一枚と次々に写真を1枚ずつ前へ送っていった。その2枚の写真を除いては、楽しそうなパーティの様子や笑顔の仲間たちの画像でいっぱいだった。
最初に乾杯をしたときの画像もある。
記念撮影とばかりにみんなで撮った一枚があらわれた。
「いい写真ねぇ」
その写真に柏木さんも思わず声をあげた。
「でも、これ、誰に見せる?トイレでパーティやって記念撮影だなんて。みんなびっくりしちゃうわね」
「でもぱっと見た感じ、この場所がトイレってわかる人そんなにいないと思いますよ」
「確かにそうねぇ。トイレらしいものといえば、大きな鏡くらいかしら」
カメラを覗き込みながら、次第にその場にいた人たちも会話に参加しはじめ、いつもの職場の雰囲気が戻ってきたようだった。
「拡大印刷して額縁に入れて飾りますよ」
さっきまで言葉にしがたい気持ちに襲われていた山口さんもそんな風に会話に参加しはじめた。
「応接室に飾りますから」
「それ、グッドアイデアです」
皆が口々に好きなことを言いながら、さぁ今日は帰りましょうと言い合って、アリーのトイレでのパーティは終焉を迎えた。
「柏木さん、支店長はどうされますか?」
「呉さんに任せますよ」
柏木さんはいつもの笑顔に戻って、呉さんの肩をぽんと叩いた。
「私だったら、そのまま放っておくわ。自己責任よ、いい年して泥酔するなんて。それにタクシーにも断れるでしょう、こんな感じじゃ」
支店長が眠っている姿に、呉さんもそうですね、と言わざるを得なかった。
「目が覚めるまで待ちたかったら別だけれど」
でも柏木さんは実は相当賢いから、こんなことが言えるんじゃないかと思う。
彼女は呉さんに任せると言ったのだ。
呉さんが支店長のそばにいて、彼の目が覚めるまで待って、今日の一部始終をどんな形であれ、彼の口から二人きりで報告してもらっても構わない、というのが彼女の本当の意図のようにも聞こえた。
「いえ、今日の一件をお伝えするのは明日にでも」
「人事課長なんだから、お任せしますよ、ご判断は」
いつもと同じ明るい口調で、でも強い言葉が印象的だった。
「はい」
結局、応接室に支店長を残したまま、この日はお開きとなった。
さて。今日の出来事は誰がどうやってこのお偉い様に報告するのだろうか。
まず彼は目覚めて最初に何を思うのだろうか。
いや、それより、あまりに気持ち悪くて、最初に僕のところにやってきて、何かを嗚咽するのかもしれない。
何やら無駄なことを考えているうちに、オフィスはいつもと同じ闇に包まれた。
さっきまでの笑いに満ちた時間はまるで遠いできごとのようにも感じられるほど、今日の闇は深くてさみしいものだった。
支店長と二人でこのオフィスにいることがちょっとだけ居心地の悪さを味付けされているのかもしれない。
いつもと同じように掃除のおばさんが僕に朝を知らせてくれる。
石川さんは昨日の夜の出来事がまるでなかったかのように、いつもと同じ手順で何一つ変わることなく淡々と掃除を始める。
昨日、この場所で騒いだことを石川さんが口にすることもない。
彼女は無心のまま、昨日とも、一昨日とも変わらず、僕を綺麗にしてくれる。
そして最後に点検をしながら、個室の便器のふたをしめてまわるのだ。
パタン、パタン、パタン、パタン、パタン。
その音が心地よく僕の中で響くと、朝の行事が終わる。
いつもはこの後、一瞬の静けさがやってくるのだが、今日はそれだけが違った。
「あ」
トイレにやってきた人がいたのだ。
「おはようございます」
石川さんが丁寧な口調で声をかけたのは昨晩から応接室で眠っているかの人であった。
「あ、おはようございます」
横柄な態度が売りの支店長だが、石川さんの他人行儀な台詞に驚いたのか、丁寧な口調で、挨拶したのだった。
昨晩の出来事を思い出すかのように、首をかしげながら、頭をかきながら、支店長は掃除の終わった一番手前の個室へ入っていった。
石川さんも昨晩の出来事は目にしている。でも彼女はそんなことを一切顔には出さず、黙々と片づけを終えて、僕のところから出て行った。
彼女が出て行った後、支店長の苦しそうな声がアリーのトイレに響き渡る。
支店長、嗚咽してるんだな。
しかも彼がいるのは、かの有名な太田部屋である。
やはり皆、飲みすぎた人はここへ駈け込むことになるのだなと思っていると、支店長の叫び声にびっくりしたのか、石川さんが帰ってきた。
「大丈夫ですか?」
石川さんが個室に向かって声をかけると、ほどなく、激しく咳き込む声が聞こえてきた。
だ、ダイジョウブだ、とかすかな声が咳の間に交じる。
「トイレ、洗ったばっかりですから、キレイですからね、楽な格好をされた方がいいですよ」
苦しそうな支店長の声裏腹に石川さんの冷静な言葉が静けさを取り戻したアリーのトイレにこだまする。
そうだよね。
石川さん、たった今掃除終えたばっかりなのにね。
支店長に汚されたら元も子もないよな、と思う。
石川さんは自分が綺麗にしたはずの場所がどうなったのか見ておきたかったんだと思う。
しかし支店長が出てくる気配は一向にない。
いい加減、石川さんも帰る時間が迫ってきたようで、彼女はアリーのトイレを後にした。
「あの、私もう行かないといけませんので、これで失礼しますけど、あまりご無理をなされませんように」
「あ、ありがと、ごほっ、ごほっ」
話さなくてもいいのに、と思えるほどか細い声が個室から聞こえた。
石川さんが帰ってしばらくの間、アリーのトイレは静寂に包まれた。
支店長が太田部屋にいるのも忘れるほど、その時間は静かなもので、いつも僕がうとうととする時間と何も変わらない様子に思えた。