アリーのトイレー15
まぁその前に、僕は自分のことを心配しなくちゃいけないのかもしれないけれど、きっと僕がどうなってしまおうと、この人たちはこの場所に残り続けるわけなのだから、なんとなく親心というか、今までこの人たちを見てきた人の一人として、ついつい気になってしまう。
僕はたぶん、いつの間にか自分はこの人たちと一緒にここで働いているんだという風に思うようになったんじゃないだろうか。
本当はただのトイレなんだけれど。
いや、僕はただのトイレなんかじゃなくて、アリーのトイレとして、ここでみんなと一緒に働いていたのだと思いたい。
だからこそ、こんな風に思うようになってしまったのかもしれない。
僕の心配をよそに、皆それぞれにグラスにお酒を注いだり、カナッペやお寿司をつまみながらこのパーティを楽しんでいるようだった。
僕も今日は楽しもう。こんな風にまさかアリーのトイレがパーティ会場となる日がくるなんてこれまで想像したこともなかった。
だいたい普通のトイレで飲食をすることを想像することが難しい。
でも僕のところは違うんだ。
アリーのトイレではそんなことすら現実にしてしまえるのだ。
カーテンで個室と洗面台の空間を仕切っているおかげで、ここがトイレであるということは一目では分からないように工夫もされていて、僕はまるで自分自身がどこか別の場所にあるパーティ会場か何かになったような気分だった。
みんな素晴らしい笑顔をしているんだなぁと改めて、僕は同僚たちを見た。
一見愛想のなさそうな呉さんも心から笑っている。
アキちゃんもシマちゃんもいつも以上に素敵な表情でみんなと歓談している。
山本さんもクールな表情であることに変わりはないものの、嬉しそうに頬を赤らめているのがわかる。あ、これはお酒のせいかもしれない。
気が付くと、大きなシャンパンボトルが数本あいて、ケータリングのお寿司の代わりに空のビール缶が並んでいた。おしゃれに並んでいたカナッペのところには、誰かが持ってきたらしいポテトチップスやオリーブといったおつまみが登場していた。
楽しい時間は本当にあっという間に過ぎるものだ。
そう思っていたらドアの外でアキちゃんと山本さんがギャアと大声を上げた。
あまりに大きな声だったので、皆一瞬で静かになった。
「変態!!!」
続いて聞こえてきたのは山本さんの耳をつらぬくような黄色い叫び声だった。
その声に、咄嗟にトイレの中から呉さんが出て行った。
さすが人事課長、こういう時の反応はかなり早かった。
そして呉さんは目の前で見た光景を、そのまま言葉に表した。
「支店長!!」
その言葉にトイレの中にいた人たち全員が慌てて外へ出て、その様子をうかがいに行った。そしてこれまでの楽しくて穏やかな雰囲気は一変して、緊張感の張りつめた、朝の掃除の後のような空気に豹変した。
その場にいた全員が言葉を失ってしまった。
皆が見た光景は、山本さんの体の上に、まるでおそいかかるかのように覆いかぶさる支店長の姿だった。
支店長はむにゃむにゃといいながら、山本さんの胸に手をのばそうとしているところだった。
「ちょっと、支店長!」
呉さんが大声で叫んでも、支店長は気が付いていない様子だった。
支店長は夢の中なのか、その手を伸ばそうとしていた。
「叫んでいないで、このおっさんを引きはがすのが先じゃなくて?」
冷静な声で柏木さんが呉さんや周りに取り囲んでいる男性陣にぴしゃりと言った。
結構大柄な支店長を持ち上げるのは至難の業で、呉さん、細貝君、そして山口さんたちが手伝って、なんとか体を持ち上げて、床に座らせることに成功した。
「キモイ酔っ払い・・・」
山本さんがゲホッ、ゲホッと咳をし始めた。
「そうよね、気持ち悪かったわよね」
シマちゃんが山本さんを介抱して、彼女を僕のところへ連れてきて、個室の方へ連れて行った。
「うぇー」
山本さんの苦しそうな声が周囲に響いた。
そうだよね。
そうだよね。
気持ち悪いよね。
一番気持ち悪い、いわゆるイケテないと思っているオヤジに、偶然とはいえ、体と体が接触してしまったのだから。
ましてやその人は全く状況がわかっていないのか、彼女の胸まで触ろうかという勢いだったのだから。
アキちゃんの証言によると、まず相当酔っぱらった支店長がオフィスに帰ってきたのをアキちゃんと山本さんが見かけたのだそうだ。
遠くから見ても相当危なっかしく、ちょっと様子を見に行った方がいいと思っていたところ、支店長がトイレの方に向かって歩いてくるのが見えたので、二人は途中まで迎えに行くことにしたのだそうだ。
支店長のすぐそばまで来たのに、泥酔しているからか、全く目の前にいる二人に気が付かない様子だったので、アキちゃんが声をかけた。
「あ、支店長」
それにはさすがに気が付いたらしく、支店長は挨拶代わりに手をあげようとしてバランスを崩して、そのまま目の前にいた山本さんの方向に向かって、前のめりにこけてしまったのだそうだ。
そして、見事に山本さんは支店長の下敷きになり、本当にお酒で自分と記憶を失っている支店長は彼女を奥さんだかお店のお姉さんだか何かと勘違いしたのか、やわらかい自分の体の下に倒れている存在を触りたいという衝動にかられてしまったようなのだ。
そして。今に至る。
「これは始末してもらわないといけないわね、呉さん」
柏木さんが冷静な口調で伝える。
「人事課長として何を見ていたのか報告してもらわないといけませんね」
「はい、おっしゃる通りです」
さすがに今回ばかりは呉さんは支店長の言いなりではなくて、柏木さんに従わざるを得ない状況だった。
全員が証人だった。
柏木さんは周りの男性陣に指示をして、支店長を応接間のソファーに寝かせた。
そして女性陣にはお水と毛布か何かかけるものを持ってくるように指示をした。
支店長はソファーの上で静かにすやすや寝息をたてて眠っている。
まるで彼は何もしていない人なのだと言わんばかりだ。
何とも表現しようのない気持ち悪さに襲われている山本さんを気遣って、アキちゃんが彼女を近くのスパ施設に誘った。そこへ行けば夜中まで開いている温泉施設とシャワーがあるので、少なくとも体で感じている気持ち悪いものは流せるからと提案したのだ。
山本さんは大喜びでその誘いに乗って、二人は出かけて行った。
残された人たちはアリーのトイレを片づけ始めた。
「お酒もお料理もほとんど終わってからでよかったですね」
石川さんの言葉に本当にその通りだと皆がうなずいて、黙々と片づけ作業に取り掛かるのだった。
個室と洗面台とを分けていたカーテンは支店長の毛布代わりになった。
毛布なんてものはもともと会社に常備していなかったので、何かかけるものが他になかったのだ。
仮設テーブルは分解されてただの木のくずになった。
ワイングラスは分別されてプラスチック再生ゴミになった。
さっきまでの華やかでなごやかなパーティは一気に終わりを迎えたのだ。