アリーのトイレー14
「それでは、はじめますかね」
ジョンが嬉しそうにシャンパンボトルを取り出し、呉さんにせっかくだから開けてくださいとおもむろに差し出す。
予想外の出来事に若干うろたえながら呉さんはあわてて両手をあげる。
拒否しながらも顔が思いっきりにやけている。
「僕がこういうの苦手だと知っててやってるんでしょ?」
「当たり前じゃないですか。こぼしても問題ない場所でシャンパンあけるなんて、めったにできないことですよ?」
ジョンの突っ込みはさすがのもので、その場にいたみんなから笑いがこぼれた。
「さすが、ジョン!」
太田さんをはじめとする営業部隊の人たちが、呉さん、やらないと一生後悔しますよとちゃちゃを入れる。
雰囲気に負けてしまった呉さんは、あげていた両手をしぶしぶとシャンパンボトルに伸ばす。そしてその重さに、はぁとため息をついた。
「呉さん、頑張れー!!」
呉さんが顔をそむけながら、シャンパンボトルのコルク抜きに挑戦している。
なんだか腰が引けているようで、その姿に周りも盛り上がる。
ジョンの丁寧なアドバイスで、コルクの栓に布をかぶせて、ゆっくり、ゆっくり栓を開ける呉さんの様子は確かに何か滑稽なものを感じさせる。
いつも呉さんはどちらかと言うと、あまりみんなに人間味を見せないというか、笑いをふりまいたり、親しさを兼ね備えた雰囲気の人ではない。普段、どんなにエライ人たちが来てもあまり表情を変えないのが呉さんだというのに。
そんな人が、小さなボトルを目の前に、腰が引けている姿は確かに見物だった。
しゅ、ポンッ!
呉さんと同じように、恐る恐るコルク栓がボトルから抜けると、周りから一斉に拍手が起きた。
「やりましたね、呉さん!!」
「よかったよかった」
若い人も普段一緒にいるスタッフも柏木さんも一緒になって呉さんをほめたたえる。
呉さんはちょっと照れ笑いを浮かべながら、シャンパンボトルをジョンに手渡した。
「なんか、こんな風にみんなに賞賛されたこと、はじめてなんだけど」
呉さんの言葉がさらにみんなの笑いと盛り上がりを誘う。
確かにこの人のこんな表情見たことない。
監査役が来たときの笑顔とはまったく違う、やさしい微笑みの呉さんがそこには立っていた。
「じゃあ、呉さんが開けてくれたボトルで乾杯ですね」
盛り上がりつつもアキちゃんが着々と準備を進めていて、シャンパングラスの中にしゅわしゅわと泡立つ輝く飲み物が注がれていた。
「みんな、グラスを手に取りました?」
柏木さんがこほんと咳払いをすると、急にみんなが静かになった。
「最初に、今日はこんなに素敵な夜をありがとう」
彼女はそんな言葉から乾杯のあいさつを始めた。
「みなさんがすでに知っての通り、ここ、アリーのトイレは本当に素敵な場所です。この場所でみんなと、こんな風にお酒を飲める日が来たことに感謝!」
天真爛漫な少女のような笑顔で、彼女はグラスを掲げた。
乾杯。
みんながグラスをそれぞれに合わせる。
かち、かち。
と、プラスチック同士のちょっとだけ安っぽい音がする中で、みんな、柏木さんに感謝の拍手とお礼の言葉を言い合った。
この人の理解がなければ、こんな企画は成立しなかったのだと思うと、僕の方こそ柏木さんに感謝しなければならいのかもしれない。
いつの間にか普段閉じたままのトイレへの入り口の扉が開けっ放しになっている。
「一応食べ物もいくつか用意してみました」
シマちゃんがトイレの外側に出したテーブルの上にケータリングのお寿司を並べているのが見える。
「ありがとう、シマちゃん、さすが気が利くわね」
すかさず柏木さんがトイレの外に向かって声をかけた。
この人はこういうところがすごいよなぁといつも感心させられる。
気が利く人って、こういう人のことを言うんだろうな。
「皆様、スペシャルゲストのご紹介です」
ジョンが声高らかに、一人の女性をエスコートしながら僕のところへとやってきた。
「おー!!石川さん!!」
「いつもありがとうございます」
石川さん。
あ、そうなんだ。この人、石川さんというお名前だったのか。
それは普段、僕のことを一番丁寧に扱ってくれている、掃除のおばさんだった。
「せっかくなので招待させていただきました」
石川さんは少し緊張した様子でアリーのトイレへとやってきた。
「ああ、石川さん。本当に今日は来てくださってありがとうございます」
そう声を上げたのは、意外や意外、呉さんだった。
「いや、男女が同じトイレだというのに、これまで汚いとか臭いとかいうくだらない苦情に悩まされなかったのは、みんな石川さんのおかげです。本当に本当に感謝しています」
なるほど!!
みんなが同じことを思ったようで、呉さんの低姿勢ぶりに圧倒されながら、うんうん、と頷くのだった。
確かに石川さんが果たしてくれた役目は大きいと思う。
いつもこの場所は綺麗だった。
みんなが綺麗に使うように心がけていてくれていたことも事実だけれど、それ以上に最初から綺麗だったというのが本当のところだ。
そして、このアリーのトイレが原因で何か大きなトラブルがあったこともない。
「いやぁねぇ。男女一緒のお手洗いって結構ないようで、あるんですよ」
意外だったのは石川さんの言葉だった。
彼女はビル管理会社から派遣されている、掃除を専門に行うスタッフの一人だった。平たく言うと、掃除のおばさんが彼女の職業だ。
普段、このビル以外に別のビルや事務所にも掃除に行っているそうだ。
「小さな事務所なんかは、トイレが男女一緒なのは当たり前のことだし、大きな事業所でもガイジンさんがたくさんいるところは同じようなところがありましたよ」
彼女の言葉に皆、興味深々だ。
「そしてそういうトイレは大体綺麗に使ってくれるんですよ、みなさん」
石川さんによると、女性トイレと男性トイレとを比べると一般的に女性トイレの方が汚くて掃除をするのが大変なのだそうだ。
男性と女性とを比べると確かに女性の方がトイレでの滞在時間が圧倒的に長くなる。ひっきりなしに人が出入りすることもあって、掃除をするのも一苦労なんだと石川さんは言った。
みんなそれぞれが石川さんにトイレ掃除について質問をして、普段聞かない世界のことを聞いて楽しんでいるようだった。
確かに昔から風水でも水回りの掃除は大事だと言われている。トイレは神聖な場所だという人だっているくらいだから、普段聞くことのない世界にみんな興味津々な様子だ。
「まぁでもトイレでこんな風にお酒を飲むなんていう経験ははじめてですけれど」
石川さんのその言葉に、みんなもちろん私もですよ、と声をあげた。
「でも、なんていうか。この場所ってみんなにとって憩いの場所だったと思うんですよ」
「憩いの場ですか」
「ええ、そうなんです。憩いの場」
アキちゃんが真剣な顔つきでそう言った。
「確かに、山本さんがゴルフを始めたきっかけだって、ここでの立ち話じゃない?」
「そうですね、ここでゴルフのお誘いを受けていなかったら、今こんな風にゴルフ接待で困ってないと思います」
笑いながら山本さんはそう言った。
「まぁ、ゴルフ接待のことは本当に申し訳なかったと思ってるんだから」
柏木さんは山本さんの言葉に対してねぎらいの気持ちを表した。
「まぁでも、それくらい山本さんのゴルフの腕はプロ級ってことの証明でもあるのよ。だって本当、みんな太刀打ちできないわけだから」
「そうですかねぇ」
山本さんが珍しく柏木さんの言葉にちょっと照れているのが僕にもわかった。
彼女はゴルフコンペがある度にどんどん成績を上げて行くものだから、他の人がどれだけハンディキャップを持っていたとしてもかなわないのだと、よく男性陣が噂していたのも事実だ。まぁそんなことを言われているということ、本人は知らないのかもしれないけれど、僕が想像する限り、山本さんはその辺のゴルファーじゃないくらいのレベルの人なんだということだ。
学生時代、山本さんはソフトボールのエースだったらしいというのも、確か誰かが言っていた。だから何かを振ることに関しては飛びぬけて勘が良いに違いないのだと。
実際僕はゴルフをやっている彼女を見たこともないけれど、きっとみんながほれぼれする姿なんだろうなぁ。
「山本さんがグリーンに立っている時、多分この会社で一番エライ人のように見えるのよ、本当に」
「柏木さんの意見に私も賛成です」
「そうよね?」
「ええ、本当、なんていうか、オーラが違うんですよ。立っているだけで」
「まぁだから、たまにみんなが誘いたくなるのも、ちょっとだけわかってくれればいいわ、ちょっとだけ」
柏木さんの意見に山本さんは満足そうな笑顔を向けた。
ゴルフ仲間たちが今日こそは、とばかりに山本さんに話しかける様はちょっと面白くて、何やらみんなでよってたかって彼女を持ち上げているようにも見えたのも事実だけれど、やっぱり柏木さんはすごいなぁ。山本さんの気持ちもわかっているんだろうなぁ。
この会社、この人がいなくなったらどうなっちゃうんだろう。