アリーのトイレー1
たぶん、この会社の中では、みんなにとって、僕のところだけが唯一心休める場所なのかもしれない。
彼らは僕のところで、思い思いに会話を交わし、時には泣いたり叫んだりしながら、それぞれの席へ戻っていくことが多い。
いまどき珍しいとよく言われるのだが、僕のところには、男性も女性もやってくる。
僕のところへやってくる人たちに話す前に、について話しておきたいと思う。
たぶんかれこれ十年くらい、僕はこの会社のオフィスにいる。
白くてきれいなドアを開けると、男女兼用の洗面台が五つ並んでいる。
洗面台のある化粧スペースの向こう側に、個室が五つある。
僕の特徴は、男女兼用であるということだ。
誰が作ったのか知らないけれど、僕の抱えている個室五つは、特に男性用、女性用と決まっているわけではない。
だから空いているところに男性も女性もそれぞれ入るのだ。
一番人気はなぜか、入口から入って二番目の個室だ。
五つの個室のうち、たった一つに人が入っているとするとそれは大体、二番目の個室だったりする。特に二番目の個室が綺麗なわけでも、何かいい香りがするわけでもないが、みな、最初に二番目の個室に入る。
僕にはその理由がよくわからないけれど、みな、この二番目の個室が好きなようだった。
たぶんドアを開けて最初に目に入るのが、その扉だからかなとか、いろいろ考えてみたけれど、結局いまだにそのことについての謎は解けていない。
ちなみにこの会社の人たちはみな僕のことを「アリーのトイレ」と呼んでいる。
なんでそう呼ばれることになったのか、ちょっとだけ思い出してみると、昔流行ったアメリカのドラマに「アリー・マイ・ラブ」というのがあって、その主人公の勤める弁護士事務所だか何かのトイレが、男女兼用だったことに由来するみたいだ。
僕のことを「アリーのトイレ」と名付けたのは、今やこの会社を支える営業部長でもある、柏木さんだ。
最初、この場所に僕が生み出されてすぐは、女性しか訪ねてこなかった。でもその時代は三年くらいで終わり、そのあと数年間は、逆に男性しかやってこなかった時期もある。
ただ、僕の記憶の範疇でいくと、この五年くらいは、男も女も関係なくやってくるようになった。
ずいぶん前に柏木さんが言ってた気がするけれど、最初この建物は女性下着メーカーが建てたものだったそうだ。その下着メーカーが海外に拠点を移すことになって、別の会社に買い取られたそうだ。次にやってきた会社はゲームか何かの制作会社だったのだけれど、結局ほかの会社に買収されて、今の旅行会社がやってきたんだそうだ。
たぶん僕は、ここの従業員の中でも相当会社の歴史だとかに詳しい方じゃないかと思う。
なぜかみな、僕のところにくると、おしゃべりになる人が多い。
特に女性はみな、洗面台の前で電話対応で腹が立ったことや、噂話をしていくのがほとんどだ。その噂話に便乗する男性もたくさんいるのも事実だけれど。
一方、男性だけが洗面台の前にいると、言葉少なく挨拶や、ゴルフや飲み会の話をちょっとして帰っていくことがほとんどだ。
正直彼らの話題はあまり面白くない。
いつも決まった話題しか交わされない気がする。彼らは毎日何を楽しみに生きているのか気になるくらいだ。
ただそこに、女性が一人でも混ざると、ゴルフの話から日焼け止めの話になり、化粧品はどこのものを使うのがいいのかみたいな話に発展することもあるのだから、すごいと思う。
ゴルフといえば、最初、ゴルフにまるで興味がなかった山本さんという社員がいたけれど、彼女はあまりにおじさんたちが嬉しそうにゴルフについて話すものだから、どれだけ楽しいのかと思ってゴルフを始めてしまったのだと言っていた。
そんな山本さんは、今や、この会社で誰よりもいいスコアでコースをまわっているのだと、経理課長が言っていた気がする。
そういえばここ数日、山本さんを見かけていないけれど、海外旅行の添乗にでも行ったのだろうか。彼女は英語とフランス語が堪能で、たまにトイレの中でどこかの国の言葉でぶつぶつと何かをつぶやいていたこともあった。どうせみんなに聞かれるなら、みんながわからない言葉でいうべきでしょ、と、洗面台で出くわした同僚に言っていた。まぁ彼女が会社を辞めたという噂話は聞かないから、きっとそのうちまたやってくるだろう。
最近見かけていないと言えば、アキちゃんも見かけていない。
先週、一番奥のトイレですすり泣いているのを見かけたのが最後だったかなぁ。もしかして誰かにいじめられたりして、辞めてしまったかな?
でも、アキちゃんの悪口を言っている人は見たことがないから、僕の取り越し苦労だといいのだけれど。というのも、彼女はいつも、便器のふたを綺麗に閉めてから出て行ってくれる数少ない人の一人だからだ。
できれば僕はすべての人に便器のふたを閉めて行ってもらいたい。
さすがに男女共同だということもあって、男性も、便座はきちんと下げてくれるのだけれど、なかなか便器のふたまでは閉めてもらえないのだ。
便器のふたがあいていると、なんか、落ち着かない。
早朝、毎朝掃除に来てくれる一人のおばさんがいるのだけれど、彼女は豪快に、でも丁寧に僕を磨いてくれる。その人が唯一、僕の気持ちをわかってくれている人ではないかとさえ思う。
彼女はトイレの個室、洗面台をピカピカに磨いて、最後の点検と同時に、すべての個室の便器のふたを閉めてくれるのだ。
そのときに、ぱたん、という音が僕の心の中に響き渡るのが、心地いい。
僕はその音が好きだ。
そしてその音のあと、五つのトイレの個室から、ちょっとだけ高貴なラベンダーの香りが漂ってくるのが、またたまらなく心地いい。
朝の唯一、僕が落ち着ける時間でもある。
その時間が一時間か二時間過ぎると、もう、みんなが出社してくる時間になる。そうなると便器のふたは開いたままになることが多くなる。
たぶんアキちゃん以外に・・・数えるほどの人しか便器のふたを閉めてくれる人がいなかったと思う。
まぁ、僕がそんな風に思っているとは誰も知らないから、仕方ないのかもしれない。