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それは私ではないから

作者: 洞 工夫

「ドライヤーをしている時の音が嫌いだから」


「何、言ってんの?」


 彼は驚きを越えると笑ってしまう。本人は呆れているのだというけれど、その顔はどう見ても笑っているようにしか見えない。それも人を見下したような笑いにしか。


「特別に変なことを言った覚えはないけれど」


「いや。いやいや、充分におかしいから、それ」


 やはり彼は笑っている。私の言っている意味が分からないと。この前もそんな顔をしている時があった。確か、テレビのクイズ番組を観ていた時だ。彼が分からない問題を、私が答えた。彼はその時と同じ顔をしている。「たまたま当たっただけだろ。調子に乗るなよ短大卒なのに」


 彼は確かに有名大学を卒業している。私は確かに平凡な短大卒だ。でもその差は、人間性とはなんら関係がない。頭の良さと人の良さは明らかに違うものだ。彼はそのことを、高学歴なのに、知らない。


「俺の聞き間違いじゃないよな。なあ、何て言ったからもう一度教えてくれ」


「だから」


 呼吸をするのも億劫で、それでも彼に伝えたいから息を吸う。伝わらなくてもいいと思いながら。


「私と別れてください」


「その理由は」


 彼は笑う。面白がって。まるで他人事のように。それとも私が冗談を言っていると思っているのだろうか。


「ドライヤーをしている時の音が嫌いだから」


「お前は俺をバカにしているのか?」


 ようやく冗談じゃないことに気付いたらしい。彼は笑うのをやめた。代わりに怒ることにしたようだ。弱者にしか見せないその迫力は、どうしてか見ていて悲しさがこみ上げてくる。哀れだな、と率直な感想を抱く。彼の怒り方は、付き合い始めた最初のケンカの頃から変わっていない。


「あなたのことは尊敬しているよ」


「それなら」


「尊敬と愛情は違うものだと思うけれど」


「だってよ」


 そこで彼は口を噤む。なんと言いくるめようか考えているのだろう。しかし考えはまとまらなかったのだろう。本音を口にした。


「何て説明すればいいんだよ。何だよ、その別れたい理由は。こっちが恥をかくだけじゃあないか」


 分かっているつもりだ。彼への失望は今更覆ることはない。それでも実際に言葉として聞いていると、自分への自己嫌悪と情けなさで、なんだか泣けてくる。


「私たちのことなんだから関係ないでしょ」


「……そりゃ、そうだけど」


 自分勝手な彼は、その身勝手さにすぐに気付いてしまう。せめてそれすらも気付かない愚か者のままなら、私だってもう少し我慢したかもしれない。自分勝手じゃない人間などいないのだから。言ってしまえば個性の一つだと強引にまとめて、私だって関係修復に望まないこともない。


 それなのに彼は気付く。自分がどれだけのことを言っているか。それによって相手がどんな思いをするのかを、想像する。それなら最初から何も言わなければいいのに。その残念な想像力で、私の気持ちを的外れに察して、一人で拗ねるのだ。


「俺のこと、嫌いになったのか」


 捨てられる直前の子犬は、きっとそんな顔はしない。自分が捨てられることを分かっていないバカ犬なら、そんなことは気付かない。だからそれはポーズで、そういう顔をすれば相手の気を引けることを、きちんと学習しているのだ。そしてそうやって覚えた技は、いつだって引き出し使えると思っている。思いこんでいる。手垢まみれになったって、そんなことは構わない。一度味をしめれば、それが永遠に通用すると思っている。なんと切ないことだろう。


「なあ、どうなんだよ」


 弱り切ってます! そう主張しながら、打たれ弱い自分を演じる。いや、打たれ弱いのは事実なのだ。そしてその事実を本人は知らない。真実の姿を演じるという滑稽さは、見ていて、いたたまれなさしか感じない。直視すら出来なくなる。私は彼から視線を逸らした。


「別にね、嫌いになったとかじゃ、ないの」


 我ながら呆れる。よくもまあ、素直に言えるものだ、と。少しは嘘を吐けばいいのに。少しどころか、一から十まで、隅々までその言葉たちに嘘を塗りたくって投げつけてやればいい。そう思うのに、そうは思うのに、私はそれが出来ないでいる。


 思うに私は甘いのだ。自分にとても甘いのだ。最後くらいはきちんとしないと、と変なところで完璧を求めている。完璧なんて、この世にないのに。どんなに完璧に見えても、すぐに小さな瑕に気付くものなのだ。それがどんなに些細なものでも。一度気になったらどうしようもない。自分を騙し続けるか、関係を終わらせるか。私はそうしていつも、後者を選んできた。


「それじゃあ、いいじゃないか」


 彼の情けなさの詰まったそのセリフに、私は吹きだしそうになる。


 洋服の買い物に付き合って欲しいと言った時、彼はとても面倒くさそうな顔をした。その顔は一瞬だけで、すぐに了承の返事をしてくれた。私はその顔をきちんと頭に刻み込んでから、嬉しそうな顔をして、二人で買い物に行った。


 言ってみればデートだ。多少なりとも胸がときめかなければ、相手に申し訳ない。でも申し訳ない、と思っている時点で、既に相手への好意は、あってないようなものなのかもしれない。


 いくつかの服を選んで試着室に入る。カーテン越しに服を脱ぐとき、私は彼を想像する。彼に服を脱がされた時のことを想像する。それは愛くるしいぬいぐるみを手に入れた少女のように、私に甘い夢を見させる。その想像だけで、まだ彼とは一緒にいられると思う。私は彼が好き。私は彼が好き。呪文のように言い聞かせて、またその夢で心を満たす。


 試着室は服を試す場所。だけれど私は、自分を映してくれる鏡を通して、もう一人の私を見ている気分になる。そこにいる私は、甘美な世界に耽っている。いつもそのことしか考えていない。肌の色を見て、身体のラインを確認して、彼が触れることを想像する。その指が私を撫でて、その時だけは大切に扱ってくれる様を想像する。


 愛されているとは思っていない。そこに愛情が見当たらなくても、どこを探しても見当たらなくても、私はおそらく私を一番愛しているから、だからそれで充分なのだ。


 試着をした姿を彼に見せる。何パターンか見せて彼に聞いてみる。ありふれたカップルの、ありふれたやりとり。


「どれがいいかな」


「どれでも似合うよ」


「これにしようかな」


「うん。似合うね」


「でもね、これって決めてたんだよね」


 そう言うと彼は、最初に見せた面倒そうな顔を、今度は隠すことなく私に向けた。


「それじゃあ、いいじゃないか。わざわざ俺に見せなくても、自分で決めればいいじゃないか」


 私は何も言い返さなかった。ただ頷き、そうだね、と言った。


「ううん。よくない」


 私はあの時の試着室でのやりとりみたく、ただ頷き、そうだね、なんて言わない。その時はもう、終わった。試着室での自分の姿を、私はもう、見た。それだけでもう、良かった。それだけがもう、全てだった。


「よくないよ。とってもよくない」


「なんだよその顔は」


 気弱さを見せていた彼が気色ばむ。何事だろうと思ったけれど、どうやら私の態度が悪いみたいだ。


「何だよ。なに笑ってんだよ」


「笑ってなんか」


 自分の頬に手をあててみる。確かに彼の言う通りみたい。私は、笑っている。


「俺をバカにしているのか」


「そうだよ。バーカ」


 彼のバカみたいな口癖。俺をバカにしているのか。せっかくだからと、思い切り認めてみる。


「そうだよ。ずっとだよ。ずっと、ずっと、私はあなたをバカにしていたの」


 彼の顔が赤らんでいく。もちろん恥ずかしさからではない。


「バーカ」


「……そっか。そういうことか」


 赤らめていた顔に哀れさが戻る。それから何かに合点がいったような顔をする。私はその考えを察して、大いに呆れる。その想像力を、もっと別の方向に使ってくれよ、と思わずにはいられない。


「別れたくてそんな嘘を言っているんだな。俺がバカだ、なんて。そんなこと思っていないのに。何だよ。一体何があった。何が不満なんだよ。理由を教えてくれよ。一般的な理由だったら俺だって納得出来るさ。どうしてそこまで別れたがる? 俺はこんなにも、お前のことが好きなのに」


 お前がバカなことが嘘って、どんな嘘だよ。お前はバカだよ。不満しかないよ。理由は最初から言ってるだろ。一般的って何だよ。別れる理由なんてだいたい相場が決まってるだろ。察せよ。なんでお前が納得出来るように丁寧に教えてあげなくちゃいけねーんだよ。別れたいよ。だって私はお前のことが。


 言いたいことを全て脇に置いて、私はあることを思い出す。


 ミカが言っていた。お前は幸せに貪欲過ぎるぞ、と。


「どっかで妥協しろよ。ああ、こういう幸せもアリだなって思えよ」


 私はそれを言われて何て答えたのだっけ。そもそもどうしてそんな話になったのだったっけ。


「どうして彼氏の愚痴を言っているのに楽しそうなんだよ。どうしてのろけ話をしている時は、苦痛に満ちた顔をしてんだよ。お前、どうしてそんなに」


 どうして、どうして。私にはたくさんの疑問が隠されているらしい。それに一つ一つ答える事は、おそらく出来ない。私にだって分からないことがたくさんあるからだ。


「お前は自分が大好きなんだな」


 ミカに言われた。それは決定的な一言だったと思うし、唯一、私が人に言われて認められるところだった。


 私は自分勝手。私はバカ。私は愚か。私は鈍い。私は仕事が遅い。


 色んなネガティブが、私にくっつく。でもどれも、私には似合わない気がする。たとえそれが事実であったとしても、それに対してそこまで傷を負わない。負け惜しみではなく、正直その感覚が分からない。他人に決められた評価ほど、的外れな指摘なんて、この世にはないだろう。


 私は私が大好きだ。それさえ分かっていれば、大丈夫。


「だから。だから何がそんなに楽しいんだよ」


「私、今、笑ってる?」


「誰が見ても」


「じゃあ。それは、そういうことだよ」


「何が、どういうことなんだよ」


 彼は落胆をその顔に浮かべる。それから、お前の言っていることは分からない、と言う。


「だからなんなの」


 私は思い出す。大好きだと言ってくれる、彼の表情を。愛おしいと、抱きしめてくれた記憶を。


「だから、なんなの」


 私は突き放す。彼と接している時間に、そろそろ飽きてきたからだ。


「私は分かってる。私は知ってる。いいじゃない。それだけで。それに、理由は最初にはっきり言ってるじゃない」


 頬に触れてみる。笑っていなかった。鏡を見なくても、私の目が何を語っているのかは、推測することが出来た。


「なんだよ。はっきりした理由って」


「だから」


 その色は、無関心。


「ドライヤーをしている時の音が嫌いだから」


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