17
深い深い、深淵と見間違う記憶の奥底にしまいこんでいた一時の儚い恋慕。何故かそれが今になって暴れ、記憶の濁流が霧がかった意識を呑み込もうとする。それに抗うことはせず、流されるままそれに身を委ねることにした。
気色を白く彩る大雨に包まれ、雷鳴が轟、鈍色の雲がかった心中とは裏腹に、大空は蒼く澄み渡る。恐らくはこちらに対する嫌味なのだろう。天も中々に性格が悪いようで、また光を強める。
そう悪態をつきながら低徊する。何処に行く宛もない。かと言って逢着する宛もない。
同族もいなければ味方も、敵もいない。全て消えた。…いや、消したの間違えか。
取り敢えず羽を休める場所を探すか。一応目的を立てることにした。こうでもしないと自分が何をしたいのか、何をしているのかがわからなくなりそうだからだ。
進む速度を速める。広くて人気のないそんな場所がいい。それが理想だ。だが、都合よくそんな場所があるはずがない。曾て育った故郷ぐらいだ。そんな都合の良い場所は。
肌寒い、乾燥した風が吹き付ける。その不快感に思わず顔を顰める。前方に望む森の木々は皆総じて葉を落としており、動物は冬越しに入り、生命の象徴とも言えるその場所は閑散としている。
そんな季節だからか、人一倍気配に敏感になっていた。
ここから少し北に進んだ場所から面白い気配がした。得体の知れない、感じたこともない稀有なものだった。どうせ帰るために決められた時間も場所もない。少しぐらい道草を食べても罰は当たらないだろう。
意外とその場所には早く着いた。
…ほう。こんな場所があったとは。思わず嘆息する。
そこは現世と常世の狭間のようなどこか浮世離れした雰囲気を醸し出す。その場所から絶え間なく感じる気配。
冬のはずなのに四季折々の可憐な花々が咲き誇る誇大な花畑。そこだけが暗月に支配され、ぽつりと独り佇む巨大な樹はすっかり葉を落としている。その樹陰に一つの気配。
なるべく驚かせないようにゆっくりと近づく。自分の相貌を考えればそんな気遣いは無意味に等しいのだが、そんなことは頭の中に存在していなかった。ただ目の前の少女に、視線が釘付けになっていた。
浮足立つ。鼓動が激しく高鳴る。血液が体内を脈動する。脳みそはぐつぐつと火山の最奥で煮込まれたマグマのように、ドロドロにグチャグチャに、元あったであろう原型をとどめていない。
いつの間にか少女の鼻先と触れ合いそうな距離まで辿り着いていた。
まるで期を見計らったかのように、長い睫毛が揺れる。口から生暖かい吐息が漏れる。長く艷やかな銀髪が流れた。
目が合った。寝起きの眠気眼の紅い瞳にこちらの姿を映し出す。
「…貴方は?」
澄んだ声が鼓膜を刺激する。それは少女の発した声で間違いない。
「迷い込んだのですか?」
可愛らしく子首を傾げる姿と装いから、白い野兎を彷彿とさせる。いや、白兎ではないのだろう。もし、白兎ならこちらの姿を確認するやいなや、飛び跳ねて滑稽な姿を晒しながら逃げることだろう。しかし少女は違う。こちらの気配を感じても、容姿を目の当たりにしても、表情一つ変えることはない。生気は確かに感じられる。しかし自分自身は、彼女が人形に思えて仕方がない。
「迷い込んだわけでは…いや、ただ、帰る場所を探しに来ただけだ」
そう言うと、彼女は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をする。さしずめ、喋れたんだ。そんなところだろう。先程まで人形のようだと思っていたが、心情が顔に出る娘だ。
「そうですか…」
数瞬の沈黙の後、再び口を開いた。
「なら、ここを帰る場所にすればいいじゃないですか。ここはいい場所ですよ。空気も花もきれいだし、景色も美しいし、動物たちと触れ合えるし、果物だって野菜だって生ってるんですよ。是非是非、お勧めしたい土地です!」
一度も噛まず、捲し立てるように言い放った。目尻に涙を浮かべながらそう言われると、さすがに弱る。受諾以外の選択肢がもとより存在していないのだ。幸いなことに断る理由はないのだが。
よろしく頼む。その旨を伝えると、彼女は満面の笑みを浮かべ、飛び跳ねて喜んだ。その姿は滑稽ではなく、自然と心があたたまるものであった。
「よろしくお願いしますっ!ドラゴンさん!」
少女は笑う。手には色彩豊かな花々が紡がれた冠が納められている。その冠は二つ作られていた。では、その一つは何処にあるのだろうか。その答えは簡単で、少女の視線の先にある。
「似合っていますよ」
掠れば皮が切れる程に鋭く尖った漆黒の鱗。そこに不釣り合いなまでに陽気で鮮やかな冠が被せられている。
目をぱちくりさせて見つめる。突然なことで、反応に困る。
「すまない。それに返す言葉を持ち合わせていない」
長い間独りだったせいか会話というのに不慣れで、似合うとか褒められても自分はどう返せばいいのか検討もつかない。簡単にありがとうと言えばよいのだろうか。そうだとしてもまず、ありがとうという言葉を使った記憶が一度もない。こんなことならばもっと会話をするべきだったと今更後悔してしまう。
「似合っていますか?」
そんなとき、少女の声が聞こえた。頭の中の思考にある程度区切りをつけ、少女を見る。
短時間で変わった点が一つあった。膝の上にあった冠を被っていることだ。
「似合っている」
その言葉に嘘偽りない。とても美しかった。身につける小物一つでこうも可憐な姫に見えてしまう。とても良く似合っていた。
少女は花の冠に手を添えながら目を丸くして照れくさそうに笑った。
不意に寒風が吹き付ける。
「きゃっ?!」
可愛らしい小さな悲鳴。鱗にかけられていた花の冠と被った冠が天高く舞い上がる。かなり強い風だったようで、冠はいつの間にか視認できなくなっていた。
樹が寂しそうに泣く。
風が止んだ。少女を見ると、少女は真剣な眼で空…。的確に申すなら、冠が流されていった方角の空を真っ直ぐに見つめている。
それから何かを思い出したかのように、ゆっくりと桃色のハリのある唇が開かれた。
「貴方も私の前から消えてしまうのですか?」
突然だった。あまりに不意をつかれ、一瞬思考が停止しかけた。だが、それも直ぐに正常に戻る。脳は回りだす。
今のところその予定はない。それがこちらの答えだ。だが不思議だった。この娘はこんなことを言うのか。まるで別人のような問いかけだった。
「なら良かったです」
そう言って、にっこりと笑んだ。それ以降その問いかけの真意に迫ろうとはしなかった。知ってしまえば、どうしてかいけないと思ってしまったから。
怒号が夜の街を劈く。人々は四散し、自らの住処をあっさりと放棄する。
崩壊した瓦礫の中から鉄の臭いがした。覚えのある懐かしい臭いだ。この臭いを嗅ぐと自分が自分でなくなるような気がしてならない。
「止まれ!!」
痩せこけた兵士たちがこちらに槍を向け、何か怒鳴っている。目尻に涙を浮かべ、全身を震わせ、腰を引かせながら果敢にこちらを威嚇する。
だがそんなものでは止められないことは彼らも理解しているだろう。願うことなら直ぐ様逃げ出したいはずだ。槍を置いて、鎧を脱ぎ捨て、家族で国を捨て、別国に亡命したがっているはずだ。
まあ兎にも角にも進行を阻むのなら死ねばいい。儂とあの娘の会合を阻む者はどんな生物であろうと咎人なのだ。
竜は咆哮する。その方向は先の壁を倒壊させたものと同一でつまりはそれだけで命を刈り取ることができる。
怒声と悲鳴で満ち満ちた王都を引き裂く。
目の前には抉れた大地の他に何もない。兵士たちは消え去った。ぐちゃぐちゃに原型を留めていない、かつて兵士だった肉塊は共に咆哮で粉砕された家屋と眠っている。
邪魔者が消えた大通り。人の気配はほとんどない。喧騒も耳に入らない。辺りは静寂に包まれているばかりでなんの場面の変化もない。
竜は王城を見据える。
ここに訪れるのは何時ぶりだろうか。数え切れない歳月が経過したのは理解している。しかしながら城は全くと言っていいほど変わっておらず、それに懐かしさなど感じることはなく、逆に忌々しいという感情が大を占める。
その地に据え置かれた要石の中に、今も昔も彼女は囚われている。
ちらりと横目に白銀が過る。それが何かはもう忘れた。今はただ彼女を取り戻すそれだけを覚えていればいい。