15
声高らかにベルが鳴り響く。その音で作業の手が止まる。
極々自然に玄関に視線が誘導される。
「誰でしょう?」
と、独りごちる。丁度この家の主が秘密裏に家を留守にしている時。それが外部に漏れている心配はないはずだ。
なら誰だろう。この時期のお客を挙げるとすればたった一人しかいないのだが、その人は来る前に必ず合図を送る。よってベルを鳴らした何者かは誰かも見当が付かない。
またベルが鳴る。並大抵の相手なら有利が取れる。己の力を適切に評価する。それに…。
目にはだらけて座るチカゲが映る。
大丈夫だろう。
エルミィは走る寸前の急ぎ足で玄関へ向かう。
扉隔てた向こう側の魔力を発する人物に覚えがあった。ドアノブを時計回りに捻り、慎重に開ける。
独特な甘い香りが空中に漂う。
「お久しぶり」
淑やかな落ち着いた声音。恐ろしいぐらい覚えの良い、その声の主は、襟が立った黒い衣に見を包み、小さく手を振る。
「今日はどのような用件でこちらに?」
「ん〜、近くに来たから寄ってみたんだけど…お邪魔していいかな」
ほんの数瞬、懊悩する。そして、扉のこちら側へと迎える。
彼女はレンオアムの古くの友人らしく、度々ここに来るのだ。何度か交流があるからして、無下に帰すわけにはいかない。
軽くお茶をして帰ってもらおう。そう考えた。
「あの人はいないの?」
キョロキョロ見回す彼女の差すあの人はこの家の主のことだろう。今はいない。その旨だけ伝える。
「丁度今外出してまして、すぐに帰ってくるとは思いますが…」
「そうなのね」
素っ気ない返事が返ってきた。それを聞いた彼女は興味を失ったのか、そそくさとリビングへ歩を進める。
それから数分後。眼前に芳しい香り立つ、白い湯気が天に立ち上る紅茶の入ったカップがテーブルに置かれる。お茶請けに皿に盛られたクッキーを中間に置く。
それで口を濡らし、他愛のない話が繰り出される。それから一つ目のクッキーがつままれ、ほんの少し数を減らした時だった。彼女が首を手で覆い、痛みに悶え苦しみ始めたのは。
寸前まで手に持っていたカップは、床に中身をぶち撒け、無惨にも粉砕された。
「ッ…!?」
「だっ、大丈夫ですか!?」
衣が乱れる。立っていた襟が皺をつけ、曲がる。そして、首に赤黒く刻まれた鎖が目に焼き付く。
同刻、突然扉が開かれる。現れたのはチカゲだった。先程の音に反応してきたのだろう。驚いたような顔をしている。
「さっきの音は?」
その瞬間だった。偶然、二人が同じ部屋に集ってしまった。彼女は図ったかのように、魔力を放出する。
鼻孔をくすぐる、追熟した果物が発する悪臭寸前の臭いが部屋全体、ましてや空いた扉から廊下へと漂い、流れる。
反射的に鼻を覆おうとする。しかし阻むことは出来ず、チカゲが倒れるのを視認し、鎖ちらつく視界が静かに途切れた
五分もかからず全てを走破した。外から見る家は何ら変わりなく、いつも通り美しく、きれいに整備されている。そこからは荒らされた形跡など微塵もない。
人気のない庭を革音を奏でながら進む。
杞憂か…。
心の中で呟く。だが、扉を開いた瞬間に、それが杞憂でなかったことを理解した。
充満していた毒の霧が扉から、行き場を探しだした生き物のように大挙して押し寄せる。
その毒の臭いに思わず驚愕する。
有り得ない有り得ない。あいつが片棒を担ぐなど、たとえ天変地異が起こったとしても有り得ない。
だが…。
現実は天変地異のそれまた天変地異が起こったことを意味していた。
目視できた見知った二人。両者共に床に横たわり荒い寝息を立てている。格別、命に別状がなさそうなのが不幸の幸いと云うべきか。
レンオアムは霧去ったリビングで二人を解毒し、叩き起こす。
朦朧と焦点が定まらぬ瞳。次第にはっきりと焦点が合い始め、顔を真っ青に染める。
「何があった」
そう問うと、彼女は小刻みに震える唇を動かし、衝撃の事実と共に、怒るべき事実を知った。
雰囲気が般若の如く鋭くなり、その顔からは何もかもが抜け落ちていた。
これが彼の一面なのか。初見のその表情に恐ろしくなってしまう。しかし何とかそれを悟られぬよう、言葉を紡ぐ。
「すみません。私が着いていながら」
「いや、気にすることはない。君は悪くない。あいつも同じように悪くない。悪いのは…」
言葉を切った。そしてリビングを後にしようとする。それを慌ててエルミィが呼び止める。
すると、彼は背を向けたまま言葉を投げ捨てる。
「夕刻…いや、違うか。陽が消えた刻、戦場で待っている」
静止を振り切り、そう言って無理矢理外に出た。
暁染まり始めた夕空を背景に、彼は歩く。
雑多に生えた叢。城の城壁より高い木々の隙間から覗く陽光が、神秘的なまでに輝かしい。いつもなら生き物たちの鳴き声が木霊し、営みが見れるはずのそこは張り詰めた静寂に包まれ、どこに潜んでいるか検討もつかないが、皆総じて息を潜めている。
土を蹴る音。衣擦れ。息遣い。普段ならまるで気にしないような微音でさえ、そこでは騒音と感じるほど大きく響く。
青々と生気満ち溢れる一枚の葉が、木々の海から左右に揺れながら独りでに宙を揺蕩い地面に着地する。
その落ちた葉は彼に踏まれる。
頭の中は憎悪で一杯だった。頭の一から百までそれで埋め尽くされている。だがしかし、思考は驚くほどクリアで怒りに震えているとは、傍から見てもわからない。
「…」
半々刻。それほど掛かってはいないか。いつの間にか急ぎ足になっていたのか、それぐらいで森の入り口が見えてしまった。
ぼやける明るさを持つ空が夜色に染まるには早い時間だった。
数分後、森を抜けた。
ふと空を見上げる。眼上には変わらぬ茜色の空…ではなかった。青空があった。ちらほらと雲があるが快晴とも呼べるほど晴々した青空があった。
その大空を、我が物顔で、白銀の鱗を纏う巨大な竜が突っ切った。
非現実的な光景だった。
例外を除けば、竜などこの世界には存在していない。それは太古から現在の間にかけても絶対と言い切れる。
ではこの竜は何だ。この世界は何だ。なぜこの光景が。なぜなぜなぜなぜなぜなぜ。考えれば考えるほど疑問点が湧き上がり、留まることを知らない。
眼前に視線を移し、目を疑った。
そこに広がるのは一面黄金色の麦畑。麦畑の横をせせらぐ小川と水車が回る民家。小川の逆の方角には小高い丘。そこには転々と風車が建てられている。丘の向かい、民家の裏手には深緑の森森。穏やかな風が麦畑を靡かせ、木々は鳴き、羽を回させる。
この世界は。のあとに紡ぐ言葉を自分は持ち合わせていない。
よく知った、でもよく知らない、思い出の地。
それを知ってか、極々自然に笑いがこみ上げてくる。
「可笑しい。…あぁ可笑しい!」
大声を出した途端、それはまるでそこに存在してなかったかのように霧散する。
あの光景は何を示したかったのか。考えれば考えるほど可笑しさが思考の壁を劈く。
考えるまでもなかった。答えは既にあった。
途端、笑いが冷めた。
「君は何時だってそうだ。そうやって儂を導く…。今も…あの時も」
独白し、天を仰いだ。そろそろ夕刻が終わる。夕日は傾き、もう半分を隠している。レンオアムは何もかもがなくなった草原を歩き眺める。
天が働き掛けたのかそうなのかは知ったことではないが、日が落ちるのが早く感じた。
その時に見た、所謂黄昏。陽と月のどっちつかずの状態は、征く道をはっきり照らす。
月に傾く天が次第に黒に染まる。ゆっくりと蝕むように。
彼の人は足を止めた。
紅石が懐で砕けた。
「君との契約を果たそうではないか。儂を狭く苦しい、崩壊しかけた退屈な世界から解き放った礼を今、果たそうではないか」
覇気のこもった声が大地を脈動させる。それだけに飽き足らず、大気すらも震え上げさせる。
地上にこびりついた汚れ以上にはっきり写る黒い陰。それは徐々に大きさを増し、人型から逸脱したフォルムに変わる。
存在する生き物を遥かに越す体躯。剣を連想させる鋭い尾。コウモリの羽を何十倍も大きくした、片翼だけポッカリと穴が空いた翼。
陰だけでもわかる、その強大さと猛々しさ。
黒銀と白銀が入り混じった鱗を纏うその姿は、まさしく竜。
あの光景で見た竜と、御伽草子として、絵巻物として語り継がれている竜と、見間違えることが有り得ないぐらい酷似していた。
竜はその場所を真っ直ぐに見据え、咆哮する。
まさに轟音。それは突風となり、見えぬはずの関所からなる壁を大破させる。地が抉れ、道標となる。
後ろから高速で近づく気配を認識しながら、巨躯は闇夜に姿を消した。