10
「例えそれが真実であろうと、それをあの娘に話すのはやめてくれ」
「だ、だけど!」
「君はそれで赦された気になるだろうがあの娘は違う」
その言葉が胸の奥底に眠る、心臓に突き刺さる。そのとおりだ。自分がそれを言うことによって、自分がその苦悩から開放されても、向こうはそうとは限らない。
自己満足ではないのか。エゴを押し付けているだけではないのか。冷静に考えると、自分の主張はひどく自己中心的なものだった。
「そ、それは…」
それを理解してか、後に続く言葉は何もなかった。ただ一時でも、それを考えた自分の愚かさに恥ずかしくなった。
目の前に立つ彼からは、焦りと苛立ちが見て取れた。いつもの冷静沈着を体現する姿とは、似ても似つかない。彼は深く呼吸を整えると、こっちを真剣な眼差しで見つめる。自然とこちらの身も強張る。
「君が真実を告げるのは君の勝手だ。だがそれを告げるなら私は容赦はしない。もう一度言う。話すのはやめてくれ」
彼の、いつにもまして威圧的な声が鼓膜を刺激する。聞く人によって恐怖で怯えさせるその声音は、聞く者を静かに頷かせる。彼はそう言い終えると、頷いたのを確認する。
「俺のこと恨まないのか?」
そう問うと、彼はなぜ?といったような表情で、こちらを見つめ返す。それを見ていると、次第に自分が莫迦らしくなってくる。
「なぜ私が君を恨むことがある。好意で作ってくれたものだろう?世に流そうと言ったのも、薦めたのも私だ。つまり私に恨む筋合いはない。だから気にすることはない」
「でもっ!俺が作ったもので傷つけた!それは変わらない!」
声を荒げて訴える。それを認めてくれれば、責め立ててくれた方が気が楽になるというのに、彼は頑なに悪くないと言う。
そんな自分を見て、呆れたのか、それとも考える時間を与えるためなのか、彼は静かに部屋を後にする。その大きな背中は扉の向こうへ、影のように消えた。
頭を冷やそうと、近くにあった椅子に腰を下ろす。すると、とある物が視界に入る。
それは机の上に置かれている一枚の紙。設計図である。それを見つけるやいなや、その設計図を手に取る。そして設計図をビリビリに、解読不能にするがごとく破り去る。
あの頃は、これがあんな使われ方をするとは思いもしなかった。手に少し残った、設計図だった紙は、今はもう跡形をなくした、ただの紙屑に変貌を遂げる。静かにそれを見つめる。紙屑を見ていると、また自責の念が込み上げてくる。
今、ここに、この世に神がいるなら、今までの行いを亡きものにしてほしい。それが例え、この世の理に触れようともその願いは絶対不変である。
暗い部屋の天井を仰いだ。手をとてつもない力で握り締める。爪が肉にめり込み血が滴る。痛みはある。だが傷みはない。
いくら自傷しようとも、この憎たらしい肉体はそれを瞬時に修復する。
強く握っていた手を開いても、傷一つない血に塗れた手があるのみ。
家に入るとひんやりと涼しい風が、白い柔肌を包み込む。玄関先に置かれた、アンティーク調の家具が少し汗ばんだ二人を出迎える。
チクタクチクタクと、古ぼけた古時計の規則的な針音が、静かでひんやりとしたその家の一室に反響する。
「何か手伝えることはありますか?」
家の中では籠を浮かすのは広さ的に無理があったのか、一つずつ自らの手で運んでいるエルミィに問いかけた。彼女の足は止まり、こちらを振り向く。
「なら扉を開けてくれませんか。一々置いて開けるの面倒くさいので」
と、苦笑いを浮かべながら、申し訳なさそうにそう言った。それを聞いたロアは、足早にリビング、キッチンへ続く扉に向かい、開ける。
「ありがとうございます。今日はお疲れでしょうから夕飯までの時間、ゆっくりと自室で過ごしていたください。私は仕込みがありますので」
と言って、彼女は一つ目、二つ目の籠をキッチンに運び入れた。まだ手伝いをしたいのだが、料理となると何も手伝えはしないだろう。むしろ、いらぬ手間をかけさすことになるのは容易に想像ができた。
仕方がない。部屋で少し休もう。そう思った矢先、キッチンから可愛らしい悲鳴が聞こえた。
電光石火の速さでキッチンまで向かうと、床にエルミィと野菜が転がっていた。繊細で脆い野菜は中身が弾け、床に寝転んでいる。慌てて転けている彼女を助け起こす。
「だ、大丈夫ですか?」
「は、はい。すみません、躓いてしまいまして」
焦点の定まらない、硬い瞳と目があった。数回ほど瞬きを繰り返すと、焦点が定まった。そして、彼女は初めて目を見られていることに気づいた。
「…ッ!?」
腕の中から、逃げるように飛び起きた。彼女からはなぜか怯えと焦りが感じられた。
「あの…」
「助けてくれてありがとうございます。片付け等は私がやっておきますので、先程言ったとおり部屋で過ごしててください」
ロアの言葉を遮るように、早口で言葉が発せられる。否とは言わせぬ雰囲気で、ロアは渋々部屋に戻った。
一人になったのを確認すると、深いため息を吐く。
「やっぱり50年は長過ぎましたか」
瞑った瞳のまぶたをそっと触る。寂寂の感情が噴き出す。
蝕むように暗闇が増えるその視界。もう少しすれば、光が入り込むことのない深淵に変わる。
徐に、床に散乱している弾けた野菜を一つ手に取った。彼女は願うような仕草で魔力を込める。すると、弾けた野菜が生っていた時と同じ、もしくはそれ以上の状態で再生する。
「これが私自身に使えれば尚の事いいのですがね」
自嘲するような薄笑いを浮かべた。
自然と頭に浮かんだ。初めてあった時の事。その時から、私の世界は彩りをもった。
静かに片付けを進める。いつもは使わないものを使い、何とか作業を進めた。