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2/27加筆
暗き深緑の森の中。その暗闇は一度入れば戻れないと、本能的に思わせる。森のさざめきが、鳴き声が、静かな影と影の集合体に木霊する。
墨をこぼしたような美しい黒を照らすのは、変わらず光り続ける月と星星。そして、叢に潜み、鋭く光る動物の血走った瞳。その瞳は暫時、歩く何者かに向けられていた。
一人の迷い人が草木茂る獣道を掻き分けながら進む。
その人は年端のいかぬ少女であった。ところどころが切り裂かれ、破れ、土で汚れ、血で黒く染まっている、ボロボロの辛うじて服の体裁を保った、嘗ては煤汚れた白のワンピース。
その布切れから覗く肌は驚くほど白く、服を黒く染めた鮮血がより一層際立ち、新たに滴る。
少女は宛もなく、夜の群れが支配する森を歩く。何処に辿り着くか分からない、そんな森を独り、何かから逃げる様に彷徨い続ける。
どれ程の時が経ったのか、少女は今にも倒れそうな足どりで、何とか木にもたれ掛かりながら歩いていた。
少女の息遣いが次第に荒く、か細くなっていく。そんな中、少女は死の淵を彷徨う亡者の様に一つの言葉を呟く。
「母様…母様」
そんな呟きは闇の小波に消える。返答と言わんばかりに静寂が肌を刺す。それは少しずつ少女の精神を蝕まもうとする。
ふと、変わった匂いが少女の鼻孔をくすぐる。それはどこか懐かしい香り。何度も何度も転け、擦り傷が増えても尚、少女は生き急ぐように、その匂いの発生源に向かう。
───灯りが見えた。それは自然が生み出した灯りではなく、人が作り出した灯り。そこに人の営みがあることが容易に予想できた。
そこには家があった。煉瓦造りのレトロな家。きれいに手入れをされている庭。そこから灯りが漏れている。温もりが溢れている。
「母様…母様」
来る事を予知していたかの様に、扉が開いた。その光景は、封じられた記憶を呼び覚ますようで……。グラリと体が傾いた。
(えっ?)
地面と激突した。まるで金縛りにあったように、体が動かない。指一つ動かすのも、瞬きすらろくにできない。自分の体じゃなくなったような感覚に襲われ、それが恐ろしくなる。
人の足音が近くで聞こえた。きっと扉の向こう側に居た人だろう。そう考えると、先程までの微動しなかった瞼が動き、少女は夢路をたどる。
懐かしい香りと肌に伝わる温もりは、酷く心地よかった。寝起きは、ここ数年で一番良かった。体を包む、柔らかく温かい感触。鼻孔をくすぐるいい匂い。暖かい日差し。それらは、微睡みから解放されるには充分な要素だった。
(……ここは?)
目を開けば、見慣れた掃き溜めのような部屋ではなく、家具も調度品も全て新品同様の光沢を放つ部屋。埃一つ落ちていない。まるでどこか別世界に来たのか、夢のような光景だった。
夢を見ているのならいい。けれど、夢でなければと考えれば唐突に恐ろしくなった。
ここはどこか。そんな焦燥に駆られる。ここで自分は何をさせられるのだろうか。痛いのは嫌だ。怖いのは嫌だ。それから逃れるためにあんなところから逃げ出したのにまた繰り返すのか。
一刻も早くこの部屋からでなければ。そんな確固たる意思が生まれた。
少女は上半身を起こそうとする。
「…ッ!」
突如、激痛が全身を襲った。全身の筋肉が悲鳴をあげる。堪らずベッドに倒れ込んだ。まだかなり痛みは残っている。けれど、横になっていれば幾分かましだった。
「ああ、もう起きたのか」
どこからともなく声が聞こえた。低く響いたその声はおそらく男性のものであろう。身が強張った。男の声。それは恐怖の対象でしかない。嫌悪すら抱いている。
低い声が聞こえるときはもっと痛いときだった、怖いときだった。だから、決まって少女は目をきつく閉じる。痛みに耐えるために唇を強く噛み締めながら。
けれど、その声は不思議と安心感を抱かせた。ほんの少し精神的な余裕が生まれた。だからか、もう。この言葉選びに疑問を持った。
「まだ寝ていなさい」
角ばった手で目を隠された。人肌のぬくもりが手を介して伝わる。自分のではない体温が身に滲みるように溶け込んでいく。人という存在に接触できて安心できたのか、直ぐに眠気が襲ってきた。微睡みに落ちる最中、見えた暗闇はなぜだか恐ろしく感じなかった。
不思議な夢を見た。崩れ行く世界を眺める…そんな夢。