前編 世界がひっくり返らない限りダメだっ!と私は大声を上げた
「平和な世を作ろう……」
私はその子を抱きかかえてそう願った。
それは祈りにも似た思いだった。
私と最愛の姫との間にできた赤ん坊を抱きかかえ、平和への思いを口にする。
今、世の中は魔王軍との戦いが続き、多くの死者が出ている。戦いは激しさを増し、勇者という称号を背負っている私も厳しい戦いを続けている。
ただ、負けるわけにはいかない。
新しく生まれた子の命を抱えて、私の決心は硬く硬く研ぎ澄まされていく。
魔王を倒す。そして、平和な世をこの子のために。
「あなた……」
この国の姫であり、私の妻である女性がベットから身を起こす。
出産の疲弊のためその体には力が入っていない。すぐ傍に寄り、彼女の背を支える。
妻が生まれたての息子の手を取った。
元気に泣く赤ん坊を2人で抱き、窓から星を見上げた。
「平和な世を……」
「そうですね、この子のために平和な世の中を……」
「魔王を倒して、平和な世の中を…………」
愛らしく泣く我が子の為に、これからも魔王軍と戦う意思が強まった。
「この子の為に……平和を………」
赤ん坊を抱き、妻と手を結び、今増えた3人の家族で星を見上げた。
祈るように星を見上げた。
平和を願い、星を見上げた…………
そして、時は流れる。
息子が生まれてから18年、未だ戦いの世は続いている。
魔王軍との戦いは一進一退であり、戦いの終わりはまだ全く見えない。あの生まれたての小さな息子も今では1人前の戦士として戦場で戦っている。
それでも平和な世のために、平和な世を作るために、私はひたすら戦っていた。
愛する者たちの為に戦っていた。
なのに…………
それなのに…………
「父様、母様、紹介したい人がいるんだ」
「ん?どうした、レイク」
「まぁ!もしかして……!」
息子レイクが真剣な顔つきで私に声をかけてきた。
「なんだ、その紹介したい人とは……顔つきから見ると……仕事の関係じゃないのだろう?」
「うん……その、将来の話に関わる大切な人なんだ…………」
「きゃあ!それって!まぁ!」
妻の顔に赤みが差す。
ここまでくれば誰だって分かる。息子は女性を連れてきたのだ。しかも、両親である私たちに紹介するとなるとかなり深い仲なのだろう。
確実に結婚を視野に入れている。妻はもう既にそわそわとしだしている。
そうか…………
あの小さかった息子がもう結婚をする時期となっていたのか…………
思わず感慨に耽ってしまう。この18年間、あっという間であった。
「そうか……レイク、お前も大人になるのだな…………」
「はい……父様…………」
「それで!?それで、レイク……あなたの恋人とはいつ会わせてくれるのかしら!?」
妻が鼻息を荒くしぐいぐいと息子に迫っていく。
妻が恋バナを好きなのはよく知っているが、ちょっと待って、そんなに息子を急かしてやるんじゃない。私だって息子の結婚相手の候補と会うとなると心の準備が…………
「…………実は、もう既に部屋の外で待って貰っているんだ」
「む?」
「えぇ!?」
え?もうすぐそこにいるの?
急じゃない?急すぎない?
「きゃー!なんでしょう!私!ドキドキしてきちゃった!」
「……じゃあ、呼んでもいい?母様?」
「もちろんよっ!きゃー!緊張するーっ!」
「ちょっ!ちょっと待ってくれ!レイク!アイリス!私、まだ心の準備が!」
妻と息子の名を呼んでも2人はそそくさと準備を進めるだけであった。
待って!急すぎない!?急すぎない!?
私の心の準備が……胃痛持ちの私の心の準備が……!
いくら勇者と言われようと、いくら英雄と称えられようと鍛えることの出来ない私の胃が軋み始めているっ!
ちょっと待って!せめて心の準備をさせて!
そんな私の願いも空しく、扉の向こうから息子が1人女性を引っ張ってきた。
息子に手を引かれ、白く長い髪が揺れている。整った顔立ちに、すらっとした高い身長。その目はどこか妖しくも美しく、その目の光の中に力強さも感じられる。
そして、その立ち振る舞いから彼女がかなりの武人であることが察せられた。身のこなし、心構えが一時も気を抜かない武人のそれであった。
不思議な魅力を感じさせる女性であった。
まるでどこか人間離れした、妖艶な魅力であった。
「紹介するよ、父様、母様」
そう言って息子は彼女の横に並んだ。
「彼女の名前はアンダスシア・ガルフォン・ベンダ・フィーネ。魔王国のお姫様なんだ」
「お初にお目にかかります。ドーガ様、アイリス様。魔王アンダスシア・ガルフォン・ベンダ・アルフィスの娘、フィーネ・ガルフォン・ベンダ・アルフィスと申します。
どうかフィーネとお呼びください。よろしくお願いいたします」
そう言って目の前の女性は片膝を曲げ、恭しく丁寧な礼儀をした。その礼儀は洗礼されており、育ちの良さが窺えた。
え?
いや?
ちょっと待って?
その前に……その前に、今、なんて言った?
「その……あの……どちらのご出身って……言われましたか…………?」
「はい、魔王家の娘フィーネでございます」
「え?」
「え?」
「はい、魔王家の娘フィーネでございます」
「え?」
「え?」
…………………………
………………
……
「え?」
「はい、魔王家の娘フィーネでございます」
「え?」
「父様、少ししつこいです」
しんとその場が静まり返った。
静かであった。奇妙なほどに静かであった。
いや、私の頭がただ働いていなく、何の音も拾えていないだけなのかもしれない。
空など見ていないのに、清々しいほどの青い空が見えたような気がした。
「いかーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーんっ!」
大声を出した。
大声以外で心の平穏を保つ術を知らなかった。
「えぇっ!?なんでっ!?なんでなん!?なんで魔族連れてくるの!?え?なに?どういうこと?なんで魔族がここにいるの!?なんで!?どゆこと!?」
「父様、落ち着いてください」
「これが落ち着いていられるかぁっ!?と、いうより落ち着いている!むしろ落ち着いているっ!極めて冷静に驚きを露わにしている!
え?なんなん!?お前誰なん!?何者なん?おめぇ!?」
「魔王家の娘フィーネでございます」
「あほかあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁぁぁぁぁっ!?」
頭を抱えながら背を反り、口から魂を吐き出しながら叫んだ。
叫ぶことしかできない。でも、分かってくれ!叫ぶ他ないんだ!
「結婚したいと!?魔王の娘と!?本当なのか!?何かのドッキリじゃないのか!?」
「はい、心はもう既に固く揺らぐことはありません」
「駄目に決まってるだろおおおおおぉぉぉぉぉぉぉっ!?ダメダメダメダメッ!ダメでーーーーーーーすっ!許しませーんっ!認めませーんっ!絶対にダメでーーーすっ!」
「なぜですか!父様!彼女の何がいけないのですか!?」
「むしろなんで大丈夫だと思ったんだよぉぉぉっ!?そこが父さん謎だよぉぉっ!?なんで魔王の娘なんかと結婚できると思ったんだよおおおぉぉぉぉっ!?常識的に考えろよおおおおぉぉぉっ!?世界がひっくり返らない限りダメに決まってんだろおおおおおぉぉぉぉぉっ!?」
息切れを起こす。眩暈を起こす。ハッスルし過ぎた。当然だ。こんなの誰だってハッスル起こす。
魔王の娘が甲斐甲斐しく水を用意してくれる。なんなのこの子?
あぁ……でも、今は水が欲しい…………
「レイク…………あなた分かっているのですか?」
「母様…………」
妻が息子と向き合う。
そうだ!馬鹿な息子に厳しく言ってくれ!
「人族と魔族はこの500年、絶えず争いを繰り広げていたのです。浅ましくも魔族は罪のない我ら人族を滅ぼそうとして、500年にわたってしつこく侵攻を繰り返してきました。それを討つ希望の星が世界で一番強いものに贈られる称号、勇者なのです。
つまりあなたのお父様は平和のために魔族を滅ぼす責を負い、一生懸命魔族と戦っているのですよ?」
そう、そうなのだ。人族と魔族は500年間の長い間戦争を続けている。
人族と魔族の外見に違いはほとんどなく見分けなど付かないのだが、流れている血の色が違う。人族の血の色は赤で、魔族は青である。魔族など、理解し合うことなど出来る種族ではないのだ。
「分かっています……分かっています、母様。これでも僕も戦士の端くれ…………父様の凄さ、父様の苦労は分かっているつもりです」
「ならばこんなあり得ない相手など…………!」
言っちゃえ!妻よっ!馬鹿な息子を諫めてくれっ!
「でも、母様。母様なら分かってくれるはずです…………」
「……なんです?」
「恋って…………落ちたらもうどうしようもないっしょ?」
「……それは……まぁ……確かに…………」
「妻ーーーーーーーーーーっ!」
顎に手を当てて、どこか考え込む妻。
妻が弱腰になってしまった。
「待って!待ってくれ、妻よ!もっと強気に!このバカ息子にガツンと言ってくれよぉっ!」
「でも……確かに……恋って割とどうしようもないって…………私の時もそうだったし…………」
「妻ーーーーーーーーーー!」
妻が陥落しかかっている。
柔すぎるぞっ!妻よっ!
「大体、なんでだ!お前たちは勇者と魔王の子供なのだぞ?!憎しみ合うことはあれど、恋に落ちる要素なんてどこにもないじゃないかっ!」
「あ……いや……それは言っては何ですが……父様にも原因があるというか…………」
「え?私?」
どういうこと?
「僕は父様の力を色濃く受け継いで、小さな頃から戦場の前線で戦っていたよね?」
「あぁ、私が命じたな」
息子レイクは幼い頃から大の大人を圧倒できる力を持っていた。天賦の才を持っていたと断言していい。
例えこの国の姫の子であろうと勇者の子供であろうと、力あるものは前に出て仲間の兵を守らねばならない。そういう方針の元、私は息子を戦場へ送り出した。
実際彼はよく結果を出し、数々の武功を上げている。
「その戦場にはフィーネも……魔王の娘である彼女もよく出ていたんだ」
「はい、レイクとはよく命がけの殺し合いをしていました……」
「幼馴染みたいなものなんだ……」
「もう、長い付き合いだものね、私たち…………」
「こうして殺し合いの仲から、恋仲へと発展していったんだ……彼女のことを、あ、愛するようになったんだ……」
「レイク…………」
「待て待て待て待て待て待て待て待てっ!」
それまでの日々を思い出しているのか、頬を赤らめて見つめあう2人の空気に割って入る。
「おかしいだろっ!殺しあっとけよ!変な方向に仲を発展させるなよ!そのまま憎しみを募らせろよっ!」
「うあぁ、父様、それ悪魔みたいなセリフ……」
「私は勇者だっ!」
「でも父様、良くお話などであるじゃないですか。敵と戦いを通じて友情が芽生え、仲間になって共に戦うって」
「まだ敵だから!魔王軍とは敵だからっ!全く全然仲間になってないから!」
くそっ!息子を全然説得できない!心が固すぎる!っていうか理解できないっ!
私間違ったこと何一つ言ってないよな!?息子が魔王の娘と結婚なんておかしいよなっ!?私が普通だよなっ!?
あっ、くそっ、胃がきりきりと痛んできた…………
「とにかくっ!衛兵っ!衛兵を呼べっ!魔王の娘を今ここで殺してやるっ!」
それが一番手っ取り早いんだ!
「おや、父様ともあろうお方が何を卑怯な真似をしようとしているのですか?」
「…………なんだと?」
「常に正々堂々とあれ。自分への正しさへの自信が自分の強さを支えてくれる。常日頃から父様はそう仰っているではないですか」
「……確かに言った。いつもそう言っている。だからどうした」
「でもこの状況はどうですか?いくら魔王の娘と言えど、今はただ結婚相手の両親に挨拶に来た1人の女性です。その方を寄ってたかって痛めつけ、殺すのですか?」
「ぐ……ぐぐぐぐっ…………!」
確かに……息子の言うことにも一理ある…………
誰かは甘いと言うだろう。しかし、その甘さを率先して行い完膚なきまでに達成するのが勇者という称号を背負った者の義務なのだ。
せめて、この魔王の娘がいきなり暴れだしてくれたら誅する理由も生まれるのに…………
「あ、私、今日何の武器も持ってきてないです」
「なんでだよっ!?」
びっくりする。
「え!?なんでっ!?なんで丸腰なのっ!?
君から見たらここ敵の本拠地だよ!?命がいくらあっても足りない場所だよっ!?それなのに、なんで戦う準備してこないの!?馬鹿なの!?死ぬの!?」
「いえ、武器を持ってこないほうが襲われにくくなるってレイク……さんが言ってたので…………」
「くそぉっ!」
我が息子ながら私のことをよく分かっている。間違っても丸腰の相手なんぞ殺せるわけもない。くそぉ………謀ったなあ……
…………あぁ、胃が痛い。さっきからずっと胃が痛い。
なんとかして……何とかしてこの2人を引き裂かないといけないんだ。
「いや!駄目だ!絶対駄目だ!魔族と婚姻を交わすなんて許される筈がない!レイクッ!お前には今から相応しい結婚相手を見繕ってやる!高貴な家柄の誰もが羨む花嫁を見つけてやるからなっ!探してくる婚礼は絶対だからなっ!」
「そんなっ!横暴です!父様!」
「ええいっ!うるさいっ!うるさぁいっ!」
ここまで来たら意地の戦いであると思われた矢先、おずおずと前に出て懇願するように私を見上げる魔王の娘の姿があった。
「どうしても……駄目でしょうか……?それほどまでに魔族と人族の隔たりは大きいものでしょうか?
レイクさんとの結婚を許しては頂けないでしょうか、お義父様……」
「うぐぅっ…………!?」
何かが私の胸の内に突き刺さった。
なんだっ……?これは……?物理的な攻撃ではないっ……?しかし、何故だろう……胸が熱い…………
なんだ、この、何か切ない思いは…………
思わず手で胸を押さえてしまう。
「……?……どうしました?お義父様?」
「うぐぅっ……!?」
「ん?」
「あ」
何故だ、何故こんなにも胸が痛く切なくなるのだ……?
魔王の娘め……まさか……この私に精神攻撃魔法をかけているのか……?
「夫が彼女に『お義父様』って呼ばれて動揺してるわ」
「フィーネに……女の子にそう呼ばれるのは初めてなのか、父様。うちって男子ばっかだったからなぁ……」
「あなた、昔から1人は女の子の子供が欲しかったなぁって言ってましたからねぇ……」
外野から野次が飛んでくる。
馬鹿なっ!そんなバカげた理由でこの私が心を揺さぶられる筈がないっ!幾多の戦場を駆け、数多の敵を討ち取った私が『お義父様』如きで動揺するなどっ…………!
「お願いします、お義父様。駄目ですか?お義父様?どうしたら良いと言って頂けるでしょうか、お義父様。お義父さん、ね?お義父さん?」
「やっ、やめろおおおぉぉぉっ!や゛め゛ろ゛お゛お゛お゛お゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛っ!」
胸がっ!胸が張り裂けそうだっ!
なんだ、この気持ちっ!父性かっ!?なんだこの猛烈に胸が締め付けられるような思いはっ!なんだっ!?なんだこれっ!?
小さな小さな笑みを浮かべながらこの娘はここぞとばかりに攻めてきやがった!
なんて悪質なんだっ!
まるで魔族のようだっ!
あ!いや!魔族かっ!
「お義父様、どうかされましたか?お義父さん?お義父ちゃん、ねぇ、父上?どうか許してください、パパ。どうでしょう?パパ?……パパ?」
「やめろお゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉっ!」
頭おかしくなるう゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛っ!
「あ、逃げた」
「父様、耳をふさぎながら走って逃げた」
気が付いたら私は城の廊下を駆けだし、雲空の下を走り回っていた。とにかくただ走った。走ってこの場から逃れたかった。
体力が底を尽き、地に膝をついて項垂れる。
「…………どうしたらいいんだ……」
悩む。
なんてこった。
私の息子が敵と結婚しようとしている。
勇者の息子と魔王の娘が結婚しようとしている。
なんだ?なんだこれ?
どういうこった?
どうしてこうなってしまったんだ?
平和のためにと戦い続けてきたのに、どうしてこんなバカなことになってしまっているのか!?
胃が痛い。あぁ、胃が痛い……
「これが……新たな戦い…………」
そうだ。息子の目を覚まさせてやらねばならないんだ。
魔族との……というか魔王の娘との結婚など言語道断。絶対に正しい筈がない。
「そうだ……平和のために……息子の混乱を解いてやらねば…………」
そうだ、やるしかないんだ。
絶対に正しくないことは絶対に阻止しなければならないっ!
「私は息子の結婚を妨害してやるぞぉっ!」
高らかに誓いの声を上げた。
自分の決心を常に正しいお天道様に誓ったのだった。
ただ、雲空でお天道様は姿を現していなかったが…………
* * * * *
「つまりだ、今まで息子の結婚相手を見繕ってやらなかった私たちも悪いのだ」
「確かにそうかもしれませんわね、あなた」
私たちはある公爵家の城を歩いていた。私の妻は王家の姫であるが、この公爵家は長年王家に仕え、家柄もよろしく身分も高い。
つまり王家の姫の息子、すなわち私の息子と縁を結んでも釣り合いのとれる家であるのだ。そんな城の廊下を闊歩していた。
「今まで息子の戦の才に期待しすぎて世継ぎのことが疎かになっていた。結婚相手も女の影もいないからレイクはあんなおかしなことを言いだしたんだ」
「その点、この家のお嬢様は器量もよく、評判も高く、学院での成績も高い。息子の結婚相手として最適ですね、あなた」
「はははははっ!全て問題は解決しそうだなっ!」
そうなのだ。さっさと息子の結婚相手を見繕ってやればいいだけの話だった。
結婚式までの日取りの調整ももう始めている。優秀な部下に事務やスケジュールの調整を任せているので安心だろう。
もう既に結婚まで秒読みだ。今日はただ、相手方の家への挨拶に来ただけなのだ。
既に決まった結婚への挨拶を経てしまえば、息子の暴走も完全に収まるだろう。
「でも、あなた。レイクは反発しませんかね?」
「なに、あいつだって王族の端くれ。親が結婚相手を見繕えばそれを断れるはずもない。それに、あの年頃の恋なんて一時の病のようなもの。時間が経てばすぐに忘れるさ」
そう言って私は相手の家族のいる大広間の扉を胸を張って開いた。
「申し訳ありませんっ!この結婚のお話はなかったことにさせて下さいっ!」
ある少女が膝を折り、地べたにつけかねないほど頭を下げている。
非常に申し訳なさそうに小さく震えながら、この家のお嬢様が謝罪の意を表している。
金髪の髪がウェーブしたとても美しい少女が可哀想な位緊張していた。
「も、申し訳ありませんっ!ドーガ様!アイリス様!うちのバカ娘と言ったら数日前からこの調子で…………いえっ!おそらく娘の一時の気の迷いでしょうからっ!必ず説得いたしますからっ!もう少し!もう少し、お待ちくださいっ!」
この家の当主が冷や汗を大量に流しながら私たちに謝罪を述べている。
当主は娘を何とか立たせようとするが、娘はがんと動かず謝罪の姿勢を崩さない。
「…………」
「…………」
私と妻は唖然としていた。
「止さないかっ!バカ娘っ!この縁談を断れるわけがないだろうっ!馬鹿っ!」
「そうです!聞いてください、勇者様!このバカ娘、魔族などに恋をしたと抜かしておるのですっ!全く!あり得ないっ!」
「分かって下さいっ!お父様っ!お母様っ!私には……私には心に決めた魔族の方がいるのですっ…………!」
ん?
今、お嬢様、なんて言った?
魔族に恋人がいる?恋人がいるから決められた結婚をしたくないのか?そういう理由でこの縁談が破局になりそうなのか?
「馬鹿なことを!魔族となんか結婚できるわけないだろうが!」
「そうです!正気に戻りなさい!魔族など、下賤な種族などと関わるんじゃありません!」
「お父様!お母様!勇者様!ご理解ください!私、アトネの一世一代の我侭でございます!これ以降どんな我侭も申しません!しかし!この願いが聞き届けられないのなら…………私はこの命を自ら絶つ覚悟がありますっ!」
「っ!?待てっ!早まるなっ!」
「何をバカなことを言っているの!?アトネ!?」
「お、落ち着いて下さいっ!お嬢様っ!」
思わず私も慌てて止める。そりゃそうだろう。あぁ、なんて胃が痛い……
なんでこんなことになっているんだ……?若干置いてきぼりな状況なのだが……?
恋に身を任せ、つい衝動的になってしまう。恋なんて言うのは一時の病のようなものだが、その力は凄まじい。
しかし、何故だ?魔族と結婚したい?何故この子は息子と同じようなことを言っているんだ?
「落ち着け!落ち着いてくれ!でも普通に考えてくれ!王族との縁談を断れるわけがないだろう!?レイク様がどれほど悲しまれるか!」
「ですが……ですがっ、相手のレイク様の了承はもう取れております!この縁談を無かったことにしたいのは2人の総意でございます!」
「え?」
「え?」
「え?」
息子の了承が取れている?
息子が先回りしてこの件に首を突っ込んでいる?
どういうことだ?
そう考えている内に、ガチャリと音を立てこの大広間の大きな扉が開いた。
「失礼します。旦那様、私をお呼びしたでしょうか…………あら?」
この大広間に1人のメイドが入ってきた。
髪を整えるためのカチューシャをつけ、その白い髪を短く纏めている。整った顔立ちに、すらっとした高い身長。黒を基調としたその服装は清楚ながらも、目に映る妖しく美しい光のせいだろうか、その黒の衣装が彼女の妖しい魅力を引き出していた。
そして、その立ち振る舞いから彼女がかなりの武人であることが察せられた。身のこなし、心構えが一時も気を抜かない武人のそれであった。
不思議な魅力を感じさせる女性であった。
まるでどこか人間離れした、妖艶な魅力であった。
…………って言うか、この子のこと見たことあるぞ?
ここ最近、というより、ほんと、私の胃を痛めている元凶のような…………
「おぉっ!フィーネ君っ!来てくれたかっ!」
「娘がここにきても馬鹿なことを言っているのっ!お願い!説得して頂戴っ!」
お嬢様の父と母が大きな希望に縋りつくように、現れたメイドに声をかけた。
どうも、かなりの信頼を得ているらしい。
「あの…………公爵殿……この娘は…………?」
「あぁっ!ドーガ殿、紹介が遅れてすまない。この娘は最近雇った期待の新人のメイド、フィーネ君と言うのだ。挨拶しなさい、フィーネ君」
「お久しぶりです、ドーガ様、アイリス様。フィーネでございます」
「………………」
「………………」
「おや?知り合いだったのかな?」
唖然とする。
呆然とする。
目を見開いて硬直する。
ただただ口を開けて、何万年と時を止めた化石のようにただ動けなくなってしまった。
「フィーネちゃんはとても優秀なんですよ。仕事も出来て、人付き合いも良く、頭もいい!この家が長年抱えていた大きな問題もフィーネちゃんの助言と活躍で見事解決しちゃったのですから!」
奥さんもべた褒めである。
「いやはや、この年になってもフィーネ君には学ばせてもらうことが多いですよ」
「フィーネが来たからにはもう安心だ!」
「フィーネ君!すまない!なんとかしてくれっ!」
執事長を始めとする仕事仲間からも彼女の評価は絶大である。
「皆さん、落ち着いてください。そんな頭ごなしに怒鳴らず、もっと話し合うべきではないでしょうか?頭を熱くしながら議論をしても結論が出ることはありませんよ」
「う、うむ……確かに熱くなっていたのは認めよう…………」
「フィーネちゃんはいつも冷静ね、ありがとう……」
「いえ、奥様。大したことではありません」
彼女への信頼は厚い。
フィーネが一拍置く。
「焦ることはありません。勇者様も狭量の方ではないですし、ゆっくりと話し合って解決策を見つけていきましょう。
もっと広い視野を持つべきです。いっそのこと、お嬢様の恋人である魔族の方と会ってみるのもどうでしょうか?」
「魔族と会うっ!?」
「そんなバカなっ!?」
「そんなバカな、と思うことに目を向けることこそ物事を広い視野でみるということです。もしかしたらですけど、お嬢様と魔族の関係がこの長い500年の戦争を変えるきっかけになるかもしれませんよ?」
「そんなまさか……」
「いや、しかし……」
フィーネの言葉に周りの者が逡巡していく。
「新しい事柄に対処する時は、冷静になり、時間をかけることです。物事を新たな角度で見るということは根気のいることなのです。
とりあえずこのまま否定し続ければお嬢様は自らを害してしまう危険性もあるので、まずは冷静に。まずは冷静にです。落ち着くことが大事なのです。
今のままでは話し合いにもなりませんよ」
「う、うむ……フィーネ君の言うとおりだ。私たちは焦り過ぎていたのかもしれない」
「やっぱりフィーネちゃんに頼って良かったわぁ」
「ありがとう!フィーネ君!」
「いえいえ、大したことはしておりません」
フィーネが上品に小さく首を振った。
「勇者様、申し訳ありませんが私たちに必要なのは時間のようです。私たちも時間をかけて娘を説得したいと思います」
「どうです?新人メイドのフィーネちゃん、勇者様から見ても優秀でしたでしょう?」
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
………………………………………………………………………………
「そ゛い゛つ゛だ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛っ!」
私は大声を張り上げた。
「全てそいつの仕業だあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛っ!」
「はいぃっ!?」
「勇者様!?どうなされましたっ!?」
「どうしたもこうしたもあるかああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
冷静でいられるかっ!?
冷静でいられるはずがないっ!
私は力いっぱい、城下町に届くほどの声を張り上げた。
「そいつが魔王の娘だあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛っ!
みんなそいつに騙されているんだあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛っ!」
「えぇっ!?」
「なにを仰っているのですかっ!?勇者様っ!?」
「勇者様がご乱心なされたっ!」
ご乱心してないっ!
私はご乱心してないっ!
むしろご乱心しているのはあんたらだよっ!
「そいつは魔王の娘なんだ!魔族なんだっ!私たちを騙し、陥れようとしているんだっ!」
「えぇっ!?」
「フィーネ君が魔族っ!?まさかっ!あり得ないっ!」
「そんなまさかっ!?フィーネちゃんに限ってそんな筈ないわっ!」
くっそー!なんだよ、その信頼感っ!
あんたのその人心把握術どれだけ高いんだよっ!こんな短期間のうちにどれだけ信頼を勝ち取ってんだよ。
当の本人は悠然と構え、憎たらしい余裕の笑みを浮かべていた。少なくとも私にはそう見えた。
「えぇ、その通りです。私は魔王アンダスシア・ガルフォン・ベンダ・アルフィスの娘、フィーネ・ガルフォン・ベンダ・アルフィスと申します。
今まで黙っていて申し訳ありませんでした」
「え?」
「そんなっ!?フィーネ君っ!?何を言っているんだっ!?」
おいおい、本人が自白を始めたぞ?これだけの信頼を勝ち取っているならてっきり白を切るものだと思っていたが…………
「フィーネちゃん……?まさか……嘘ですよね…………?」
「いいえ、奥様。私は正真正銘の魔族。その頂点に立つ魔王の娘でございます」
「そんな…………」
奥さんが力なくよろよろと倒れる。それを慌てて旦那様が支える。
疑心と恐怖と傷心が部屋の中に入り乱れる。
なんだ?彼女は何がしたいんだ?これじゃあ、彼女の立場が危うくなるだけじゃないか。はっきり言ってただの自滅のように思える。
「お待ちくださいっ……!」
魔王の娘の行動に疑念を抱いていると、さっそうと両手を広げフィーネを庇うものが現れた。
アトネ嬢だ。息子との婚約を破棄してくれと謝罪し小さく震えていた彼女が大きく手を広げ魔王の娘を庇っていた。
「フィーネは……フィーネは悪の子ではありませんっ!」
「アトネッ!?」
「フィーネは……いえ、私たちは人族と魔族間の共存、平和を望んでいるのですっ!」
「なんだとっ!?」
場がざわつく。
ん?なんだ?なんの話だ?うちの息子と公爵家の子との縁談の話じゃなかったっけ?
「フィーネと勇者様の息子、レイク様は陰ながら人族と魔族の和解の道を探っておりましたっ!この500年の戦争に終止符を打ち、正しい平和を作り上げようとしていたのです。
私はその意志に共感し、微力ながら彼女たちの手伝いをしていました」
「なにっ!?」
「和解っ!?」
「だからフィーネを魔族だからと責めるのはお止めください!彼女は、自らの身の危険を理解しながら私たち人族との友好を結ぼうとしているのです!」
アトネ嬢の気迫の押され、場が静まり返る。
「これは……これは……一体どういうことだ…………?」
「勇者の息子、レイク殿も関わっているようだが…………?」
「勇者殿もこのことを知っていたのですかっ!?」
「いやいやいやいやいや…………」
両手をぶんぶんと振る。
私が聞いていたのは息子と魔王の娘が結婚したいってだけだからね?
というかうちのドラ息子とこの娘、自分たちが結婚したいがために壮大な話に持ってこうとしてないか?
「それで……その……魔族側にも協力者がいるのですが……その…………」
それまで強い語気で平和への意思を語っていたアトネ嬢が急に顔を赤らめ、少し俯き、話し辛そうに口に手を当てた。
「その……魔族の協力者……ヴラド公と仰るのですが……私はその方のことを……お……お慕いしておりまして…………」
「おぉいっ!魔王の娘ぇっ!お前、息子の婚約相手に別の相手を当てがったんじゃないのかあぁっ!?」
私は叫ぶ。
つまり、穏便に二人の婚約を破棄させるために魔族と人族の平和という壮大な話をでっちあげアトネ嬢に協力を促し、あまつさえ男を紹介したんじゃないのか!?
かなりの偽善なんじゃないか!?これっ!?
「それはいささか訝り過ぎです、お義父様」
「う、うぐぅ……えぇいっ!そこに直れっ!今日という今日は貴様をたたっ斬ってやるっ!」
「おやおや物騒です」
私が剣を抜くと魔王の娘は素早い身のこなしで窓への退路を素早く確保していた。
「残念ですが、今日のところはお暇させて頂きます」
「えぇい!逃がすかっ!」
「やめて下さい!勇者様っ!フィーネを!私の親友を斬らないで!」
「ど、どいてくれ!アトネさんっ!」
私がまごまごしていると魔王の娘は外への窓を開け、そして別れの言葉を告げた。
「皆さん、今まで黙っていてごめんなさい……
でもこれだけは分かって欲しいのです。私はあなたたちのことが好きでした。人族と魔族の共存を目指す上で、人族の土地で私は孤立し、息を潜めて生きていました。
私が魔族だとバレてしまったらどうなってしまうか分からない。
その中で、この家はとても温かかった。私のことを魔族だと知らないにしても、この家は温かく居心地がよく、人族の優しさに触れられました」
「フィーネ……」
「フィーネちゃん……」
「どうか覚えておいてください。
この暖かかった日々は嘘ではないことを。私はあなた達の優しさに安らいでいたことを……」
そしてフィーネは笑った。
「次は……皆さんに魔族の優しさを感じて欲しいものです。その機会が……作れることを願います……」
「フィーネ君っ!」
「フィーネちゃん!」
家の者たちは泣いていた。
それまでの温かい日々を思い出しながら、自らの屋敷に転がり込んだ新人のメイドとの別れを惜しんでいた。そんなに長い期間ではなかったのだろう。しかしそれでも信頼と友情に時間など関係なく、種族の壁という大きな隔たりが生む別れに、皆が多大なる惜別の念を彼女に送っていた。
…………いや、ちょっと待って!?
「騙されたらあかんよ!騙されたらあかん!こいついいこと言ってるけど、結局うちの息子と結婚したいだけだから!後付けの正義だからっ!」
「やだ、お義父さん。意地悪なこと言わないで下さい。ではこれにて失礼します」
「ちょっと待て!一つ聞きたいことがあるっ!うちのバカ息子!バカ息子のレイクは今何をやっている……!?」
なんであいつ姿を見せないんだ!?
自分の婚約破棄だろう!?
「レイク……さんはいま私と同じことやっていますよ?」
「……同じこと?」
「パパが無理やり決めようとしている私の婚約を破棄させようとして、身分を偽ってヴラド公の家族の信頼を得ようとしています」
「……ヴラド公……ヴラド公って…………あれ!?まさか!?」
ぱっと振り返るとアトネ嬢がポッと頬を赤らめた。
さっきアトネ嬢はヴラド公のことをお慕いしているといって、魔王の娘フィーネはヴラド公と無理やり婚約を結ばせられそうになっている。
そしてアトネ嬢は私の息子レイクの妻となるはずだった女性だ。
で、今、レイクは魔族領で婚約破棄の一計を案じている。
「やっぱ自分たちがうまい汁を吸おうとしているだけじゃねえか!?」
「そんなことないですよー」
「いいの!?アトネちゃん!?君、絶対利用されてるよ!?」
「そんなことは些細な問題です。私はブラド公をお慕いし、フィーネとは親友です」
「健気っ!」
天使かっ!?
魔王の娘の親友がそれでいいのかっ!?
「お義父様、そう捻くれて訝らないで下さい。アトネとブラドはちゃんと相思相愛ですし、私とアトネは親友です」
「フィーネ…………」
アトネ嬢の頬に純朴と健気さが混ざった赤みが差し、目がキラキラと輝いていた。
「魔王の娘っ!でもお前、最初はただ単純に利用しようと企んでたんだろっ……!」
「………………さらばっ!」
「おぉいっ!」
逃げたっ!
窓から颯爽と逃げやがった。
あとに残された私たちは黙りこくるしかなく、大広間はしんと静まり返った。ただ私の胃がきりきりと締まる音だけが鳴っていた。
私以外には聞こえないだろうけど。
「…………まさか……フィーネ君が魔族……それも魔王の娘だったなんて……」
公爵殿がぼそりと呟いた。
「あんなにいい子だったのに……」
「仕事も優秀でした……」
「不思議な雰囲気をまとっていたけど、誰にでも優しくて……誰にでも丁寧だったのに…………」
ぽつりぽつりと声が漏れてくる。
ショックなのだろう。それもそうだ。今まで暮らしてきた家の中に魔族などという悪が暮らしていたのだ。我が物顔で城の中に入り浸り、裏では工作をし、皆を裏切り続けてきた。
この家の者たちはショックだろう。
当然、あの娘を許せるはずもない…………
「もしかして……もしかして魔族ってそこまで悪い奴らじゃないんじゃ…………」
「えっ……!?」
今なんつった?
「フィーネちゃん……私たち人族と全く変わらなかったわ」
「もしかして、魔族も……人に近しいところがあるのでは…………」
「他の魔族にも、フィーネ君のような者はいるのだろうか……」
「ちょっ……!ちょっと待って……!」
制止の声を上げる。
「何を懐柔されそうになっているんだ!?相手は魔族だぞ!?500年も戦争を続けてきた憎き仇敵だぞ!?」
「ですが、勇者殿……フィーネ君は実に良い子だった」
「あの温かさの全てが演技だとは思えませんわ」
「魔族……ですか…………私たちは彼らのことを何も知らないのかもしれませんな…………」
皆がぼんやりと、そこに暖かな影の軌跡を見るかのように彼女が飛び出していった窓を見ていた。
「懐柔されてるうううぅぅっ!」
叫ぶしかなかった。
「懐柔されてるううううううぅぅぅぅぅっ!」
なんてこった。胃が痛い。胃がきりきりと痛い。
王族と親しい家柄の公爵家が魔王の娘に懐柔された。
あぁ、なんてことだ、なんてことだ、胃が痛い。
「みんな懐柔されてるうううううううぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!」
うちの息子との婚約はなかったことになった。
ちなみに魔族領の方でも結婚が延期になったみたいであった。
なんてこった……
これは息子達との戦いなのだ……
常識と結婚を賭けたバカな息子達との戦いなのだ……
もう既に戦いの幕は切って落とされているのだ。
道を悠々と踏み外そうとしているバカ息子を止めるための戦いなのだ。
人生の全てを戦いに費やした私が未だ出会ったことのない種類の戦いが始まった……