お向かいさんの憂鬱④
「今日、ミハル様の運動会だよ」
え?
「てっきり、仕事もどうにかして、そっちに行ってるのかと思ったけど、違うみたいだな」
なんの、話。
『ハル、明日の文化祭来るよね?何時頃に来る?迎え行くよ』
『あー・・・すまない。明日は行かない』
『え?』
『あまり外に出かける気分じゃなくて。悪いが私は家にいる』
『そ、うか。体調悪いの?大丈夫?』
『いや、そういうんじゃない。大丈夫だ』
『ハルは時々途端に甘えん坊になる』
『今日はやたら長いな』
『話したくなるまで』
なにが、『話したくなるまで』だ
今頃、寂しい思いをしているかもしれない。
けど、社会人として、いま仕事を放って行くわけにはいかない。
それは、きっと、ハルが許さない。
「・・・ミハル様が敢えて言わなかったのなら余計なこと言ったかもな。悪いな」
「・・・」
ハル
ハル
「・・・ハル・・・・・・」
どうして。
いや、分かっている。ハルがなんで黙ってたかってことくらい。
あの子は、本当によく頭が回る。
見なくてもいい部分まで、考えなくてもいいことまで、見えて、考えてしまう。
まだあの歳なら、思うままに甘えてもいいのに。
俺は、本当に馬鹿だ。
ーーーそんなの、ハルのせいではないのに
無意識に拳に力がこもる。
「滝野せーんせー!大変です!お母様が倒れたってー!これは大変だ!ささ、帰るしかないね!早く早く!」
「え・・・」
声のする方を見ると、少し離れたところから鎌ヶ谷が叫びながらこちらに小走りで近づいてくる。
周りはガヤガヤと、騒ぎ始めた。
「え、お前・・・どうして、さっきまでここに」
「えー?なんのことっすか?ていうかほらほら、急がないと」
「えっ、でも、お前のそれ嘘」
「タッキー」
鎌ヶ谷は、細い目をさらに細めて人差し指を口に当てた。
"しー"
「っ・・・」
「早く。行かなきゃいけないんでしょ?お礼はご飯連れてってもらうからね」
小声で話す鎌ヶ谷の声は周りには届かず、周りの人たちは口々に帰宅を促してくる。
「ありがとう」
「いーえっ、どいたま!」
ニカッと笑う鎌ヶ谷に背を向け、トシユキは駐輪場に向かった。
「滝野の母親は大丈夫なのか?」
トシユキがその場を離れた後、マレンは心配そうに鎌ヶ谷に聞く。
「え!?」
「え?」
「まじか!この流れでわかんないか!」
ケラケラと笑う鎌ヶ谷にマレンは眉をひそめた。
「なんだ、馬鹿にしてんのか」
「いやいや、違うよ。ごめんごめん」
ひー、と息を吐くと、鎌ヶ谷はトシユキの去った方を見ながら言った。
「どういう子なの、ミハルちゃんって」
「ミハル様?ミハル様は・・・それはもう素晴らしい。綺麗な黒髪に真っ白な肌、お人形のような顔立ち!まさにお姫様って感じだな!見た目だけじゃない、性格だって心優しくて、いたずらっ子な所も愛らしく、媚を売るタイプじゃないが結構情が深くて周りにいつも人がたくさ「あーーー、おうけい。わかった。分かったよ」
「なんだ、お前から聞いてきたくせに」
「いや、まさかここまで出てくるとは思わないだろ」
そういうと鎌ヶ谷はまたケラケラと笑った。
「いーね、可愛いね」
「だろう。ミハル様は素晴らしい」
「違うよ、君が可愛いって言ったの」
「・・・は、」
ぼふんっ
「はぁあ!?///」
「ね、ご飯いこーよー!こう、パーっとさ!見た目は小学生だけど大人なんでしょ?ならお酒は飲めゴホッ!」
「ふんっ」
ストレートパンチを腹にきめられた鎌ヶ谷が、顔を赤く染めて不機嫌そうにトラックに戻るマレンを追ったのは、また別の話。
はぁ
はぁ
(もう、なんで、今日に限って・・・!)
文化祭1日目。
来客数を見越して、町内に住む職員はなるべく自転車か徒歩で登校するように言われていた。
もちろん、トシユキも例外ではなく、今日は車ではなく自転車だった。
(3時・・・!ギリギリ・・・!?)
どうしても、最後の競技には間に合わなくてはいけない。
それに間に合ったところで、寂しい思いをさせた分が支払えるとも思ってないが、最後の競技だけでもーーー
(くっそ、運動しとくんだった・・・!きっつ・・・)
初夏とはいえ、憎らしいくらいに晴れた空は、トシユキを容赦なく見下ろしていた。
「ハル・・・」
これは、ずっと、昔の記憶。
「・・・」
「・・・」
この子は、確か。
「・・・えっと、み、ハルちゃん?」
「・・・」
「離してくれる?」
「・・・」
「あの、離して「どこいくの?」
「え?」
たっく、親は何してんだか。
お向かいさんちに引っ越してきた少し変わった女の子は、いつも1人だった。
そのせいか、うちの母さんはこの子にやたら構う。
1人で可哀想だとは思うけど、今時両親が共働きなんて珍しい話じゃないし。
まぁ、なんでもいいけど。
「なんでもいいけど、離してくれる?俺用事あるんだ。家まで送ってあげるから」
送ってあげるって言っても、2メートル先の家だけどね。
「この時間は、みんな学校行ってる。トシユキはどこにいくんだ?」
「呼び捨てかよ・・・。別に、どこでもいいだろ。そういうお前こそ何してるんだ、学校とか」
「今日はお休み。幼稚園の遊具、新しくしてる」
「・・・そうか。とりあえず離してくれ。遊んでほしいなら家の人にでも・・・」
「家には誰もいない」
「あ"ー・・・そう、だったな。ごめん」
面倒だな。
1人になりたいのに。
どうにか巻けないかな。
「あ」
「アイスクリームがあるんだ。うちで食べる?」
そう俺がいうと、目の前の女の子は首を縦に振った。
結局、うちに来たその子はアイスクリームよりもプリンを気に入っていたけど。
あんなに面倒だと思っていたのが、嘘みたいだ。
今では、苦しくなる息に、うまく動かない自分の足にいらつき、それでも必死に自転車をかっ飛ばすくらいにーーー
『トシユキ』
『やだ、あれ滝野さんちの息子さん。大丈夫かしら、ミハルちゃん。だいぶ懐いちゃったみたいだけど』
『しっ、ちょっと、聞こえるわよ』
『でもっ・・・ミハルちゃんのご両親に言っておいたほうがいいんじゃない?』
『心配よねぇ』
『トシユキ、大丈夫だ』
『お願いします!今からでも、俺に勉強を教えてください!どうしても、やらなくちゃいけないですっ!!』
『滝野、みんな一年の時からやっていたんだ。今更』
『滝野くん、頑張るのもいいけれど、あまり無理はしないようにね』
『滝野!放課後名一杯時間作っといたから準備室こい!嫌という程教えたるわ!』
『トシユキ、私はーーー』
『タッキーはさ、ミハルちゃんの何なの?』
そんなもの、今はどうだっていい。
なぜ大切かなんて。
父?兄?
知らないよ。
知りたくもない。
仕方ないだろう、歳に似合わず、性格に似合わず、振り回されてしまうくらいに、ーーー大切で、愛おしい。
今は、ただ
「ちっ・・・!間に合え・・・!!」
懸命に足を動かすことしか、俺には方法がないんだから。
"それではー、最後の競技に移りまーす"
"父兄の皆様はグラウンドに集まってくださーい"
最後の競技は、親子競争。
昔から変わらない、この町の体育会の最後を飾る競技だ。
人と人とが親しく関わり、穏やかな空気がながれるこの町にふさわしいと思う。
寂しくないかと聞かれたら・・・
どうだろう、私にはよく分からない。
トシユキには学校の文化祭を楽しんでもらいたかった。
でも、その想いとは別に、何か。
ずっと心にある何か。
トシユキに来てほしかった。
けど、並んで走ってほしくなかった。
トシユキに、私の親のようには振舞ってほしくなかった。
理由なんて、分かりきっている。
分かりきっているがゆえに、分からない。
なぜ、昔はそんなこと思わなかったのに、今更ーーー
「滝野は俺と走るぞーっ!」
「結構だ、お前と走るくらいなら1人で走る」
「そうツンツンするなよ〜、先生と走ろうぜー」
「寄るな」
3時、か。
そろそろ終わる。
これで最後。
私の出番はもうすぐ。
ぽたっ たたっ
「滝野・・・?」
トシユキ
"さみしい"
「トシユキ」
「トシユキ」
涙が止まらない。
こんな、小さな子供みたいな。
恥ずかしい。
でも、そう思っても、溢れ出てくる。
「トシ・・・ユキ・・・」
「ミハル!!!!!」
トシユキは優しい。
私がワガママを言っても、迷惑をかけても、くっ付きっぱなしでも、冗談交じりに怒るだけで、本気で私に怒ったことなんて一度もない。
冗談交じりに怒った時だって、すぐ後には困ったように笑って撫でてくれる。
私は知ってる。
あぁ、そうか。
私は知っていた。
私のために早く帰ってくることも。
私のために友達と遊びに行かず、家にいてくれることも。
私のために、たくさんのことを頑張ってくれたことも。
でもーーーだから。
これだから、大好きなものはやめられない。
「トシユキ!ここだ!私はーーーっ!」
『私は、ここにいる』
トシユキが、こちらに駆けてくる。
背後から、スタートのピストルの音がする。
「トシユキ!・・・わっ!」
腕を引かれる。
足が自然とトシユキを追いかける。
さっきまで頭の中に響いていた唸るような歓声は、もう聞こえない。
短いトラックは終わりを告げ、テープを切った。
「トシユキ、あの、」
強く引かれたかと思えば、次に見えたのは空。
トシユキの、苦しそうな呼吸音が耳元で聞こえる。
強く、抱きしめられていた。
「ごめん・・・気付かなくてごめんな・・・」
「トシユ、「あのな、ハル」
「ありがとう」
「気遣ってくれたんだろ?俺が文化祭を楽しめるように。ありがとう。でも、その気持ちだけで嬉しいよ。それに、ハルは思い違いをしてるよ」
トシユキの穏やかな声が耳に心地よく届く。
「今日、言われたんだ。ハルハルうるさいって。無意識だったけど、多分そうなんじゃないかな」
「ハル、文化祭を楽しむなら、俺はハルと一緒に文化祭を楽しみたいし、ハルにさみしい思いをさせるのが一番辛い」
「だから、一生懸命俺に甘えろ。俺に、甘やかさせてくれ」
トシユキの首元から、柔軟剤に混じって汗が香る。
走って来てくれた、私のために。
「うん・・・」
トシユキの身体が離れていく。
しゃがんだ姿勢のまま、私を見て微笑んだ。
「さぁ、帰ろう」
ハルの運動会にギリギリ、本当にギリギリで間に合った。
「よかったー・・・」
生徒や教師たちによって片付けられていく校庭を見ながら、息を吐く。
「俺、今日で3キロ痩せた気がする・・・」
まぁ、そんなわけないけど。
必死で走った。
止まったらもう立ち上がれない気がして、ハルの元についたそのままトラックを走り抜けた。
俺の名前を叫んだ時の不安そうな声と、涙の跡で心が痛んだ俺は、ゴールの直後に思わずハルを抱きしめた。
(何やってんだか・・・)
『タッキーはさ、ミハルちゃんの何なの?』
昼間の鎌ヶ谷の言葉が、頭の中でずっと、呪いのように巡っている。
今まで、あまり考えてこなかった。
ハルと出会って、ハルを守るために一生懸命で、それの理由なんて、後からついてくるもので。
いや、きっと、あの頃は本当にただ、大切、それだけだったんだろう。理由なんてなかった。もしかしたら同情かもしれないし、父性かもしれないし、妹のようだったかもしれない。
けど、いま、それは音も立てずに形作られてきている。
あぁ、これは呪いじゃない。
まるで、魔法のようなーーー
「トシユキ」
呼ばれて振り返ると、俺のいる校門まで駆けてくる女の子。
「もう片付けは終わったの?」
「うん。待たせたな、帰ろう」
そう言って、俺の手を握る。
「? どうした、帰らないのか?」
「いや、なんでもないよ。帰ろう、今日はきっとミハルの好きなメニューだよ」
「あぁ」
ハルが嬉しそうに俺の手を引く。
その小さな手を握り返して、俺も歩き始めた。
「トシユキ、それはなんだ」
「え?」
「ほっぺの」
歩き始めて少しして、ハルが俺の顔をじっと見たかと思えば、自分のほっぺを指差して聞く。
「あぁ、これは、えっと、なにペイントって言ったっけ。顔にするお絵描きみたいなやつだよ。生徒がやってくれたんだ」
「そうなのか」
聞くだけ聞くと、興味なさそうに再び前を向く。
「トシユキ、しゃがめ」
「?」
前を向いていたハルが、突然、またこちらを見て言う。
言われた通り、ハルに目線を合わせるようにしゃがむと、ほっぺの星を人差し指でぎゅっと押された。
「いたっ、ちょ、なにして・・・」
ちゅっ
頬に描かれた星に落とされた、柔らかい触感。
「来てくれてありがとう」
「トシユキ、私はやっぱりお前が大好きだ」
音も立てずに形作られてきた何かは、
きっと、まだ知らなくてもいいもの。
ゆっくり時間をかけて、
いつか、
伝えられればそれでいい。
お向かいさんの憂鬱 終わり