本文 は
目連大叫悲號啼泣馳還白佛…
せっかく、あらゆる苦しみから解放されるために悟りを開いたのに……こんなものを見てしまうとは!!
悲しみにくれたモッガラーナは、いま自分が見たことを、泣きながらブッダに話しました。
話を聞いたブッダが、モッガラーナよりも強い「超絶必殺ブッダ=アイ」もとい宿命通で過去を覗いてみたところ……。
「あ~…駄目だねこりゃ。君のお母さん、前世の罪根が相当に深いんだねぇ……君ひとりの力じゃ助けられそうにないヨ。たとえ天地も震えるほど強い親孝行の意思があったとしても、天の神だろうと地の神だろうと、邪神や魔神だろうと、外道や道士、そして四天王の神だろうと、お母さんを助けられないよ、これだけ罪が深いと」
と、絶望的なことをおっしゃいます。
冷たいなぁ、仏さんのくせに……と思いきや。
「だけどネ。あらゆる修行僧たちの力を集めたら、もしかすると、この状態から解き放つことができる……かもしれないヨ。」
おおっ、さすが、宇宙のすべてを見通すことができる(らしい)ブッダだけのことはある。何かアイディアはあるようです。
モッガラーナとしてはもうこれに賭けるしかない。ブッダは続けました。
「大事な弟子の君のためだ。苦しみや憂いをもたらす原因の罪障を消してお母さんを救えるかもしれない方法を教えてあげようじゃないの。
「七月十五日(太陰暦だから満月の日)……盂蘭盆の懺悔の日だね。この日に、あらゆる場所から僧侶たちを集めなさい。そして、百種類の食べ物(注:『いろんな食べ物』くらいの意味)と五種類の果汁を容器に盛り、香油とかで部屋を明るく照らして、全員にやわらかい座ぶとんを使わせなさい。こうやってみんなに甘美なご馳走をするんだ」
「ええっ……関係ない坊づどもを歓待してご馳走する? それがなんでお母さんを救うことになるんです?」
「人に気分良くなってもらうってのは、いわゆる善行だ。誰かが気分よくなると、その人は他の人にも気分よくなってもらいたくなる。そうやって、好意に好意が連鎖していくんだ。それは水面の波のように広がってゆき、やがて君のお母さんに届くんだヨ」
モッガラーナ「あっ! 『供養の回向』ですね!」
物事にはすべて過去に原因があり、そしてその物事が原因となって未来の結果が生まれる……仏教の世界観に、完全な偶然はありえません(ということになっています)。
他者に嫌な気分とか苦痛とかを与えると、巡り巡ってそれが自分に帰ってくる……生きてるうちにとは限りません。モッガラーナのお母さんのように、死んで生まれ変わってから、あるいは何回も生まれ変わった後で、まとめて
ドォォォン!
と、嫌なことがやってくることもあるのです。
逆に、善行……つまり他者に気分良くなってもらったり苦痛を取り去ったりしてると、巡り巡ってそれが自分へのイイコトとなって返ってくる……仏教徒はだいたいそう考えてます。
これを「因果」とか「因縁」とか呼びます。
しかし自分のためだけとは限りません。善行の結果、つまり「果報」を、自分ではなく他の人に……たとえば両親に。友達に。恩人に。あるいは知らないどこかの誰かに。そんなふうに、自分以外の人へ行くようにすることも可能とされてまして。まだ生きてる人にでも、すでに死んで生まれ変わっちゃった人にでも。
これを仏教では「供養を回向する」と申します。
ただし、素人があてずっぽうに供養を試みても、目指す相手にちゃんと届くかどうかはわかりません。「供養しても届かない」、つまり「的を狙っても当たらない」。目的と関係ないアサッテのところへ善行の波が行ってしまう可能性もありえるわけでして。
目指す相手ヘ「供養」の波を確実に届けるには、因果の法則とその働き方を修行によって体感したことある聖者さんに力を借りるのがより確実、ということなのでしょう。
そこでブッダは、まじめに修行して徳を積んでいる僧侶たち……つまり供養の命中確率が高そうなスナイパーたちを集め、みんなでひとつの的を狙えば、モッガラーナのお母さんに命中するんじゃなかろうか、と。
まあこういう話をしたのだと思われます。
「この方法で、君の両親と、それから七代前までのご先祖を供養してごらん」
そう聞いて、モッガラーナはすっかりその気になりました。
- つづく -