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月はどの世界であっても優しく灯る。同じ月ではないと分かっていても、同じ優しさを感じるのは何故なのだろうか。
繁華街を回ってから、ユアンに案内されるままに勧められる場所を見て回った。どこも観光名所としては申し分のない場所であろう。彼が悪印象を抱かせないように、美しい場所ばかりを巡っていたとしても文句はない。
この国の事情になど、興味がないからだ。あくまで、他人からの目線で良い。美咲に求められているのはそういうものである。
それでも気になる者は長い期間を要してみて回ったりするのだろう。そんな時間的余裕など美咲には存在しないが。
バルコニーに風が吹く。空気は冷たく吹き付け、美咲の身体を冷やしてくれる。この肌寒さが、心地良い。
「そんな恰好で外に出てると風邪引いちゃうよ?」
来たか。
聞こえた声に対し、抱いたのはそんな感想であった。三日後には帰るのだから、会いに来るのだろうという予想はついていた。
昨日も突然の訪問だ。今日も同じ方法で自分の元に来るのは予想できた。
「あれぇ? 驚かないね、ミサキ。昨日はびっくりしてくれたのに」
「あり得ると思っただけです」
「……そうなんだ? こんばんは、ミサキ」
近づく気配に振り向けば、すでに手を取られキスをされる。ジンは行動が早い。
「やめてって、言いました」
「聞いてあげないって言ったよ? それに、ミサキだってまた距離を取ってる。言ったよね? 名前で呼んで、普通にしてって」
顔を覗き込まれて、とっさに背ける。
挨拶と言い、キスした手を離してはくれないジンに気付き、非難の目を向けた。
「そんな風に覗き込まれても、可愛いだけだよ?」
「……年上の女に可愛いっていうのは、どうなの?」
「綺麗、の方が好みだった? でも、ミサキは可愛い方が似合うよ、きっと」
ジンの希望通りに話せば、そう言いつつも離してくれた。この点ではもう割り切るしかないのだな、と思い諦める。
年齢がどうのこうの話してはいるが、慣れという点ではジンの方が上手だ。美咲よりも表情を隠すのが上手いし、簡単にペースに乗せられてしまうのだろう。
「寒いねぇ、もうすぐ本格的に冬季だからなぁ……。ミサキ、くっついて温まろう?」
「いや。別にくっつかなくても、寒いなら部屋の中に入ったら?」
「えぇー、ミサキが外にいるのに? それじゃあ意味ないじゃん。俺、あんたに会いに来てるんだよ?」
蕩けるような言葉に甘い顔。そしてまた気が付けばジンは自分の近くにいる。抱きしめられそうな、とても近い距離。
日中思い知ったばかりなのに、揺らぎそうになる。これは、国のためなのだろうなと……冷静に自分の理性が抑制した。
「そんなに気を使わなくても、この国に対して悪い感情は抱いてないよ。だから、そんな風に私の機嫌を伺わなくて良い」
「……なんのこと?」
「分かってる、あなたたち双子が私を持て成していること。もう十分だから、無理をしなくて良いの」
この双子の甘い言動が、嫌だった。言うべきではないと思っていても、これ以上近づかれたくなくてそんなことを言う。利益を求められている。しかし、分かっていても怖かった。
男が苦手だ。女の自分からは何を考えているか分からない。男という生物は、自分とは違っていてどう対応すれば良いのか分からない。
女ならば、どうにかなるのに。同じ性別を持っているのなら、適当な話でも振って流すことが出来る。しかし、目の前の彼は男だ。
綺麗な瞳だった。青い月に負けぬほどに輝いている。風が吹けば、髪が揺れ長い三つ編みが揺らされる。月に溶けているその色も美しくて、神秘的で。
自分という人間とは全然、違う。
「何がそんなに怖いの」
「…………」
「ミサキが何を思ってるか分からないけど。俺はね、昨日言ったとおりだよ。口説きたいから、口説いてる。言ったよね、俺はあんたに惹かれてる」
風で、彼と自分の髪が凪いだ。視界の端に捉えた自分の髪は、自分の本来持つ色ではない。こんな、水月に溶けてしまうような青緑などではない。
疑う余地など、山ほどある。いいや、寧ろ疑いしかないのだ。
何故、なぜ、何故。自分にそんなことを言ってのけるのか。守護獣へ思いを伝える。それだけの役目のために、こんなことまでするのだろうか。
大切なのは分かる、分かっている。けれど、でも……だからこそ、迷う。自分にはたまたま召喚された女という価値しかない。
「男が女に惹かれるのに理由なんていらないと思わない? ……逆もそうだよ、ミサキ」
「私には、迷惑でしかない」
「そうかもしれない。でも受け入れて欲しいな? 俺をミサキの特別にしてよ」
いつの間に捉えられたのだろう。気が付けば、ジンの腕の中にいた。
これでは、逃げられるものも逃げられない。隠そうと思っても隠し切れない。また、身体の熱が上がっている。
「は、離して……!」
「照れくさいだけなんでしょ? 隠さなくていいのに。そんなところも可愛いね」
「……っ、……」
言われ慣れていない甘い言葉。甘くて優しくて蕩けるような声。思わず浸ってしまいそうになる、彼の体温。そのすべてが初めて向けられるもので。男というものを知らない女が、揺らいでしまうには十分だった。
しかし、流されるなんて自分が許せないのだ。まだ、何かを知らない気がして。このまま流されてしまうのは相手の思うつぼである気がして。
下唇を噛んで理性を振り絞る。ハニートラップだ、と言い聞かせて。
「いいから、離して!」
「……はぁい。残念」
語気を強めて言えば、簡単に美咲を離すジン。身体中がどくどくと脈打っている。こんな、昨日会ったばかりの男に抱きしめられたところで、不快を感じないものなのか。
ジンはただただ、美咲を見て笑っている。馬鹿にしているようには見えない……様子を伺っているというのが正しいのだろうか。
もう、美咲は自分で自分が分からない。ただ、分かっているのは、この流れに身を任せてはいけない、ということだけだ。
演技、演技である。
本当のところの、真意なんて美咲には分からない。美しい容貌で微笑まれれば、どうあっても赤くなってしまう。振り回されていることなど、自分が一番知っているのだ。だからこそ、言い聞かせてジンへと向き直った。
こういう時、冬という季節は誤魔化しが効かないが……身体を冷やしてくれる空気には身を任せることが出来た。頭まで沸騰したこの身を冷静にすることが出来るのだから。
「気安く、触らないで。私はあなたの玩具じゃない」
「玩具だなんて! そんなこと全然思ってない。……ミサキが帰るのは知ってるから、少しでも一緒に居たいなって思っただけ」
言われて、思い出した。
あぁ、そうだ。何を気にしているのやら。もうすぐ帰るのだから、双子のリップサービスなど気にせずにいれば良いものを。
それでも気になってしまうのは、やはり免疫のなさからきているのだろう。一々ドキドキさせられるような言動ばかりされては、心臓に悪い。
言い訳のように繕い、ジンを眺めながら身体を冷ます。この距離は詰めさせるべきではない。
「ねぇ、ミサキ。もう少しだけここに居られない? あ、勿論帰るのは知ってるよ。でもさ……もっと、色々知りたいなって思って」
「知って、どうするの?」
「どうするって。俺が嬉しいよ、あんたのこと知れたら。……それにね、ここで長い時を過ごしても、向こうの経過時間を一日にする方法があるんだ」
眉をひそめる。なんだそれは、美咲に都合が良すぎる話ではないか。だからこそ、疑う。
美味しい話だ、願ってもない。しかし、そんな方法があると昨日は言っていなかった。ならば何故、今日になってそれを伝えたのか。怪しい、妖し過ぎて……信じる気には、なれない。
「……考えておく」
口先だけ、そんな言葉を吐く。こちらにだけ都合の良い言葉は、信用できるはずがないのだ。
「ほんとう!? じゃ、返事を楽しみに待ってるね」
美咲が隠した言葉など分かり切っているだろうに、問い詰めることもなくジンは笑った。
これも術中のうちなのだろうか。だとしたらどれほど踊らされているのだろう。美咲には彼らの真意を測ることなど出来ない。年下だというのに、それがなんとも悔しく歯がゆい。
ともかくこの話が本当であるか否かを彩乃に聞いてみようと思うのだった。