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――杜の侵攻。
杜、その木々は冬であっても、
かつての時代での常識を超えた速さで成長する。
放っておくと人の住む領域は瞬く間に狭くなっていくので、
普段から伐採や耕作などの作業が欠かせない。
逆に言えばそれらの作業をしていれば、
普段は人は世界の中に自分たちの領域を確保できるのだが、
しかし突発的に木々の成長速度が高まるときがある。
それが、俗に「侵攻」と呼ばれる現象。
多くの場合、侵攻が始まると村ひとつ程度は七回太陽が昇る間に
飲み込まれる。
そして杜の侵攻は放置すれば何十里と人の領域を侵食するため、
「侵攻」が確認された場合は焼夷弾や瘴気、その他の強力な兵器の
運用がすみやかに開始される。
その運用は時に市民の避難を待たずして行われる。
そうしなければ後方の町や村を守ることができないし、
杜の中に棲む烙者や、杜に取り込まれて成った烙者による
二次被害が拡大する恐れもあるからだ。
とは言ってもそのような自体は十数年に一度の非常事態だと
言われているが――
――その非常事態が、10年前、沙華が住んでいた村を襲った。
今となっては記憶の中の村は沙華にとって意味をなくし色彩をなくし
単なる記憶としてのみ残っている。
しかしかつての、まだ幼かったと言える頃の自分はその村のことが
好きだったと思う。
杜に近い村で税が安い代わりに烙者が時折発見されるような危険で、
貧乏人しか住まないような村だったが、それでもそこは紛れも無く
沙華の故郷であり、大切な家族が住む場所であった。
――沙華の家族。
父親は時に厳しかったが、聡明で知るべきことをしっかりと
沙華に教えてくれた。
母親は優しさを通り越して甘かったが、どんな状況でも慌てず向き合う
強さというものを示してくれた。
兄と姉と、弟がひとりずついた。
兄は妙に責任感が強く、末の弟が物心ついた頃に体力がないくせに
軍隊に入り、初陣であっさり死んだ。
姉は自分のことは疎かにしがちだったが、その分と言わんばかりに
他者のことを良く気にし、力になった。
弟はどうしようもないくらいに腕白だったが、姉である沙華には絶対
服従し、家事を始め色々と助けてくれた。
他にも、小さい村だからこそ培われる人々との密接な絆。
まだ世界を知らない幼い沙華にとっては、
村はかけがえのない優しいセカイだったが、
セカイは一夜にして煉獄に飲まれ、灰となって消えた。
突如として開かれた煉獄。
その中で幼き日の沙華は、
自分と、人の世界の無力さを呪った。
杜に飲み込まれて烙者となる者達を憎んだ。
人の世界を飲み込もうとする杜に怒った。
どうして、などと嘆く声は、
たすけて、と叫ぶ涙は、
煉獄の劫火の中ですぐに干上がった。
私たちが裕福であったら、こうして嘆くことも
なかっただろうか?
裕福な家に生まれていたら、こんな煉獄を見ることも
なかっただろうか?
そんな嘆きもまた、灰となって意味をなくしていく。
沙華が拒絶する現実は燃えていく。
世界が拒絶した現実が燃やされていく。
――ああ、そうか。
その時、沙華は現実を知った。把握した。
拒絶されたから燃えるのだ。
人の世界に拒絶され、私のセカイは燃やされた。
勝手なことを。
私のセカイを燃やしていいのは、私だけだ。
だから、
だから、
村を焼く炎は、拒絶は、私のものだ。
私のセカイを焼いた炎。
世界を焼く炎。
煉獄の炎。
弱き存在を浄化する、
世界を画一化する薄弱な意志の権化である杜を
灰燼と化す、業火。
怒りを吐く赤い龍、汝は――
「私の、もの」
沙華の発した言葉、言霊に、炎が揺れた。
沙華はまだ炎に触れられていなかった。
触れたものに痛みを与え、もろく崩れさせる
強欲の舌はまだ沙華に届いていなかった。
しかしその灼熱の吐息はそれだけであどけない
少女を弱らせるはずだったし、地に落ちた太陽の
ような冒涜の光はか弱い瞳を眩ませているはずだった。
だが、少女は立った。
赤い髪を翻らせ、
夜の大地のような色の腕を伸ばし、
赤い龍を統べるように彼女は宣った。
「従え――従え!
私のものとなれ!
世界を焼きつくす劫火よ!
私の平穏の棲家を焼いたように、
私の安寧の日々を焼いたように、
世界を焼きつくし、
余すことなくその貪欲な咢で飲み込むがいい!」
「世界を滅ぼせ――炎よ!」
少女の言葉に炎は従った。
然して少女は比類なき戦士となった。
炎はまだ不完全であるが、肉体の力だけでも
万の敵を粉砕する修羅の戦乙女に。