第二章『無知なる駒を絡ませて』(2)
《AM,10:20》
首を右に九十度回してみる。ピッタリ閉められた薄汚い窓には、これでもかという程に御札が貼ってあった。……首を戻す。
首を左に九十度回してみる。何度か破けた部分を繕ったらしい押入れの襖に、十字架のマークや怪しげな紋章が黄色のペンキで書き殴られていた。……首を戻す。
更に、首ごと仰け反って百八十度後ろを逆さに見る。自分が強引に引き込まれたボロアパートの扉は、内側に聖書と経文が釘で打ち付けられていた。
……最後に正面に首を戻し、一番見たくなかった視界へ。遼平の体感気温を二度は確実に上げてくれるむさ苦しい男が、擦り寄るように眼前でうずくまっている。……ダメだ、ココには『安らぎ』という空間が微塵も無い。
「……おい」
「なっ? どど、どうかしたのか!?」
たった遼平の一言に、剛山は大袈裟過ぎる程のリアクションを返した。ガバッと顔を上げ、うずくまった体勢のまま遼平を見つめてくる。
「ナニさっきから震えてんだよ? 振動が俺にまで伝わってくるんだが」
「こ、これが震えずにいられるかっての! 絶対に今日来るんだ……俺は呪われてるんだ……今日呪い殺されるんだぁ〜っ」
「あのなぁ……。ンな幽霊だの呪いだの、ホントにあるわけねぇだろうが」
「あんた信じてないのか!? 本当に存在するんだ!」
「だって見たことねーもん。お前は本物見た事あんのか?」
「あるっ! ……テレビでだけど」
真剣な表情の剛山に、遼平は怒りを通り越して呆れを感じていた。遼平がこういった場面で怒鳴らないのは、かなり珍しい。
「……じゃあ訊くが、この部屋のワケわからん装飾達は何なんだ? なんか国際化過ぎていろんな宗教混じってんぞ?」
「当然魔除けに決まってるだろ、呪われてんだからさ」
「必ず呪い殺されるんじゃなかったのかよ? 無駄なんじゃねーの?」
「そっ、その為にあんたを雇ったんじゃないか! いざって時の為に……」
「なんか矛盾してんなぁ……。ンで、その《呪い》ってのはどうやって殺されるモンなんだ?」
「……わからない……」
「は?」
「わからないんだっ! どんな呪いなのか……とにかく恐ろしい呪いが……」
また頭を抱えてブルブルと震え始めた剛山を、ため息を吐いて見下ろす。『剛山 強』……名は体を表すという言葉通りの肉体だが、心はそうでもないらしい。知能レベルは遼平と同じ程度ではなかろうか。
剛山が泣き出しそうになったので、遼平は焦って話題を変えようとする。三十路を超えた大男の涙など、そうそう見たいモノではない。
「落ち着けって、俺が付いてんだからよ。ところでお前、職業は?」
「あぁ、土木作業工事」
「……激似合ってんぜ、天職じゃねぇの?」
「そ、そうかな」
別に褒めたつもりはなかったのだが、剛山は嬉しそうに頭を掻く。遼平は心の底から剛山を『土木作業の為に生まれてきた男』だと、確信した。安全第一と書かれた黄色いヘルメットがさぞやよく似合うことだろう。
「あ、忘れてた!」
「ンだよ、何を忘れてたんだ?」
「この『呪いのDVD』……今日がレンタルの期限だった! やっべー、早く返さなきゃっ」
「……お前、本気で呪い信じてる?」
「もちろんだろ!」
「じゃ、返しに行けば?」
「えぇ!? 外出んのっ? やばいよ、何か出てくるって!!」
どうやらこの三日間、全く剛山は外へ出ていないらしい。(しかも寝てねぇんだろうな……)と、男の目の下のクマを見て察した。
「あぁ? それじゃあ俺に行ってこいってのかよ!?」
「まさかっ、そんな事させないよ! ……俺が独りぼっちになっちゃうじゃないかぁぁ〜!」
ブチッ。
それは心の奥底で響く逆鱗の前触れの音。遼平の心理をよく知る純也ならば、よくここまでもったと感心することだろう。
「お前な……だったらどうしろってんだよっ! あぁん!!?」
自分より大きな図体を何度も蹴り、遼平は遂に激怒した。剛山は半泣きで頭を押さえて丸くなる。
「痛い、痛いよっ」
「もう我慢ならねーっ!」
暴行される依頼人と虐待を繰り返す警備員……今、異様な室内で異常な二人組みの尋常ではない事が起こっていた。制止できる者は…………いない。
「ちょ、ちょっとタンマ! 俺いい案を思いついたからっ」
「あ? ……言ってみろ、五秒以内で」
「ふ、二人で一緒に行こう! なっ?」
剛山は早口で見事に五秒以内で言い切った。遼平の上着に両手でしっかりしがみ付き、必死な瞳で見上げる。これでは呪い殺される前に、警備員に殺されてしまう。
「ちっ、仕方ねぇな……。早く立てよ」
「あ、あぁ……」
重い身体をやっと立ち上がらせ、剛山はレンタルケースにDVDを戻した。財布と三つの御守りを持ち、「準備万端だ」と言う。
「あっそ……。お前さ、いちおー言っとくけど、その御守り『家内安全』と『学業成就』と『無病息災』になってんぞ?」
「何の呪いだかわからないんだから、いろいろ持っておいた方がお得だろ?」
「……そういうモンなのか?」
「あぁ! そういうものなんだ!」
自信を持って断言する剛山に、遼平はまだたくさん残っているツッコミ所は無視する事にする。少なくとも『学業成就』は二宮金次郎に呪われたって効かないと思うのだが。
「ちょっと待った……おい、ここ電波状況いいか?」
「え? 良くないかもだけど、何する気だよ??」
「ちょっと通信をな。同僚に連絡するだけだ」
言って、相手は携帯通信端末を持っていないため、普通の無線機を取り出す。スイッチを入れ、口を近づけた。ノイズ音が小さく唸る。
「聞こえるか? 俺だ」
『……え? ……し、もしもし? だ、れ……?』
ノイズ音に阻まれながら、微かに人の声がする。やはりココでは電波状況が悪いらしい。遼平が部屋から出ようと扉を開けると、ノイズ音がピタリと止んだ。
「俺だ、純也そっちはどうなってる?」
『あ、遼! どーもこーもないよ〜、ちょっと大変なんだ。大勢に囲まれちゃって……』
「囲まれてって……お前戦ってんのか?」
『いや違うんだけど……でもまぁある意味戦い、かなぁ〜?』
「何言ってんのかわかんねーよバカ。俺の方は面倒臭ぇ仕事だってのに……」
そこまで言って、遼平は両肩を背後から強く掴まれて口を閉じざるをえなかった。首だけで振り返ると、血走った目の剛山が。
「お、俺を残して行かないでくれぇぇ〜」
「まだ行かねぇよっ、……お、おい抱きつくなぁぁ!」
『え……? ちょ、ちょっと遼?』
「俺を一人にしないって約束したじゃないかぁ! 一生俺の側にいてくれるって誓ったじゃないかぁ――っ!」
「いつ誰がそんなコト言ったんだよ!?」
『遼……ごめん、僕お邪魔しちゃったかな……?』
「おい純也っ、お前変な誤解してんじゃねーよ!」
『いや、いいんだ……僕は反対しないよ、遼の人生だから……うん、愛のカタチっていろいろだと思うし……』
明らかに動揺している純也の声が無線機から届く。完全に純也は遼平と剛山の関係を誤解したらしい。少年は、(女性にモテないからってそうきたか……)と心底同居人に同情していた。
「だーかーら――っ! 違うんだ純也、こいつはクライアントで……」
『あ、うわあぁぁ!』
不意に純也の声が途切れ、ドタドタ……と何かが倒れる音が連続で聞こえる。あちらで何かあったようだ。
「純也?」
『……いたたた、ごめん、アンナとエリザベスがいきなり抱きついてきて……』
「はぁ!? お前今ナニやってんだよっ!?」
『え? うん、ちょっとみんなの相手を』
「みんな!? まだ女がいるのかっ?」
『うん。えっとね、リリアンとミリィと……あとサンディとか』
遼平の思考に、女(しかも外人ばかり!)に囲まれた純也の図が浮かぶ。何故か激しい憤りが遼平を怒涛の勢いで襲った。
「てめぇ……なんでハーレムやってんだよーっ!」
『は? ハーレム?? 何言って……って、わあっ!?』
「今度は何だっ!」
『リリアンが……僕の上に乗りかかってきて……痛っ、やめてってば! あ、ちょっ、待って……わああぁぁぁ!!!』
ブツッ!
……そこで回線は切れた。遼平の無線機を握る拳に力が入り、ビキッという音で無線機は粉々に壊れる。
「……ど、どうしたんだあんた?」
「許さねぇ……」
呟くような小さな言葉。殺気を含む邪悪なオーラが遼平を包みだす。
「ぜってー許さねぇ……あの野郎、俺より先にモテやがって……ぶっ潰すぞ純也ぁ――っ!!」
激近所迷惑な絶叫が、穏やかな昼間の住宅街に響き渡った。
◆ ◆ ◆
《AM,10:40》
「あー、いたたたた……。もう、ダメじゃないかリリアン〜」
やっと抵抗して上半身を起こし、純也は毛並みの良いゴールデンレトリバーを撫でた。このゴールデンレトリバー……『リリアン』が一番純也によく懐いている。
エプロンと三角巾のバンダナをした純也を取り囲む『アンナ』や『エリザベス』、『サンディ』たちは、それぞれチワワやシェパード、ダックスフンドなど様々な犬種だ。
広い庭の一角で、純也は犬達と戯れている。お屋敷の奥様からもらったメモによると、この時間は《お遊戯》の時間だそうなのだ。
「あれ……無線が通じなくなってる……? 遼、どーしたんだろ〜? …………でも、僕はお邪魔しないほうがいいよね……うん……」
ノイズ音しか発しなくなった無線をポケットにしまい、少し思案顔になる。哀れ遼平、純也に「遼……僕、遼なりの恋愛を応援するよ……たとえどんなカタチでも……うん……」とか呟かれているのを知らない。
そんな穏やか(?)な《お遊戯》の時間。百坪程度ある庭なのだが、遊び慣れた場所なのか、犬達はあまり嬉しそうではない。かえって、新しい興味対象の純也に犬達は群がっていた。多分、この高い塀の外の世界を犬達は知らずに育ってきたのだろう。
いろんな犬や猫の相手をしても、純也はちっとも疲れなかった。純也自身、動物と遊ぶのは好きだったからだ。くすぐってくるチワワ『アンナ』を抱きかかえてあげると、その隙に銀髪の頭上に子猫『ロッキー』がのぼってくる。アンナを羨むようにリリアンが純也に擦り寄ってきた。
「もー、みんなくすぐったいよぉ〜」
頭に子猫を乗せた警備員が、嬉しそうに微笑む。その温かな雰囲気が犬達にも伝わり、優しい空気をまとう。裏社会の警備員が仕事をしている……などという事を少しも感じさせない、平和な光景。
「あ! そーだっ」
何かを思い出し、純也はエプロンのポケットにしまった、奥様からもらったメモを見る。『十一時半から昼食』……もちろん、この全ての動物達のだ。食事は手作りらしく、レシピが詳細に書かれている。
「これは……随分と豪勢な食事だねぇ……」
黒毛和牛のビーフシチューに、無農薬野菜と高級ラムのリゾット、デザートにはパイナップル丸一個を使ったパフェなど……。一人で作るには相当の時間を食う上に、果たしてコレらは動物に食べさせても良い物なのだろうか。ちなみに、純也はこんな料理を日常で作らない……というより経済的に作れない。自分達が日々食べている物が犬達より貧しい事を知ったら同居人の遼平はどう思うだろう……と、純也は思わず苦笑を漏らしていた。
「コレ全部作るとなると……もうそろそろ取り掛からなくちゃいけないな。よーし、みんな家に戻って〜! これから僕がとっておきの料理を作ってあげるからねっ!」
まだロッキーを頭に乗せたまま、純也は立ち上がって動物達を集める。わざわざ追いかけなくても、純也の意を察したように犬や猫達は集まり、少年に従って家へ入っていった。