第一章『糸は静かに、そして強引に』(1)
第一章『糸は静かに、そして強引に』
《AM, 5:00》
その朝、純也はいつもより早く目を覚ました。自分に割り当てられた仕事の時間が早かったからだ。
純也のベッドであるリビングのソファから身を起こし、窓を開けて大きく伸びをする。まだ早朝なので風も涼しい……天気は快晴になりそうだった。多分、仕事日和。
着替えようと用意しておいた服に手をかけた時、ガンガンッという家の扉を激しく叩く音がした。こんな早朝に誰だろう……? と純也は急ぎ足でアパートの扉へ向う。あまり音を立てられると寝室の遼平が起きてしまいかねない。
「はーい、どちら様ですか〜?」
内側からドアノブを回すだけで扉のロックは解除される。純也は朝の爽やかな笑顔で応対に出た。
扉を開けると、意外そうな顔つきのこのアパートの大家の老人がいた。もうたいそうな高齢で腰は曲がっているが、表情はいつも厳しい。……というのも遼平と純也が共に住んでいるこの部屋で、二人がしょっちゅう物を壊したり騒いだりするからだ。
「あ、大家さん……どうかしました?」
「ふ、ふんっ! 今日は無駄に早起きなんだな?」
「えぇまぁ……、ちょっと仕事があるもので」
「はっ、仕事、か! お前さんみたいな子供に仕事なんぞマトモにできるわけなかろう!」
明らかに嫌がらせに来たと思われる大家のお爺さんに、少年は困ったような表情をする。大家の方もまさかこんな時間に起きているとは予想していなかったのか、少々焦っている。二人の間に、気まずい空気が。
「……えっと、とにかく、何か御用でしょうか?」
「まだあのボウズは起きとらんのか?」
「遼は……まだですが」
「ははっ、まったくなっとらんな! これだから近頃の若いモンは……」
「あの、御用は――」
バシッと素早く純也に固くて平べったい物が投げつけられる。受け取った物を見下ろし、少年はきょとんとした表情。
「これ、回覧板??」
「そうだっ! 人の話も最後まで聞けんのかお前は! ずっとお前らの郵便受けに入ったまま止まってたんだ、迷惑だろうがっ」
「す、すみません……」
申し訳無さそうに純也はペコリと頭を下げる。遼平達は新聞をとっていないし、今どき携帯端末のために郵便物などは滅多に届かない。それ故に二人は郵便受けなど毎日確認していなかったのだ。
「本当にな! お前らが来てから散々だ。どういうしつけを受けたらそうなるのか……」
そこからクドクドと大家の愚痴展覧会が始まった。これは始まったが最後、十分以上は確実に喋り続ける。
いい加減夜は早く消灯しろだの、部屋内で走り回るなだの、(ちゃんと払っているのに)家賃は早く払えだの、何処の馬の骨だかわからないだの……。言いたい放題だが純也は苦笑の表情でじっと耐えていた。遼平ならとっくに激怒しているであろうが、純也は忍耐強い性格なのだ。
大体、「しつけ」とか「何処の馬の骨」とか言われても反論出来ないのが純也の現状だ。遼平はどうだか知らないが、純也には遼平に拾われる前の記憶が無い。だから実際、何処の馬の骨なのか自分でもわからないのだ。……多分、馬じゃないと思うけど。
「……という事だ、わかったか! あのボウズにもきつく言っておけよ!!」
やっと最近の若者の愚痴が終わって、満足したように大家のお爺さんは背を向けて帰ろうとしてくれた。純也は、ふと何か思い出したようにその後姿を呼び止める。
「あのー、今度から御用の時はチャイム鳴らして下さいねー。ノックされなくてもいいですからー!」
「わかっとるわ! 馬鹿者っ!」
近所迷惑な大声で大家のお爺さんは去って行った。肩を非常にわかりやすく怒らせながら。純也は一息吐いて扉を閉める。回覧板を丁寧にリビングの机に置いた。
少し時間を無駄にしてしまったが、まだ仕事に支障は無い。早速着替えて純也はキッチンに向かい、二人分の朝食を作り始めた。まだ隣りの寝室からは遼平の寝息が聞こえる。
手際よく魚を焼き、味噌汁のダシをとるその姿は熟練の主婦と形容できなくもない。家事全般を遼平に押し付けられてからかれこれもう二年、物覚えの良い純也は料理も完璧なまでに上達していた。
エプロンを脱ぎ、純也は一人分の食事を盛る。遼平の仕事が何時からだか知らないので、下手に早朝に起こすと怒られてしまう。遼平は低血圧で、寝起きは機嫌が悪いから。触らぬ神に祟り無しとばかりに、静かに早い朝食を始める。
「ちょっと味が濃かったかなぁ……?」
味噌汁を平和に啜りながら純也は呟く。彼は《質より量》なタイプだが、自分の料理には趣味としてもこだわる節があった。結局は同居人も《質より量》なのであまり評価はされないのだが。
食事をしながら、純也は昨日真から渡された依頼先のメモを読み直す。
『上記の場所に、午前七時までに行くこと。ちなみに私服で、持ち物はエプロンと三角巾』
「エプロンって……? 三角巾も??」
一応確認するが、彼は《警備員》である。しかも、裏社会でも少しは有名な裏警備会社、ロスキーパーの。そんな彼がエプロンと三角巾で一体何を警備するのか。不安……というか何やら不審だ。
「ま、行けばわかるか」
先程脱いだエプロンを再び出して自分のリュックサックに詰め、三角巾もタンスから出してくる。メモに記された住所までは電車を乗り継がねばならないので、純也はリュックを背負ってもう出発する事にする。食卓の上に遼平へのメモを残して。
『僕はもう仕事に行ってくるよ。朝ごはんはお皿の焼き魚とお鍋に味噌汁があるからね。仕事、遅刻しちゃダメだよ? ……追伸、今日は大家さんに会わないようにね!』
まだ爽やかさの残る朝、少年は扉を出て静かに出勤していった。
◆ ◆ ◆
《AM,6:50》
「ここか……」
依頼のメモを再度確認し、住所が間違っていない事を澪斗は確かめた。千葉の閑静な住宅街。その中の一見普通の家の前に、澪斗と彼の自動車のスポーツカーは止まっていた。表札には『清水』(きよみず)とある。
彼もまたメモの条件により、私服を着ている。白い長袖のシャツに黒のジーンズをはいた姿はとても警備員には見えないが、恐らくそれが今回の条件なのだろう。肩耳にカフスをつけた彼の姿は、かなり女性の気を引くものだった。……が、もちろん本人にその気は無い。
千葉方面に来るのは珍しく、そもそも《東京都中野区支部》の社員である彼が千葉まで仕事で呼ばれる事など今まで無かった。……まぁ、どうせロスキーパーの支部は千葉に無いし、東京にだって本社を除けば彼らの支部しかないのだが。
ピンポーンと軽いチャイム音を鳴らし、澪斗は依頼人を待つ。すぐに玄関の扉が開き、やっぱり一見普通の中年夫婦が出てくる。
「裏警備会社中野区支部の紫牙澪斗だ。あなた方がクライアント、でいいか?」
少々威圧するような口調だが、澪斗の場合いつもこうなのだ。あまり彼が外交をやりたがらない理由が、ここにある。誰もが初対面だと引いてしまうからだ。
「は、はい……ですが正確には私達では無いのです……」
自分より半分しか年齢の無さそうな若い警備員に、主人はたじろぎ、何か言いにくそうな仕草をする。
「なんだと? 依頼内容は何だ。何を警護すればいいんだ?」
「それはお話ししたはずですが……?」
「……すまない、上司が説明を放棄したのだ。で、依頼とは?」
「それは……」
何が不安なのか、夫婦そろっておどおどした態度だった。澪斗が裏社会の人間だから怯えているのか、それとも依頼がとても重要なものなのか……。
「は〜い! 私の警護でぇ〜っす!!」
夫婦の後ろから突如、黒髪の長い少女が飛び出してくる。中学生くらいだろうか、やけにはしゃいでいる。
「……どういうことだ?」
「はい、実は今日一日娘の警護をしていただきたくて……」
「誘拐脅迫でもきているのか」
「いえ、今日娘が東京に遊びに行くと言うもので……親としてとても不安なのですが、私達には仕事が……」
「……もしかして、それで一日娘に付き合えと……?」
澪斗の整った顔がやや引きつる。確かにこの年齢の少女が一人で東京に行くのは危険だが……。
「はい、お願いします」
「……いいだろう」
深く頭を下げられ、今更断って帰るわけにもいかないので澪斗は承諾する。まぁ子供に一日付き合うぐらいなら……という澪斗の考えは、非常〜に甘かった!
「やったぁ〜!! なんか警備員さんかなりカッコイイし! 私は百合恵。よろしくね、おにーさんっ」
「あぁ……」
クライアントの前でなければ頭を抱えたい気分だった。そもそも人付き合いを最も苦手とする澪斗には、過酷な任務だ……。
「じゃあみんな、早く行こーっ!」
「…………みんな?」
悪寒に近い激痛が走る。『みんな』という言葉が、澪斗にトドメを刺した。
「「「は〜いっ!!」」」
何処にいたのか、百合恵と同じような少女達がぞろぞろと三人も出てきた。澪斗は失神寸前になる。
「こいつらは……?」
「私のお友達! ついでに護ってちょーだいねっ」
「……承知した……」
(真め……こういうコトか―――っ!)
もはや嫌そうな表情を隠す事さえ出来ず、澪斗は自動車に全員乗るように指示する。百合恵の両親が深く深く礼をした。
「それで、何処へ行きたいんだ?」
エンジンをかけ、シートベルトを締めて澪斗は助手席に一番に乗り込んだ百合恵に問う。百合恵は胸を張って手帳を取り出し、澪斗の眼鏡の前に突き出した。そこにはびっしりと今日の予定が刻まれているではないか、しかも分単位で。
「まずは東京タワー! やっぱ最初はココよね、さぁ、急いで!!」
「……わかった……」
朝から激しい精神疲労を感じながら、五人を乗せた澪斗のスポーツカーは高速道路へ入っていった。