第三章『あらゆる災難を呼び起こし』(2)
《PM,2:00》
(耐えろ、耐えるんだ、紫牙澪斗……っ)
二階窓際の二人用テーブルに一人腰掛け、澪斗は深く精神を《無》の状態にすべく目を閉じていた。テーブル上のマグカップのコーヒーは、とうに空になっている。
それに先程澪斗の眼鏡、に見せているノアの照準グラスが起動した。ノアが起動すれば、それに伴ってこの照準グラスも起動する。今は停止しているが希紗が戦闘をしたのは確実だ、面倒な事になっていないと良いのだが。
隣りの大きめのテーブルで、百合恵達の会話が大声で行き交っている。昼食にと入ったこのファーストフード店で四人が喋り続けること、既に二時間半経過。雑談に夢中で百合恵達は一向に店を出る気配が無い。
「すまない、コーヒーのブラックを一杯」
ふと近くを通りかかった女性店員に澪斗は声をかける。低いながらもよく通る音声は、無意識に周囲の人間達から注目された。
「わかりました、すぐお持ちしますねっ」
澪斗の外見に一瞬でやられた店員は、猛ダッシュで一階のカウンターへマグカップを持ち去っていった。
「別に急がなくても良いのだが……」という、まだまだここで時間を潰すのだろうと予想していた澪斗の想いは、女性店員の後姿には届かない。
「でね、その時ミカがさぁ〜」
「マジで!? 告っちゃったワケ〜?」
「ねぇ、百合恵には好きな人いないのぉ?」
「まだ彼氏募集中よ〜っ」
「なら君達、俺らと付き合わない?」
突然百合恵達の椅子の後ろに若い男が三人現れ、話しかけてきた。いわゆるナンパ、というやつだ。
澪斗は知らぬ顔で男達を一瞥する。全員明らかに大人で、三人共風俗店で働いている事が一目でわかる格好だった。だが、顔はあまり良くない。先頭にいる男など、鼻にピアスをしているがなんだか牛のようだ。……もちろん、澪斗はそんなことは気に留めてもいないが。
「え、ナニ? お兄さん達?」
「だからさぁ、今日俺らに付き合わない? 面白い所へ連れて行ってあげるよ」
百合恵が椅子を横向きに座りなおし、先頭のピアス男と目を合わせる。百合恵の鑑定眼(対男用)が反応。結果は……。
「ね、百合恵どうする?」
「なんか怖くない?」
「でも〜、少しくらいならいいかも〜」
コソコソと百合恵の友人達がそれぞれの意見を述べる。どうやらこの場の決定権は百合恵に託されたようだ。
「君達さ、早く行こうよ。俺ら超イイ場所知ってんだよね〜」
「ぜってぇ楽しいぜ? 君たちカワイイから俺おごっちゃう〜」
男達が各々口説きゼリフを口にする。その言葉が全部終わるのを待って、百合恵は笑顔でゆっくりと口を開いた。
「お兄さん達、」
「来てくれるんだね?」
「誰が行くかっての! 自分のツラをもう十回ほど鏡で確認してから出直してくればぁ!?」
凄い気迫で睨みつけたまま百合恵は嘲った表情で怒鳴った。一瞬、男達が怯むくらいに。今日、自分に存在意義が有るのかどうか澪斗はこの場面を見て本気で悩んだ。
「……人が下手に出てりゃ言ってくれるなぁ、小娘っ!」
「ちょっ、何するのよ!?」
男達は怒った様子で口調を変え、ピアスの男が百合恵の腕を強く掴んで立ち上がらせる。
「放しなさいよっ、このブサイクー!」
「娘、一度自分の立場を考えてから口を開くんだなぁ!」
片腕で百合恵を掴んだまま、ピアスの男はもう片方の拳を振り上げる。百合恵の友人達は恐怖で悲鳴も上げられないまま目を閉じていた。
鋭く皮膚が皮膚を叩く音。だが百合恵にはどこにも外傷は無い。そう、彼女の顔寸前に細い指の手の甲が広がり、その手が振り下ろされた男の拳を受け止めたからだ。眼鏡越しの鋭い眼光が、淡緑色の前髪に妨げられることなく向けられる。
「その手を放せ」
「なんだてめぇっ、どけ!」
粋がりながら、男は驚いていた。受け止められてしまった拳はこの淡緑髪の男の握力によって完全に握り返され、微動だにできなくなっている。
「……言葉が足りなかったか? その、女を掴んだ手を放せと言っているんだ」
「正義の味方ってか? 随分とカッコイーじゃねぇかよっ!」
澪斗に向って、ピアス男の背後に控えていた男二人が襲いかかってくる。しかし、澪斗が二人の腕が届く前に一方の顎を蹴り上げ、一方の鳩尾を打つと、男達は呆気なく倒れてしまった。
「悪いが俺は正義ではない、『裏』の人間だ」
二人の間でしか聞こえない静かな金属音。腹部に何か押し当てられている感覚にピアスの男が気づき自分で見下ろすと、小型の銃口が当てられていた。その引き金を握る澪斗の顔色は先程と全く変わらない、無表情。リボルバー式マグナム、澪斗の持つ本物の拳銃だ。
「ひいぃっ!」
「放せ」
威圧でも脅迫する声色でもなく、ただ淡々と事務的な口調で言う。かえってそれが、従わなければ本当に撃つことを示唆していた。裏の人間ならば、場所など構わず発砲するだろう。
男がそっと百合恵の腕を掴んでいた手を放した。そして、悲鳴も上げられないまま脱兎のごとく三人で逃げ去る。
場がシーンと静まる。澪斗が周囲を一回り見回すと、今までのやりとりを好奇の視線で見ていた客達が一斉に視線を合わすまいと逸らした。おそらく、この客達は騒いだり警察に通報したりする事は無いだろう。『厄介事には巻き込まれるな』……それがここ東京表社会の原則だからだ。
「怪我は無いか」
怖かったのか俯いて黙っている百合恵に、声をかける。腕を掴まれただけなら外傷は無いと思うが……なにせ子供だ、裏の人間には考えられない程身体は脆い。まぁ一度くらいこういった体験をしておいた方が、もう二度と都会に出たいなどと思わなくなるだろうが……。
「おい、清水……?」
返事をせず、肩を震わせ始めた百合恵に再び声をかける。まさか今ので泣いているのか?
「……ふ、うふふふふふ、やーっと見つけたわっ! あなたに決定!!」
「な!?」
突如満面の笑みで百合恵が澪斗に抱きついてきた。もちろん銃は既に腰のホルスターに戻してあったが、そのあまりの速さに身体が一瞬反応して再び抜こうとしてしまった程だ。
「何をしている!? 放せっ」
先程仕事上で男達に放った言葉を、今度はクライアントへ放つ。この行為が何を示しているのか澪斗にはわからない。
「あぁ〜、憧れていたのよー! いつか王子様が私を悪党から救ってくれる日が来るって!」
「は?」
「あなたが私の王子様に文句無しで大決定っ! 名前、何ていったっけ?」
「変な勘違いをするな、俺はお前の警護をしただけだっ。名前を答えてやるから放してくれ……」
周囲からのまた違った好奇の視線に耐えられなくなり、澪斗は懇願するような声色で百合恵を押し返した。が、強く腕を引っ張られて百合恵達の大きなテーブルに無理矢理座らされる。
百合恵の澪斗を見る瞳の色が、明らかに変わっていた。日本人特有の黒い瞳がキラキラと輝き、魅入られたように直視してくる。高鳴る鼓動、赤らむ頬、眩く見える彼……そう、清水百合恵は今、初恋の矢に射止められていた。
「さぁ! 警備員さん名前は!?」
なんだか他の三人の友人達も百合恵と同じような表情で澪斗を囲み始めた。
「……紫牙澪斗」
「年齢は!?」
「……二十ニ歳」
「職業は!?」
「……裏警備員」
「出身地は!?」
「……日本、埼玉県」
「血液型は!?」
「……A、RHプラス型」
「好きなモノは!?」
「……無い」
「嫌いなモノは!?」
「……愚か者」
何故自分が事情聴取を受けているのか……それさえわからぬまま、澪斗は頭を抱えながら四人の質問に答えていく。別に依頼人の警護だけすれば仕事は成立するのだから黙していても構わないのに、四人に囲まれた雰囲気がそれを許さない。何しろ、百合恵が腕を強く組んできている。
「いい加減にしろ、俺は貴様らを護るだけなんだ」
「じゃあ澪斗様っ、最後に一つだけ!」
「……清水、『様』はやめろ……」
「なら『澪斗』っ、私のことは『百合恵』って呼んでね!」
「…………嫌だ、と言ったら?」
「今回の依頼料を無しにしちゃうわよ〜」
仮面のように無表情だった澪斗の顔に、一滴の冷や汗が流れる。小悪魔的な百合恵の笑顔が澪斗に擦り寄ってくる。
初めてだ、こんな強敵は……こんな手ごわいクライアントは初めてだっ。しかし相手は依頼人、仕事を引き受けた以上背くわけにはいかない。……悲しいかな、澪斗は冷酷な性格だが生真面目な部分も持ち合わせていた。
「……百合恵。……これでいいな?」
「オッケー! ねぇねぇ、澪斗はさ、その……彼女いる……?」
「カノジョ?? 誰の事だ?」
もじもじしながら言う百合恵に、澪斗は眉間にシワを寄せて問い返す。『彼女』という単語は、彼の脳の辞書には『誰か女性の第三者を示す言葉』、となっていたからだ。澪斗は天然……というよりはただ常識が無いだけ。特に、若い人間の常識が。
「もうっ、とぼけないでよ。澪斗には恋人がいるのかって訊いているのよぉ!」
「なら最初からそう言え。……まぁ、いないがな」
別に何の感情も込められない澪斗の言葉に、四人(特に百合恵)がはしゃぐ。完全に澪斗は彼女達の彼氏候補になり上がってしまったらしい。
「携帯のアドレス教えてくださ〜い!」
「私の事も名前で呼んで〜っ」
「おウチは何処ですか!?」
「もー、みんな私の澪斗に手を出さないでよねっ」
「お、おい……」
「「「百合恵ってばずる〜い!!」」」
百合恵の《彼氏発言》に、三人からひんしゅくの声が上がる。そこには澪斗の自由意志などドコにも無く。
「あの、コーヒーのお代わりをお持ちしましたが……?」
先程の女性店員がやっとマグカップを持ってやってきた。席を移して少女達に囲まれている澪斗をきょとんと見ている。
「……あぁ……」
もはやコーヒーを頼んだ事さえ忘れていた澪斗は、ひどく疲れた表情でウェイトレスからカップを受け取る。
「じゃ、次行ってみよぉーっ!」
百合恵の元気な声が、高らかに響く。折角頼んだコーヒーを一口も飲むことなく、男は少女にズルズルと引きずられていった……。