パラレルコール
先月のスマホ代が二万円を超え、母との口論に敗北したわたしは為す術もなくスマホを一ヶ月没収された。
鬼め、悪魔め、母親め。命より大切なスマホを取り上げるとは何事か。
自室の天井を眺め、高校を出たら一人暮らしすることを誓った。もう親に管理されるのは御免だ、私は自由の権利を勝ち取るんだ!
「まあ、それは災難でしたね」
教室に入れば味方を見つけることができた。
幼馴染のミツ。今日も黒髪に天使の輪ができている。
スマホを奪われ失意に暮れるわたしに「自業自得」とか「親に払わせるな」とか心ない言葉を浴びせる家族共とは違い、ミツはわたしのことを心配してくれた。
ミツはわたしのマイベストフレンドだ。
「ミツ、明日って暇? よかったら映画でも観に行こっか」
「はい、行きたいです! あ、でも、何を観る予定ですか?」
「逆に何がいい? ミツが決めていいよ」
「え、えっと……」
我が幼馴染は指の第二関節を顎に当て、首を少し傾げ、考えあぐねている。
ミツは昔から決断が遅かった。とにかく遅かった。
幼稚園の頃、りんご味とぶどう味のゼリーの二択を決められず、結局わたしが代わりにりんご味を選んであげたこともあった。
頭の中に考えはあり、すでに答えは出ている、なのにずっと悩み続ける振りして答えを出そうとしない。ミツの悪いところだ。
きっと自信とか主体性が足りないんだろうな。
これは試練だ。
明日観に行く映画を決めさせることで、ミツの決断力を養ってあげよう。
「じゃあ決めたら連絡してよ。朝一のやつは無しね」
「はい。ですが、ハニは今スマホ使えないんですよね」
「あ……。そうだった。じゃあ家に掛けてくれればいいよ、番号わかるでしょ。何時くらいに電話できる?」
「そうですね……」
しばらく悩んでから、ミツは喉から声を絞り出した。
「では、就寝前……、午後九時頃に」
帰宅して、ごはん食べて、スマホがないことに絶望して、お風呂入って、スマホを取り返そうと母に抗って。
気づけば時計の針は九時を指していた。
ミツが電話を掛けてくるはずの時刻だ。一分、また一分と、長針は短針から離れようとする。
遅い。あまりにも遅い。
わたしとの約束を忘れてすやすや寝てる? それともまだどの映画を観るか迷ってる?
どちらにしろ、これ以上待つ気にはなれなかった。
長針はまだ短針と距離を置いている。いずれ追いつき再び重なり合うと知っているのに。
わたしは大きく溜め息を吐き、ミツの家に電話を掛けた。
できればミツのスマホに直接掛けたかったが、流石に番号までは覚えていなかった。
家電なら子供の頃によく電話したので覚えていた。「03」から始まる十桁の番号も指に染みついている。
三回コールが鳴ると、いつもの落ち着いた声が聞こえてきた。
『はい、宮里です』
「もしもし、ミツ? 九時に電話するって言ったよね、なんで掛けてこないの?」
『え、えっと……』
「ほんとそういうとこだよ。幼馴染だから言ってあげるけどそんなんじゃ友達失くすよ?」
『すみません……』
「はあ、もういい。とりあえず明日十時にプラザ前ね。じゃあね」
『あ、あの……!』
受話器を戻し、妹にやんのやんの言われながら、わたしは冷蔵庫の奥に隠されたプリンを漁った。
さて、明日はなんの映画観よっかな。
調べようとして、スマホがないことを思い出した。
週末が明けた。
わたしは教室に入るとまっすぐ自分の席に着く。
むすっとするわたしに、ミツは申し訳なさそうに声を掛けてきた。
「あの……。すみません、ハニ。金曜日に電話を掛ける約束だったのに、結局出来ずじまいで」
「そうだね、だからわたしの方から電話掛ける羽目になったんだよね」
「え……?」
「それで約束したよね、土曜十時プラザ前って。ずっと待ってたんだよ!? 電話の件はともかく待ち合わせにも来ないなんて! 電話でも言ったけど、そういうのほんと友達失くすから……」
「待ってください!」
ミツの叫びにクラス中の視線が集まった。
驚くわたしの目を、ミツはまっすぐ見据えてくる。
「それ、いつの話でしょうか……。ハニから電話なんて来ていませんよ?」
「いやいや、何言ってんのさ、金曜の九時だよ? ミツが全然掛けてこないから、わたしから電話してあげて……」
「いえ、私はハニに連絡できなかったんです。そのせいで映画を観に行く約束もなくなってしまいました。ですから今日は謝りたかったんです。その節はすみませんでした……!」
ミツは深々と頭を下げた。
艶めく黒髪がさらりと垂れている。
「何それ……。なんでそんな嘘を……」
「嘘ではありません。私には、ハニが何を言っているのかさっぱりわかりません」
ミツは嘘をつくのが下手だ。それにこんなつまらない冗談は言わない。
だったら……。
あの時電話で話したのは、誰だったの……?
怒りの感情は霧散し、身の毛もよだつ恐怖がわたしの不安を煽った。
夜も更け、時刻は午後九時となった。
垂直に交わる二つの針の無機質さに、思わず身震いする。
ふと金曜のこの時間を思い出す。わたしが掛けた電話は、間違いなくミツの家に繋がった。
そして、……誰かが電話に出た。
そういえばあの時、わたしは約束の時間に電話が来なくて多少イライラしていたかもしれない。
電話口の相手がミツかどうかも確認せず、一方的に捲し立てていた気がする。
わたしが電話番号を間違えた可能性もあるのかな。いや、それだけはない。宮里ですって名乗ってたし。
あれはミツの家族だったのかな? でも声はミツっぽかったような。
長針が傾くたび、不安が募る。
このままじゃ心がぐるぐるして眠れないのは明らかだった。
わたしは意を決して再びミツの家に電話を掛けた。
三回コールが鳴ると、耳に心地いい優しい声が聞こえてきた。
『はい、宮里です』
「もしもし、あなたミツ?」
『……ええ、そうですが』
「ほら、ミツじゃん。やっぱり嘘ついてたんだ?
あーあ、約束忘れてたからって適当なこと言ってくれちゃってさあ」
『……すみません』
「謝らなくていいよ、今回はわたしが大人になってあげるから。でもこれからは約束ちゃんと守ってね」
「いえ、そうではなくて……。すみません…………」
あなた、誰ですか?
ミツは言った。
わたしは言葉を失った。
しばらくの沈黙の後、電話は切られた。
翌朝。ミツを見かけたわたしは危うく仰け反りそうになる。
昨日の夜のことがフラッシュバックしてくる。
「ハニ、おはようございます。少し顔色が優れないように見えますが、昨夜はちゃんと眠れましたか?」
「ううん、ちょっとね……」
ミツはわたしのことをよく見ていた。些細な変化にもすぐに気がつく。
ミツの声を聞くと、安心とともに昨日のあの言葉が呼び起こされる。
あなた、誰ですか?
「ねえ、昨日の九時頃さ、家に電話あった?」
「いえ……? なかったと思いますが」
「ミツは電話に出てないの?」
「はい、その頃には既に布団の上でした。あ、そうです」
ミツは何かを思い出し、神に祈るように胸の前で両手を打った。
「ハニがうちに電話をしたと言っていたので、気になって家の電話の通話履歴を調べてみたんです」
「……どうだった」
「金曜の夜は誰からも掛かってきていませんでした。ハニは別の家に電話していたのかもしれませんね」
「そう、かもね」
これではっきりした。あの電話の相手はミツではなかった。
ミツを名乗る謎の人物。わたしはその正体に目星がついていた。
あまりに突拍子もなく誰に話しても信じてもらえないような荒唐無稽な話だが、疑念は確証に変わりつつあった。
確かめたかった。
わたしの考えが合っているのか。
この馬鹿げた妄想が果たして本当なのかを。
午後九時になった。
もしかしたら時刻にこだわる必要はないのかもしれないが、なんとなくこの時間じゃなきゃいけない気がした。
一桁ずつ口に出して確認しながら番号を打つ。
一呼吸を置いてから、私は受話器を取った。
三回コールが鳴ると、少し警戒を孕んだ声が聞こえてきた。
『……どちら様ですか』
「もしもし、あなたミツ……、だよね?」
『はあ、またですか。もういい加減にしてください。切りますね』
「あ、待って! あなたの名前は宮里ツル。おばあちゃんみたいな名前が嫌で、あだ名がミツになった。そうでしょ?」
『……どうしてそのことを』
「他にも知ってるよ。剣道柔道弓道茶道華道書道……、道のつく習い事はなんでもやってきた道マニアだよね」
『別にマニアというわけではありませんが……、まあそうですね』
「あと中学からは毎日ポエムを書いてスマホに保管してたよね。保管アプリのパスワードは『1426』、誕生日の各桁に1を足しただけの安直な暗号。ミツを知ってる人ならすぐ解けるからやめた方がいいよ」
『な、何故それを!? さてはストーカーですね、警察呼びますからね!?』
「ミツのことならなんでもわかるよ。わたしはミツの幼馴染で、竹馬友達だから」
『……竹馬の友と言いたいんですか?』
「そう、それ! わたしたち小さい頃から遊んできたでしょ、クラスもずっと同じだし」
『同じクラスの人なら知っているはずですが……。あなた、誰ですか?』
「わたしはハニだよ」
『やはり心当たりがありません。別人ですよきっと』
「……ねえ、やっぱり変だよね。わたしはあなたを知ってるのに、あなたはわたしを知らないなんてさ」
また一呼吸を置き、考えを整理する。
今話しているのはミツだけど、ミツじゃない。
このミツはわたしを知らない。記憶がないとか忘れているとか、そういった感じでもない。
突拍子もなく馬鹿げている現象が、今、わたしの耳元で起きていた。
「もしかして、あなた……。こことは違う世界のミツなんじゃないの……?」
***
翌日。
終礼後すぐさま帰宅し、夜になるまで時計の針を眺めながら待ち遠しい時間を過ごした。
わたしの人生でこんなにも特定の時間に執着するのは初めてだった。
午後九時を回る。
三回コールが鳴ると、ミツの声が聞こえてきた。
『……もしもし』
「あ、ミツ? わたしだよ、ハニ」
『ハニさん……。えっと、こんばんは』
「こんばんは。約束通り、電話出てくれたね」
『ええ。最初は変なイタズラかと思いましたし、突拍子もない馬鹿げた話でしたが、つい気になってしまいましたから』
「信じてくれるの? この電話が違う世界と繋がってるって」
『そう、ですね、まあ信じるほかないと言いますか……。あなたは私のことをあまりにも知り過ぎているんです。誰も知らないはずの情報まで……、信じざるを得ません』
「あはは、そっちのミツはちゃんと黒歴史とか隠し通せてるんだね」
『もう、揶揄わないでください! その話は禁止です!』
「ごめんごめん。わたしの知らないミツと話せてつい嬉しくなっちゃって」
『えっと、ハニさんはそちらの世界のミツとは幼馴染……』
「ハニでいいよ」
『え?』
「呼び方。ミツの声でさん付けされるとむず痒いから、ハニって呼んで」
『わ、わかりました。では……、は、ハニ……!』
「よろしい! わたしとミツは幼馴染だよ、小さい頃から一緒に遊ぶことが多かったかな」
『そうなんですね。私には幼馴染がいないので、もしもの世界を覗き見しているようで不思議な感覚です』
「……ねえ」
『はい、なんでしょう』
「これがパラレルワールドとかいうのだったらさ、わたしがいる世界とそっちの世界、どう違ってるんだろ」
『確かにそうですね……。歴史上の偉人が異なる行動を取ったとか、そちらでは勃発した戦争がこちらでは起きなかったとか、何か世界の分岐点のようなポイントがあるのかもしれませんね』
わたしたちは互いに、互いの世界について質問し合い、間違い探しみたいに二つの世界の相違点を探った。
歴史、地理、文化、流行……。
双方の世界に主だった違いはなく、テスト前に友達同士で机を囲み問題を出し合うような雰囲気で話は盛り上がった。
わたしの好きなマイナーYouTuberが向こうの世界でもマイナーだと聞き、思わず吹き出してしまった。
『わかった範囲ではこれといった違いはありませんね』
「いや、あるよ」
『え、何かありましたか?』
「そっちの世界では、わたしとミツが出会ってない」
『ああ、そもそもパラレルワールド説が生まれたのもそこからでしたね。はい、大きな違いです』
「なんでそっちでは幼馴染になってないんだろ? 仲良くなる前にどっか引っ越しちゃったのかな」
『私の知る限り、近所や学校にハニという名前の方はいませんね』
「あー、ハニっていうのはあだ名なんだよ」
『あ、そうだったんですね』
「本名は、笑いが来るって書いて笑来。はにかむって別に笑うって意味じゃないし、もうなんか、親のセンスには脱帽だね。こんな名前聞いたらみんな爆笑するしかないもん」
『笑来、明るくてとても素敵な名前だと思いますよ。私は千年生きて欲しいという願いを込めてツルだそうです、無理ですよ』
「ははっ、カメじゃなくてよかったね」
『もう、笑い事じゃありません!』
「はははは……、わっ、何! ああもうわかったから! ……っと、ごめんごめん」
『どうかされましたか?』
「いつまで電話してんだーって親が怒ってて。長電話しすぎたね、ミツはもう寝る時間でしょ?」
『いえ、いつもは午後十時が就寝時間ですので』
「そうなんだ! こっちのミツとの違い、見つけた」
『ふふっ、そうですね。……あの』
「ん?」
『ハニとの電話、楽しかったです! また、話せますでしょうか……?』
「もちろん! 明日も同じ時間に掛けるよ」
『はい……! 電話の前でお待ちしてます!』
「またね」
『では、また』
それから午後九時の電話がわたしの日課となった。
別世界のミツと話すことが毎日の楽しみだ。ミツなのにミツじゃなくて、新鮮で楽しい。
向こうの世界は「わたしとミツが出会わない世界」なんだと思い返すたびに一抹の寂しさが漂う。
だが別世界のミツは、本来出会わなかったはずの幼馴染と話せることを喜んでくれていた。
わたしも嬉しくてにやけてしまう。電話越しなので相手に顔が見られずに済んでよかった。
交流を重ねるうちに、わたしたちは「友達」になっていった。
『ハニはどんな容姿なんですか?』
「え……。それって、どういう意味」
『あ、いえ! 別に変な意味ではなくてですね。ただ、ハニは私の顔を知っているのに、私はハニがどんな姿なのか何も知らないんです。一方的に知られているなんて不公平です』
「なるほどね。わたしについて知りたいかー、ふーん」
『な、なんですか』
「わたし、誰似だと思う?」
『ええ……、難しいですね。イメージだと布袋尊とかでしたが』
「芸能人?」
『神様です』
「神かー、流石にそこまでじゃないかなー。特に期待するほどでもない、普通に普通の高校生だよ」
『もっとわからなくなりました……』
「あはは。説明面倒だから、会えたら話は早いのにねー」
『え、あ、そうですね……。あの、つかぬことを伺いますが、そちらの私……、ミツは、何かコンプレックスを抱えていらっしゃいますか?』
「コンプレックス? うーん、どうだろ、聞いたことないな」
『そうですか……。きっと、ハニが隣にいてくれるから劣等感なく過ごせているんですね』
「どうだろうね。ミツは劣等感とかあるの? こっちのミツより明るくて声大きくて元気で賢そうだし、顔は……、一緒だろうけど、すごくモテそうなのに」
『うう、他人に話したことはないですが……。ハニになら話してもいいです』
「うん、二人だけの秘密ね。何々? 教えて!」
『……目の側にある、泣きぼくろです』
「うんうん。……え、それだけ?」
『それだけ、ではありません! 私にとって一大事なんですよ!』
「ミツに泣きぼくろかー。似合うと思うけどなー」
『うう、人の顔も知らずに…………、って、え? 待ってください』
「どしたの?」
『もしや、そちらのミツには泣きぼくろがないんですか……?』
「んー……。たぶんなかったと思うな、顔を見てたらそれくらい見つけられると思うし」
『では、そちらの世界のミツと私には、決定的な違いがあるじゃないですか!』
「あ、ほんとだ! そっちはわたしたちが出会わない世界じゃなく、ミツに泣きぼくろがある世界だったんだ!」
『そんなことで世界分岐しないでください! いえ、そんなことではありませんよ! 私真剣に悩んでいるんですから!』
「自分で言ったんじゃん!」
『あ……、そうでした。すみません、つい興奮してしまい……』
「あは! あはははは!」
『もう、ハニ……!』
「いや……、馬鹿にしてるわけじゃなくてさ……。こうやって違うミツと話すの、楽しいなって」
『……はい! 私も、すごく楽しいです!』
「もっと話したいけど、今日はこの辺にしとこっか」
『ええ、名残惜しいですが……』
「またね」
『また明日』
ミツとの電話がここ最近のわたしにとって何よりの楽しみだった。
スマホを没収されて久しいが、そんなのどうでもよくなっていた。
一ヶ月だっけ、あと何日くらいで母親から返却されるんだろ。覚えてないや。
ベッドに潜り目を閉じると、まぶたの裏にミツが現れる。
ミツは黒髪に天使の輪を浮かせ、楽しそうに笑っていた。
目の側には泣きぼくろがついている。
わたしが触れようとして手を伸ばすと、ミツの幻影は消えてしまった。
もっと話したい。
もっと声が聞きたい。
もっとあなたを知りたい。
いつしかわたしは、別世界のミツに惹かれていた。
***
朝。早く夜にならないかと待ち遠しい気分で登校する。
教室に入ると、こっちの世界のミツがのそのそと視界に入ってきた。
「ハニ、おはようございます」
「……うん」
「ハニ……? どうかされましたか?」
「いや、別に。何か用?」
「え……、っと、特に用があるわけではないんですが、最近あまりお話できていないなーと思いまして……」
「そう? 毎日話してるけど」
「え……? あ、そうです、前にハニが話していた違う私と電話が繋がったという件、結局どうなったんですか?」
「どうも何も、わたしが話してたのはミツだったよ」
「えーっと……? よくわからないです……」
わたしには、こっちの世界のミツと話すのがやましいことのように思えた。
それは裏切りだ。“ミツ”に申し訳が立たない。
わたしはミツに後ろめたい気持ちを抱えたくなかった。
ミツとは電話でしか話せない。声しか届かない。
だからこそ、誠心誠意まっすぐに向き合いたかった。
語る言葉はすべて、本物で飾りたかった。
午後九時。
二つの針が織りなす美しい角度がわたしを祝福する。
固定電話の前に立ったわたしは逸る気持ちを抑え、胸の高鳴る番号を打っていく。
三回コールが鳴ると、大好きな声が聞こえてきた。
『もしもし、ハニ?』
「おはよー、ミツ!」
『こんばんは。ふふっ、もう夜ですよ?』
「わたしにとって今ようやく朝を迎えたの。だからおはよう!」
『なんですか、それ』
「ねえ聞いてよ。今日のお昼、購買で新発売のパンがあったから買ったんだけど、これがまた微妙でさー」
『どんな味だったんですか?』
「なんだろう、いろんな味の原液を混ぜました、みたいな? ぱっと見は良かったけど中身が思った感じと違ったなー」
『そうなんですね。しかしハニのお眼鏡にかなったものですし、私も食べてみたいです』
「……こっちのミツも同じこと言ってた」
『え、本当ですか? ふふっ、やはり同じミツだからですかね』
「やめとけって言ったのに、ハニが食べてるなら美味しいはず〜って聞かなくて。それで一口あげたらマズそうな顔してるの、ほんと馬鹿だよね」
『隣の芝生は青く見えるものです。きっときらきら輝く宝石にでも見えていたんでしょう』
「普段は決断力ないくせにさー……、あ、そうだ。ミツはゼリーのこと覚えてる?」
『ゼリー、ですか?』
「幼稚園でさ、りんご味とぶどう味のゼリーどっちか選ばなくちゃいけないのに選べなくて泣いてたあれだよ」
『覚えていません……。それに、想像もつきませんね。私なら、迷わずりんごを取ります』
「へー。ミツは迷わないの?」
『はい、決断が遅れると多くを失ってしまいます。ですので幼い頃から、決め事はすぐに決めるようにしています』
「そうなんだ。昔からかあ……」
『どうかされましたか?』
「ずっと気になってたんだけど、そっちの世界ではさ、ミツってあだ名……、誰がつけたの?」
『ミツ、ですか。そういえば誰でしたっけ。学校……、クラスの誰かが最初に呼んだのがきっかけだったような……』
「もしかしてそれ、わたしじゃない?!」
『え? しかし、ハニも笑来も同じクラスにいませんよ』
「わたしの名前が違ってる説、あるんじゃない? そっちの世界ではうちの親がまともな名前つけてるんだよ、きっと!」
『名前が違う、ですか……! 確かにその線は考えてもみませんでした!』
「でしょ! やっぱりそっちの世界でもわたしたち、出会ってるんじゃ……」
『いえ、それはないと思います』
「えっ……」
『だって、ハニのように楽しい人、近くにいたら仲良くなりたいと思っているはずです。覚えていないわけがありません』
「そう? まあそうか〜。じゃあ出会ってないか〜」
『はい、残念ながら』
「残念だねー。会えてたらよかったのにねー。ほんと……」
電話というのは加工アプリみたいなもので、表面だけ取り繕って見栄えの良い情報だけを相手に与えられる。
これがビデオ通話だったらきっと上手くいかなかっただろう。
わたしは、ミツに考えを悟られないよう必死に誤魔化した。
この時のわたしの胸中には、恐ろしい想像が感染するみたいに広がっていた。
宮里ツルに「ミツ」というあだ名を付けたのはわたしだ。
名前で呼ばれるのを嫌い、周囲から揶揄われていた幼馴染を助けようと、わたしが考えたあだ名なんだ。
こっちの世界のミツを救ったのはわたしだ、と、そう思っていた。
でも、わたしがいないはずの向こうの世界で、宮里ツルがミツと呼ばれているのはおかしい。
わたしがいなくても、ミツはミツと呼ばれていた。
わたしがいなくても、ミツはミツになっていた。
わたしは、要らない……?
ミツは昔から決断が遅かった。とにかく遅かった。
そんなミツにわたしは、結果を与え続けた。
ミツが悩んでたらわたしが代わりに答えを出し、ミツから選択の機会を奪っていた。
向こうのミツは、決断に迷わないらしい。それはつまりわたしの影響を受けてないからだ。
こっちのミツに自信とか主体性が足りないのは、わたしのせいなんじゃないの……?
わたしが、ミツを駄目にしたんじゃないのか……?
翌日。
こっちのミツはのうのうとやってくる。
わたしに駄目人間にされたことなど露知らず。
「ハニ、おはようございます」
「……ミツさ」
「はい、なんでしょう?」
「わたしのこと、嫌い?」
「ええっ、まさか! そんなわけありません!」
「……そう」
「はい。ハニのことは……、そのぉ、好きですよ。ハニは優しいですし!」
その言葉は、今のわたしには皮肉としか思えなかった。
ミツは幼稚園の頃から内気で大人しく、友達もいなかった。
わたしはミツを可哀想だと思い、声を掛けてみた。
そうしたら、周りの大人はわたしのことを優しいと褒めてくれた。
だからわたしは、ミツと仲良くすることにした。
ミツに優しい自分に酔っていたのかな。
気持ちよかっただろうな、こんな簡単に褒められるなんて。馬鹿なわたし。
わたしはミツの目も見られなかった。
わたしの犯した罪が意思を持って歩き、喋ってるみたいだ。
今すぐすべて投げ出してパラレルワールドへと逃げ出したかった。
わたしが潔白な世界へ。
……あれ、ミツの目ってどんなだっけ。
鼻は? 口は? ミツってどんな顔だ?
思い出せない……。そっか、わたし、罪悪感から目を背けてたんだな、きっと。
ミツの顔を見ないようにして逃げてたんだ、ずっと。
その夜。
気づけば時計の針は午後九時を差し、わたしは急いで電話を掛けた。
ボタンを押し込むたびに心が救われ、現実から離れていく浮遊感に浸れた。
三回コールが鳴ると、会いたくなる声が聞こえてきた。
『もしもし、ハニ?』
「こんばんは、ミツ」
『こんばんは。大丈夫ですか? 昨日は様子変でしたけれど』
「う、うん。もう平気だよ!」
『そうですか、それはよかったです』
「……ねえ、ミツ」
『はい、なんでしょう?』
「そっちの世界のわたしに……、会いたい?」
『こちらのハニに、ですか』
「住所が変わってなければ会えるんじゃないかなって。教えるからさ、ちょっと会いに行ってみてよ」
『ええ、会いたいです! 明日にでも行ってみます。しかし私と出会わない世界なのに、ハニはまだこの町に住んでいるんでしょうか』
「わからないけど、何か痕跡とかあるかもよ」
『ふふっ、そうですね。ハニの足跡でも探してきます』
わたしはミツに会いたかった。
でもそれは叶わない。わたしとミツは違う世界の住人だから。
会えないくせに、声だけ届くんだ。つい夢を見てしまう、もしミツと会えたら……、って。
だからこそわたしは、向こうの世界のわたしに託したくなった。
わたしの代わりに、ミツに会ってほしい。
わたしはミツに住所を伝えた。
ミツはメモを取り、明日住所の場所に行ってみてどうだったかを報告すると言っていた。
そして、この日の電話は締めくくられる。
「また明日ね!」
『はい、また明日!』
それ以来、ミツは電話に出なくなった。
***
ミツ、なんで電話に出てくれないんだろ。
もしかして忙しいのかな。
まさかミツの身に何かあったんじゃ……。
少しでもいいから声聞かせてくれてもいいのに。
毎日毎日ミツに電話を掛け続け、ようやく通じたのは二週間後のことだった。
何回コールが鳴っただろうか。ミツの声が聞こえてきた。
『……はい』
「ミツ! よかった、電話出てくれた……! ごめん忙しかったかな?」
『いえ、そういうわけでは……。すみません』
「そっかそっか。それでさ、ミツに聞いてほしいことがいっぱいあるんだけどさ、何から話そうかな?」
『……ハニ』
「ん、何?」
『その、あの……』
「もう、何ぃ? はっきり言ってよ、わたしとミツの関係でしょ?」
『……会いに行ったんです、こちらの世界のハニに』
「そうなんだ! それでどうだった? イメージした通りの顔だった?」
『いえ……、会えませんでした』
「あー、そっか。じゃあミツと会う前に引っ越しちゃってたんだね」
『いえ…………。引っ越しもしていませんでした』
「え?」
『ハニのお母様と思われる方に、ハニのことを尋ねたんです。そうしたら驚きながら、私に教えて下さりました』
「……なんて?」
『産まれてすぐに亡くなった第一子の名前が、笑来だったと』
「……そう、なんだ」
『その後生まれた妹さんは元気に育ち、今は中学生だそうです。つまり』
「……うん」
『こちらの世界は、ハニがいない世界だったんです』
「まあ、そうだよね……。なんとなくそんな気はしてたかな」
『……ハニ』
「何?」
『……もうやめませんか、この電話』
「…………え?」
わたしは思わず受話器を落としそうになる。
震える手で持ち手を握り直し、恐る恐る耳元に添える。
「ごめんごめん……。えっと、今なんて言った?」
『やめましょう、この電話での関係』
「な、なんで? わたしのこと嫌いになった……?」
『いえ……、好きですよ。顔も見たことない、声しか知らない相手なのに、私はハニのことが好きになってしまいました。ふふっ、変ですよね』
「そんなことない! わたしも、ミツのこと……」
『私、憧れていたんです、ハニがいる世界に、ハニと過ごせる世界に。そちらの世界なら私も毎日笑って生きられるのかなって。でもその世界には別の私がいて、私はそこには行けない。届かない相手を想っても不毛なだけですよ。……ああ、そちらのミツが羨ましいです』
「……本当に、お別れなの?」
『はい。九時を過ぎました、そろそろ元の世界に帰りましょう』
「……うん、そうだね。帰ろっか…………」
『さよなら』
「さよなら」
あの日から、わたしはあの番号に掛けなくなった。
話したかった。声が聞きたかった。
ミツに……、会いたかった。
でも、もう一度電話を掛けたら決定的に終わってしまう気がする。
ミツの声やこれまでミツと話した時間もすべて、甲高い機械音にかき消されてしまう気がしたんだ。
学校に行くと、ミツがいた。
「あ、ハニ。おはようございます」
「……おはよう、ミツ」
「あの、ハニ! 私ついに、見たい映画を決めたんです……! 前からずっと気になっていたんですが、中々決められなくて……」
まるで宝物を見つけた子供みたいに、ミツは目を輝かせて報告してくる。
映画……、映画か。そういえば前にそんな話してたっけ。
わたしは昨日帰ってきたばかりのスマホを撫でた。一ヶ月の時の流れがこの端末には詰まっていた。
このスマホは、あちらの世界のことを何も知らない。
「それで、映画なのですが……」
「うん、観に行こっか」
「ハニさえよければご一緒に……、え? いいんですか?!」
「わたしから誘ったんだよ、先月の話だけど。それとも嫌だった?」
「い、いえ! 行きたいです!」
「じゃあ決まりね。今度はすっぽかさないでよ」
「はい! えへへ、ハニと映画なんて久しぶりです。まるでデートみたいですね」
ミツは喜色満面、嬉しそうにはしゃいでいる。
気が早く、既にポップコーンを何味にするかで悩んでいた。
そんなミツの姿をわたしは頬杖ついてぼんやり眺めていた。
「……あっ」
ミツの目の側に、泣きぼくろを見つけた。




