婚約破棄された令嬢は夜会で嘲笑の的になったようです。
王都の貴族たちが集う夜会は、今宵もひどく華やかで──そして、どこか息苦しかった。
煌びやかな燭台の光。私の身を包むのは、この日のために仕立てられた豪奢なドレス。隙のない礼装に身を包んだ貴族たちが、思い思いにグラスを傾けている。十七歳にして初めて足を踏み入れた社交界の空気に、私は緊張で小さく息を吐いた。
グラスの触れ合う乾いた音。いつの間にか、彼らの話題は「愛」というひどく曖昧なものへと流れ着いていた。
「永遠の愛など、存在しないわ」
手にした扇をゆっくりと揺らしながら、ドロテア伯爵夫人が断言する。五十年の長きにわたり社交界に君臨し続けてきた、この場で最も発言力を持つ女性だ。派手な化粧の奥の瞳は、獲物を値踏みするように細められている。
「愛は三年で習慣になり、十年で義務になる。そういうものよ」
「では伯爵夫人は、愛を信じたことが一度もないと?」
私は戸惑いを隠せず、小首を傾げて問い返した。初めての夜会で失礼があってはいけないと、必死に取り繕った声。
「あなたぐらいの歳の頃は信じてたわよ。だからこそ分かるのよ」
くすくすと、周囲から同調するような薄ら笑いがさざ波のように広がる。悪意の混じった同調圧力に、私はぎゅっと扇の柄を握りしめた。
「そういえば」
ふと、誰かの細い声が響いた。部屋の隅に腰を下ろしていた、地味なドレスの中年夫人──エルナだ。
「セレスティア様は、今頃どうなさっているのかしら」
その名が出た瞬間、夜会の空気が微かに、しかし確実に変質する。
セレスティア・フォン・ローゼンブルク。
二十年前、この社交界で最も輝いていたという伝説の令嬢。目を奪う黄金色の髪に抜けるような白い肌、莫大な財産と由緒ある家名を持っていた完璧な淑女。
しかし彼女は、家に仕えていた同い年の執事見習いを愛したために王族との婚約を破棄され、実家から追放されたのだ。私のような若輩者でも知っている、あまりにも有名なスキャンダル。
「ああ、セレスティア様」
ドロテア伯爵夫人が、ため息とも嘲笑ともつかない息を吐き出す。
「今頃どうしているかって? 決まっているじゃない」
ぱちり、と伯爵夫人は扇を閉じた。赤い唇が醜く歪む。
「芋でも煮ているわよ。ぼろぼろの服を着て、隙間風の吹く小屋でね。なんの財産もない召使と駆け落ちしたのよ?」
ふん、と伯爵夫人は形の良い鼻を鳴らす。
「愛の熱なんて、冬の寒さと日々の空腹であっという間に冷めるものよ。あのお方、ご自分で暖炉の火を起こしたことすらなかったはずでしょう? あかぎれだらけの手で冷たい水を汲み、明日のパンの欠片を数える。それが平民が生きる底辺の現実よ。セレスティア様も、ご自分の美しい肌が荒れ果てた時に思い知ったでしょうけれど──もう手遅れね」
「まあ」
私は信じられないという顔で目を丸くした。かつての同胞に対する、あまりにも冷酷な言葉。
「可哀想に」
エルナ夫人がふるふると首を振る。こちらは純粋に案じているようにも見えるが、その目の奥にはどこか嗜虐的な優越感が透けていた。
「きっともう別れているわよ。平民は貴族のように義務を果たす意識がないもの。今頃、実家に帰る方法を探しながら毎晩泣いているんじゃないかしら」
その言葉に、老侯爵のベルンハルトが手元の葡萄酒を一口含んでから静かに口を開く。白髪の交じる、物静かだが底意地の悪い男。
「実家から追放された身で別れれば、待っているのは路傍での野垂れ死にです。ですから、生きるために這いつくばってでも男にしがみついているでしょうが……」
ゆったりとグラスを揺らし、老侯爵は淡々と紡ぐ。
「ただ、愛想は尽きているはずだ。平民なんて教養もなく、我々のように他人を楽しませる話題の持ち合わせもない。三年も経てばお互い、会話も途切れるだろうよ」
「じゃあ今は、無言で芋を煮ているんですね」
誰かがぽつりと呟き、ふたたび部屋に陰湿な嘲笑の渦が広がっていく。
その笑い声に混じり、黙って話を聞いていた若い男爵、クロードが鼻で笑った。
「正気の沙汰とは思えませんね。我々と同じ高貴な世界にいた人間が、家畜も同然の下民と二十年も同じ小屋で暮らしているなんて。泥にまみれて底辺を這いずり回っているうちに、己の惨めさすら分からなるでしょう」
「まあ、クロード様ったらお口が悪い」
私は扇の陰で苦笑いをもらすしかなかった。愛という美しいものを、どうしてここまで踏みにじれるのだろう。
「でも、あながち間違いでもないかもしれませんわね」
エルナ夫人がクロード男爵に同意した。
私はおずおずと口を開く。
「駆け落ちなんて、ロマンチックだとは思うんですけど……」
ほんの少し頬が熱くなるのを感じながら、続ける。
「でも、現実は……平民の暮らしなんてやっぱり厳しいですよね? 毎日美しいものを見て、美味しいものを食べて育った方が、急に貧しい生活に落ちたら……」
「それが恋というものの恐ろしさよ」
ドロテア伯爵夫人が、鼻を鳴らして断言した。
「燃え上がる時は何も見えない。でも炎が消えた後に残るのは、冷たい現実だけ。セレスティア様は賢いお方だったから、今頃それを嫌というほど分かっていらっしゃるでしょうよ。ご自分の愚かな選択をね」
三度、嘲笑の渦。
夜会は相変わらず賑やかで、そしてひどく醜悪だった。
ただ一人。部屋の片隅で葡萄酒の杯を傾けたまま、ずっと沈黙を保っている男を除いて。
長旅から帰還したばかりだという、痩せぎすの初老の男──ギルバート卿。
彼はワイングラスの縁を指でなぞり、伏せていた睫毛をゆっくりと上げる。小さく、しかしひどく重い息を吐き出して──。
「……先月」
ぽつりと、静かな声が響いた。
彼に愛想笑いを向けようとした何人かの動きが、ピタリと止まる。その低く落ち着いた声に、場違いなほどの異質な響きが含まれていたからだ。ことり、と卓に置かれた葡萄酒の杯の音が、妙に大きく私の鼓膜を打つ。
「北の辺境を、旅しました」
「まあ、奇遇ですわね」とエルナ夫人が目を瞬かせる。「セレスティア様が北に渡ったという噂は、聞いたことがありましたけれど」
「山の奥へ踏み入った時のことです。道に迷い、日が暮れ始めた頃……一軒の山小屋を見つけました」
ギルバート卿は窓の外へと視線を投げながら語る。王都の夜が、ガラスの向こうで黒く広がっていた。
「みすぼらしい小屋でした。壁には隙間があり、屋根も低い。重い扉を叩くと、中から一人の女性が出てきたのです」
水を打ったように、誰も何も言わない。皆が、彼から発せられる「転落した令嬢の惨めな末路」を期待して息を潜めているのが分かった。
「酷く日に焼けた顔でした。四十代ほどに見えましたが、肌は荒れ、手は農婦のように節くれだっていた。身につけているのも、粗末な麻の服」
ドロテア伯爵夫人の手元で、扇が完全に静止する。その口元には、薄暗い喜悦が浮かびかけていた。
「その方が、見ず知らずの私に快く宿を貸してくださった。夕食までご馳走になりました。黒パンと、豆のスープと、干し肉……お世辞にも豪華とは言えない、質素なものです」
ギルバート卿はそこで言葉を区切り、小さく息を吐いた。
「まあ」とエルナ夫人の小さな呟き。それは明らかな同情を装った優越感の響き。
「食事が始まってしばらくした頃、彼女の夫が何かを言いました」
ギルバート卿の顔に、わずかな感情の色が浮かぶ。
「妻が吹き出しました。皺の刻まれた顔で、心底おかしそうに声を上げて笑ったのです。それからわざと大きな声で言い返し、夫がまた何かを言う。そしてまた、笑う」
華やかな夜会から、一切の物音が消え去っていく。貴族たちの顔から、期待していた結末とのズレに対する戸惑いが浮かび始めていた。
「私は思わず尋ねました。何がそんなに面白いのですか、と」
ギルバート卿は、卓の上の杯へ静かに視線を落とす。
「すると彼女は、涙が出るほど笑いながらこう答えた。『この人ったら、スープに塩の代わりに砂糖を入れたのに、美味しいって言い張るんですよ』と」
誰かが、ひっそりと息を呑む音がした。私の胸の奥がきゅっと締め付けられる。
「夫が照れ隠しにまた何かを言う。彼女がまた、幸せそうに笑う。……私は自分のスープを一口飲みました。確かに、酷く甘かった」
誰も、何も言わない。
「翌朝、別れ際に私は尋ねました。後悔したことはありませんか、と。あの華やかな王都での生活を、何不自由ない暮らしを捨てたことを」
彼は顔を上げ、夜会に集う貴族たちをゆっくりと見回した。
「その方は、迷いなくこう答えました」
ギルバート卿が、静かに口を開く。
『──私はとても幸せです。この人が私のすべてですから、他には何もいりません』
広間が、凍りついた。
ギルバート卿は、ドロテア伯爵夫人へ静かに視線を向ける。
「……彼女は、かつて夜会の華と呼ばれていた頃より、ずっと美しかった」
ドロテア伯爵夫人の顔からすっと血の気が引き、閉じた扇が震える手から滑り落ちそうになる。エルナ夫人は顔を青ざめさせ、そっと目を伏せた。
老侯爵ベルンハルトは唇を震わせ、若き男爵クロードは顔を真っ赤にして俯く。
誰も笑わない。
誰も、一言も発することができない。先ほどの冷酷な嘲笑は嘘のように消え失せ、広間は息の詰まるような静けさに包まれていた。
私は、まっすぐにギルバート卿の顔を見据えていた。胸の奥から熱いものがこみ上げ、視界が滲む。頬を伝う冷たい雫を指先で拭い、私はそっと席を立った。
硬直したままの貴族たちの間を抜け、誰にも気付かれないようにバルコニーへと足を踏み出す。
冷たい夜の風が、熱を持った頬を心地よく撫でていった。背後のガラス窓の向こうでは、いまだに誰も口を開くことができず、重い沈黙だけが澱のように沈殿している。
私は手すりに寄りかかり、大きく息を吸い込んだ。心臓がバクバクしている。胸の奥にまで入り込んでいた夜会の空気が、少しずつ浄化されていく気がした。
ふと見上げた夜空には、手が届きそうなほど無数の星が瞬いている。
愛とは何か。
あの息苦しい広間に、その問いに答えられる者はもう一人もいないだろう。
本当の答えは、遠い辺境の山小屋で──甘いスープを笑い合いながらすする二人の間に、とっくに宿っていたのだから。




