聖戦士と竜と地下迷宮(後)
当然現れた女性。混乱した。この人物はどうやってここまで? この奈落の淵最深部手前の縦穴へ……。
目の前に立つ女性――年の頃は十五歳前後か? 女性特有の愛らしさを残しつつも瞳は底知れぬ深さを持っていた。何より気になったのはその格好。白いローブと軽装の革鎧。肩から小さな鞄をかけている。まるで近所に買い物でも行くような軽装。一応、右手には片手剣を持っているが、その片手剣は……。
「あ、これ、あなたのよね。パーティーメンバーが回収してくれていたわよ。おかげであなたを見つけることができたわ」
何を言っているのかわからない。しかし間違いなく私の愛剣だ。炭化した右手では触れられないが、鍔の装飾は覚えている。私はかすかにうなずいた。
「【持ち主を見つける魔法】というのがあるのよ。よかったわね。この剣は、あなたのことを主と認めているみたい」
剣に意思があるとでも? まさかそんなこと……。そんなことが出来るのはまさしく魔法だ。魔法と言えば回復魔法か、魔具師が魔道具を使って発動する攻撃魔法のことをいう。しかし、本来は奇跡を起こす力を言うのだ。
「あ……あんたは……?」
掠れた声で尋ねる問いに、女性は軽く肩をすくめた。
「初めまして。私はアリシア。魔法屋『霧の魔女堂』の店主よ。依頼で来たの」
「魔法屋……」
魔法屋なんて聞いたこともない。困惑しながらもかすかな希望を抱いた。魔法。伝説に語られるもの。今もわずかに使い手がいるそうだが、見たことはない。魔法の使い手。この少女がその魔法使いなのか。
「とりあえず……こっち見せてちょうだい」
アリシアが私の焼け焦げた右半身に触れる。反射的に身を竦めたが、予想に反して痛みはなかった。むしろ氷の上を滑るような冷たい感触。
「ひどい火傷。さすがパラディンね。半身炭化しても意識を保っているなんて。普通ならショック死してるわ」
さらりと言うが……医療従事者であればもっと慌てるだろう。だがアリシアはまるで天気の話をするかのような口調だ。
「ここから生還できるの……か?」
「ま、できるわよ。でも……」
うーん。と首を傾げるアリシア。しばし考えこんでから、ふいに私を見据えた瞳が細くなる。
「約束して。これから目にすることは、すべて他言無用よ」
「え……?」
「それが条件。守れないなら助けないわ」
あまりに突拍子もない提案に息を飲む。しかし他に選択肢はない。命が掛かっているのだ。
「わかった。約束する」
「よろしい。もし誰かに話したら呪っちゃうから」
「魔女に呪われたくはないな……」
「冗談よ。そんな暇ないもの」
「暇があればするのか……」
くすくすと笑うアリシアは腰から小瓶を取り出した。鞄から小さな瓶を取り出した。淡い青色をした液体が入っている。
「ミーアに遊びで作らせた物を使うことになるとわね」
ミーアというのは彼女の弟子なんだろうか?遊びで作らせたというの引っかかるが。
「これは特別な薬。エリクサーって言えばわかりやすいかしら?」
「エリクサーだって!?」
驚きのあまり声が出た。伝説上の万能薬だ。数百年に一度、世界樹から落ちる雫がエリクサーの材料だと伝えられているが……。アリシアはけらけらと笑った。
「まあまあ。そこまで便利な万能薬じゃないわよ」
アリシアは小瓶の蓋を開けると乱暴に私の身体へと振りかけた。痛みを覚悟したが、焼け焦げた皮膚に触れた途端、まるで羽毛が舞い降りたような感覚が走った。激痛が引き潮のように退いていく。炭化した皮膚が柔らかく波打つように動き始め、見る間に再生していく。
「な……なにこれ……?」
「だから言ったでしょ。秘密よ」
再生した肌は眩しいほどの白色だった。ヴァンディアは自分の右手を見つめた。さっきまで炭と灰で覆われていた肌が瑞々しく蘇っている。ただ表面だけで内臓までは……。いや、体内の損傷すらも治療されている感覚があった。呼吸が楽になり、全身の重みが消えた。
「信じられない……」
「ふむ。思った以上に効果があったわ。やっぱあの子、錬金術師の才能があるかもしれないわ」
「あの子って……弟子か?」
アリシアは曖昧に肩をすくめた。
「さて。ここから出ましょうか」
そう言ってアリシアは剣を渡してくれた。再生された右手でしっかりと握ると心強い安心感が甦る。ヴァンディアは頷いた。だが地上に戻る方法などない。階段も見えない。迷宮の深部だ。しかもドラゴンが徘徊している。ドラゴンは狡猾だ。こちらが動いたら間違いなく襲ってくるだろう。
「脱出するにはドラゴンを倒さなければ……」
「倒さないわよ。必要ないもの」
あっさり答えるアリシアにヴァンディアは耳を疑った。
「必要ないって……」
「依頼はあなたを助け出すことでしょう? じゃあ倒さなくていいでしょ」
「だ、だが……」
ここから抜け出すには、ドラゴンを倒す必要があると思っていた。だがアリシアは首を振った。
「倒さなくても、やり過ごす方法はいろいろあるのよ。ただ……ダンジョンは転移系の魔法が使えないから不便なのよねー」
アリシアは「私一人だけならなんとでもなるんだけど」などと言いながら空中を指でなぞり始めた。そういえば彼女はいったいどうやってここまで来たのだろうか? アリシアが何をしているのかよくわからないが、不思議なことに周囲の空気が歪んだように感じる。奇妙な事が起きた。虚空に突如として六角形の紋様が浮かび上がったのだ。古代文字だろうか? まるで夜空に広がる星座図のように幾何学的な模様が次々と重なり合っていく。
「……《天を衝く渦》(ヴォルテクス・セレスティア)」
静かに唱えると同時に、突如として天井に大きな穴が開いた。まるで巨大なにかに削られたかのような円形の裂け目が現れたのだ。私は呆気に取られたまま目の前の光景を凝視した。
「うん、大丈夫そうね」
「な、なにをしたんだ?」
「ん?普通に【天井に穴を開ける魔法】を使ったのよ」
それは普通じゃないだろう……。ダンジョンは不思議な空間だ。壁はもちろん床だって破壊できないのだ。当然天井に穴を開けるなど聞いたこともない。
「行きましょうか。早くしないと閉じちゃうのよ」
アリシアは私を抱き寄せると再び呪文を唱えた。
「……《星の揺籃》(スターリー・クレイドル)」
アリシアが静かに唱えた瞬間、私たち二人を透明な泡のような膜が包み込んだ。その膜は周囲の闇を切り裂くように輝きながら浮上し始める。天井に穿たれた大穴を通過する時も抵抗感はない。そのまま上の階へと到達したところで膜がゆっくりと消滅した。
「大層な呪文だけど、これ【ゆっくりと浮かび上がる魔法】なのよね」
「そうなのか……」
「昔、この魔法を創った魔法使いは『雲の上から景色を眺めたい』って思ったのがきっかけらしいわ」
「魔法を創る……?そんな時代があったのか」
「1000年前くらいはみんな創ってたのよ。でもね。その魔法使いは高いところが怖くて結局自分では使えなかったんですって」
「なんだそりゃ」
「ま、そのおかげで私が使えるのだから感謝しなきゃね」
軽口を叩きつつも私は深い感銘を受けていた。魔法。歴史書や伝説の中でしか知り得なかった事象が今まさに目の前で展開されているのだ。
「よしよし、安全圏に行くまでこの方法で上がるわよ」
「あ、ああ……」
再び呪文を唱えるアリシアを前に私はぼんやりと考えた。彼女は何者なのだろうか。まるで伝説の中に住む本物の魔女のような存在だ。しかしあの無邪気な笑顔と軽い態度の乖離がとても印象的だった。
「さあ、どんどん行くわよ。しっかり掴まっててよね」
アリシアの軽やかな声に導かれながら、私たちは無言で上昇を続ける。アリシアという謎めいた人物と共にいると不思議な安心感があった。
(私の命の恩人だな)
胸に熱いものが込み上げてきた。パラディンとして、この借りは生涯かけて返さなければならない。しかし今はまず生き延びることが最優先だ。この人物についていけばきっと脱出できるだろう。
そして次に会うときには礼を言うべきだろう。そう心に決めながらも、まずは無事地上に出ることを考えることにした。
ーーー
奈落の淵から脱出してから10日間。私は王都の聖教会直属の治療院で生死を彷徨っていたらしい。記憶が曖昧なのは無理もない。地下迷宮を無事脱出したところで気絶。そのまま治療院に担ぎ込まれたらしい。
ダンジョン内でアリシアに貰った薬で見た目は治っていたが、ダメージは確実に私の中に残っていたようだ。
幸いにも教会の最高位司祭と、暁の閃光の回復術師マーヴィンが交代で祈りを捧げてくれたおかげで何とか持ち直した。目を覚ました時、最初に見たのは泣き腫らしたシルフィアの顔だった。次いでマーヴィンが安堵の表情を浮かべ、最後にドアの陰から覗くダグラスが腕を組んで頷いた。
「無事で良かった」
皆が口々にそう言った。仲間たちの存在がどれほど大切なものか改めて思い知らされた瞬間だった。
ーーー
退院して五日後。私は早速お礼のために『霧の魔女堂』へ向かうことにした。お土産に王都で評判の高級菓子「サングリアの桜蜜タルト」を買い求めた。『霧の魔女堂』は王都北東区。所謂下町と呼ばれている一角にあるとのことだった。
だが実際に辿り着いた場所は想像とは大きく異なっていた。教えられた住所には古びた一軒家がぽつんと佇んでいるのみ。怪しげな動物(?)が書いてある看板に申し訳程度に【霧の魔女堂】の文字が彫られている。商店というよりも民家といった風情だ。煤けた壁は塗装が剥げかけており、屋根には苔が生えている。煙突からは白い煙がゆらゆらと立ち上っていた。
(これが本当に魔法屋……?)
懐疑の念を抱きつつ扉をノックする。応答がない。ドアノブを回すと鍵はかかっていなかった。おそるおそる店内に足を踏み入れる。
カランカランカラン。ドアに付いていた鈴が軽やかな音を立てた。
「いらしゃぃま〜せ〜」
可愛らしい声とともに現れたのは小さな女の子だった。亜麻色の髪をお下げに編み込んだ五歳くらいの子ども。大きなブラウンの瞳がくりっとこちらを見上げている。鮮やかなエプロンドレスは明らかに彼女専用のサイズだ。
「えっと……アリシア殿はいらっしゃいますか?」
「アリシアお姉ちゃん?今留守だよ?」
女の子は首を傾げながら言った。可愛らしい子だ。アリシアの妹なんだろうか? 私は思わず微笑んだ。子供は苦手ではない。むしろ好きだ。
「ちょっとまってね!クロちゃん!!クロちゃん!!おっきゃくさんだよー」
「吾輩はアルカポウネだと何度も言っておろう!!」
突如として流暢な言葉が聞こえて私は飛び上がった。見るとカウンターの上に大きな黒猫が座っている。金色の瞳でこちらを見る猫は尻尾を振った。
「ふむ。魔法屋へようこそ。アリシアは今買い出しに出ておるよ。依頼であれば、ひとまず吾輩が聞くが……」
猫が喋っている……。現実離れした光景に思考が追いつかない。しかし黒猫はそんな私の混乱を楽しむかのように目を細めている。
「喋る猫が珍しいか。まあ使い魔も見なくなって久しいからな」
アルカポウネと名乗る黒猫は前足で器用に毛繕いを始めた。その仕草だけ見れば普通の猫だが……。
「まあ座れ。吾輩の尻尾が窮屈そうだ」
促されるまま椅子に腰掛ける。室内を見渡すと殺風景な部屋だ。商品らしいものはおいておらず、カウンターの奥に本が並んでいるのが、唯一お店らしいところだ。
「ミーアよ。お茶を淹れられるか?」
「だいじょうぶー!この前、教えてもらったもん。魔法薬作るより簡単だもん」
ミーア?私の命を救ってくれた薬を作った弟子の名前がミーアではなかったか?あんな小さな子が?疑問が渦巻く中、ミーアはニコニコしながらキッチンへ駆けていった。
「あ、あんなに小さい子が魔法薬が作れるんですか?」
「作れるぞ。何ならアリシアよりも上手いかもしれん」
黒猫が平然と答える。信じ難い情報の連続に私はただ呆然とするしかなかった。
「それで貴公は?」
金の瞳がじっと私を見つめる。鋭い眼光だ。値踏みされていると直感した。
「私はヴァンディアです。奈落の淵でアリシア殿に助けられました。命の恩人です」
黒猫は満足そうに頷いた。
「おお、お主があの緊急救出依頼のパラディンか。確かに噂通り立派な体躯だな」
そう言って前足で顎髭を整えるような仕草をする。不思議な感覚だ。人間と接しているのと変わらない。
「ただいまー。ミーア。お留守番ありがとねー」
明るい声と共に姿を現したのはアリシア本人だった。荷物袋を抱えた彼女は店内に入ってくるとすぐに私に気づいた。
「あれ?えっと……ヴァンディアさんだっけ?」
「お久しぶりです。先日は本当にありがとうございました」
私は立ち上がり深々と頭を下げた。アリシアは軽く手を振る。
「もう回復したんだ。よかったわ」
「おかげさまで……本当に感謝しています」
アリシアは相変わらず軽装だった。ローブと肩掛け鞄という簡素な服装。まるで近所の雑貨屋に買い物に行くような気軽さだ。いやいや、実際に近所に買い物に行ってきたのだろうから普通だ。ダンジョンの最下層にその姿で現れるのがおかしいだけだ。
「あ、お土産にタルトを持ってきました。どうぞ皆さんで」
差し出した箱を受け取りアリシアは嬉しそうに微笑んだ。
「あら?これ美味しいお店のじゃない!?わざわざありがとう。せっかくだしみんなでお茶にしましょうか。ミーアお茶淹れてくれる?」
「はーい!おまちくださーい!!」
私の膝丈ぐらいしかない小さな女の子がお盆を持って歩いてくる姿は何とも愛らしい。
「お湯の温度が重要なの!沸騰させすぎちゃダメなの!」
まるで何かの実験でもしているように真剣な表情で紅茶を準備するミーアに思わず笑みがこぼれる。
「クロちゃんも飲む?」
「猫にお茶を飲ますな!吾輩はミルクでよい」
「はーい」
ミーアは茶葉の袋を手慣れた様子で弄っている。見かけによらず手つきが落ち着いている。私が彼女を救った薬の製作者だと認識すると妙な感慨が湧いてきた。
「こんな小さな子があの魔法薬を?」
「そうそう。信じられないわよね」
「内緒よ」と言いながらもアリシアは苦笑いした。たしかにこんな子供があのレベルの薬を作れると知れたら、いろいろと面倒なことになるだろう。この子が危険にさらされる可能性もある。
ミーアは猫用のお皿にミルクを注ぐ。次に二人分のカップ、自分用の小さなマグがテーブルに並べると、慎重に紅茶を注いだ。それが終わるとミーアも席に着きフォークを握りしめて目を輝かせた。そして期待した目で、アリシアと私を交互に見る。
「どうぞ。お食べになって」
「やったー!いただきまーす!」
可愛らしい声に促されて私も紅茶に口をつけた。温かい飲み物が疲れた精神を和らげてくれる。そして今度はタルトを口に運ぶ。濃厚なクリームと甘酸っぱい桜蜜のハーモニーが広がる。
「おいしい~!!」
「あら。これは美味しいわね」
「吾輩には甘すぎるが……たまには良いか」
「猫にケーキは、大丈夫なのですか?」
「この子は悪魔だから大丈夫」
「あ、悪魔?」
そんな話をしながら食事が一段落したところで私は改めて向き直った。
「改めて。本当にありがとうございます」
「もう十分お礼はもらったわよ。報酬もちゃんと頂いたし」
「ですが……」
「いいのいいの。これ以上もらうと逆に迷惑しちゃうわよ」
アリシアは涼しい顔で言う。ギルドがいくらで依頼したかは聞いてないが、所詮はギルドだ。報酬が十分ではないことは察しがついた。
「そうね。私になにか困ったことがあったら助けてね」
アリシアは軽くウィンクしながら言った。私はその言葉に即座に応えた。
「もちろんです。あなたが危機に陥るとは想像できませんが……もし何かあれば必ず!」
「あらあら。大げさね」
彼女は小さく笑いながらミーアの頭を撫でた。ミーアはタルトの最後の一口を頬張りながら満面の笑みを浮かべていた。緩やかな空気が流れる。これが魔法屋『霧の魔女堂』か……。王都の喧騒から隔絶された隠れ家のような空間。窓から差し込む午後の陽光が埃を霧のようにキラキラと照らし出していた。
ーーー
その日もいつものように『霧の魔女堂』は閑散としていた。カウンターの上で丸くなりながら、吾輩は欠伸を噛み殺す。まあいつ寝てもいいのじゃがな。
カランカランカラン——
入り口のドアベルが軽やかに鳴った。扉がゆっくりと開き、杖を突いた小柄な老婆が姿を現す。腰は明らかに曲がっているものの、一歩ごとに床を踏みしめる足取りは意外としっかりとしている。店の入り口に立つと、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「失礼するよ」
その声は驚くほど澄んでいた。老婆の碧眼が店内を一瞥し、奥のカウンターに座るアリシアを捉えると、かすかに頬を緩めた。
「あら? お久しぶりね。随分老けたんじゃない」
アリシアがカウンターの向こうから姿を見せると、老婆の表情が柔らかくなった。
「まったく……お前さんは変わらんのぉ。羨ましいかぎりじゃわい」
吾輩は耳をぴんと立てた。このやりとりから察するに、相当古い知り合いらしい。アリシアが客に対してこうした砕けた口調を使うのも珍しい。
「腰は大丈夫? 椅子使う?」
「いらんわい。まだ自力で立てる。それにしても……」
老婆は店内を再び見渡す。
「相変わらずなんにも置いてない店じゃのう」
「いいのよ。ここは私の魔法の腕を売ってるんだから」
アリシアは力こぶしを作るように腕を上げるとポンポンと自分の腕を叩いた。すると老婆の唇に小さな笑みが浮かんだ。
「で?今日は何しに来たの?」
アリシアが尋ねた。老婆は一瞬黙り込み、そして背筋を伸ばした。皺くちゃの顔が急に引き締まる。
「礼を言いに来たんじゃよ。依頼成功の礼をな」
「ん?ああ、ギルドからの緊急依頼?」
「あの場所から生還させるなど並大抵のことではない。さすが魔女じゃな」
老婆が真摯な眼差しでアリシアを見つめる。
「ギルドからの公式依頼なんて何百年ぶりかに見たわ。あの印章まだ使ってたのね」
「私がおったら直接来たのだがなぁーちょっと出張しておってのぉー」
「その歳で元気ねぇ」
「まだまだ現役じゃ」
老婆は胸を張る。む、もしかして……。
「お主、もしかしてユリアナか?」
「なんじゃ、黙っていると思ったら気が付いてなかったのかい。アルや」
「婆になりすぎだわい。ギルド長になったとか聞いてたがまだ生きとったんかい」
吾輩が尋ねると、老婆――いやユリアナは吾輩を見てにやりと笑った。
「あんたはめっきり太ったんじゃないかい?」
「誰がデブ猫じゃ!」
「ふふふ……相変わらずじゃわい」
ミーアが「クロちゃん太ったの?」と問いかける。うぐ……否定できんのが辛いところじゃ。
「まあいいわ。それで?わざわざ感謝だけ言いに来たわけ?」
「わたしも歳じゃ。次があるかわからんからのぉ。あんたの顔を見に来たんじゃ」
「そう、ありがとう。私も会えて嬉しいわ」
アリシアの穏やかな声が響く。普段の軽薄な調子とは違い、心からの感謝が滲んでいるようじゃった。
「副ギルド長はまだ若いが、中々出来た奴じゃ。助けてやってくれ」
「私の所にまで話が来るなんて、そんな機会そうそうないんじゃない?」
「そうじゃな……あんたに頼るような事件が起こらなきゃいいがのぉー」
「まあ300年に一回くらいは手を貸すわよ」
ユリアナはため息混じりに笑い、その皺だらけの手で杖を握り直した。
「そろそろ帰るよ。年寄りは早く休まんといかん」
「待ってよ。お茶くらい飲んで行ってもいいのよ」
「いいや。家で孫が待っておるでの」
ユリアナは軽く頭を下げると、ドアに向かって歩き出した。その小さな背中がどこか寂しげに見えたが、彼女は振り返らずにゆっくりと店を出て行った。その姿はまるで夕暮れ時に溶けていく影のようじゃった。




