聖戦士と竜と地下迷宮(前)
王都中央にそびえる冒険者ギルド。その最上階にある執務室では、重い沈黙が続いていた。
「……やはり、最悪の事態だ」
ガレスは唸るように呟いた。机上の羊皮紙には、第三地下迷宮――通称「奈落の淵」からの緊急連絡が記されていた。B級パーティー「暁の閃光」のリーダー、ヴァンディアが孤立したという。現在到達している最下層目前の深部で、ドラゴンに急襲されたとのこと。ヴァンディアは殿を務め、仲間たちを逃がすのに成功したが、自身は取り残されたのだという。脱出した仲間たちの話では、ドラゴンが入り込めない狭い縦穴に逃げ込んだのを確認しており、生存している可能性は高いらしい。しかし問題はそのドラゴンだった。
「……フレイムドラゴンだと?」
「はい。脱出した者の話では鱗の色と炎の吐息から同種と判明しました。階級はB+相当。現在の救援隊では被害拡大の恐れがあります」
情報係の若い職員が報告を終えると深々と頭を下げた。ガレスは眉間に皺を寄せたまま腕を組む。フレイムドラゴンは成体ならA級相当の危険生物だ。単独のB級冒険者では太刀打ちできない。普通であれば死亡確認と片付けられても仕方がない案件だが……。ヴァンディアは優秀な冒険者だ。彼女の知識とスキルは失うには惜しく、なにより救助可能と推測される以上見捨てるのはギルドの沽券に関わる。
「……精鋭部隊でも難しいな」
奈落の淵はこの地方最大規模の迷宮で、最下層付近は地図も作成されていない未踏の領域。ましてやドラゴンなどという災害級の魔物が出現するとなると……。
S級・A級は形骸化しており、現在はB級冒険者が実質トップランクだ。暁の閃光はギルドでも数少ないA級相当のパーティーと評価されていた。それに匹敵するメンバーでないと、救出は難しいだろう。ガレスは深い溜息をついた。
「他に手はないのか」
せめてギルド長が居ればなにかよい案を出してくれたかもしれないが、彼女は今遠征中だ。副ギルド長である自分の判断が全てを決めることになる。胃のあたりが締め付けられるようだった。
……ガレスの脳裏に古い資料の記述が蘇った。
彼は古びた帳簿をパラパラと捲った。そこに記された特別枠――「非公式協力者リスト」。いくつかの項目を指で追いかけ、最後に一つの名前で止まった。「霧の魔女堂」。かつてのS級魔術師のエルフが営む魔法屋。過去に幾度となく困難な案件を解決したと記録に残っている。特に未確認領域の調査や厄介な呪詛解呪などで協力関係にあったようだ。
現代に生きる魔法使い。あらゆる魔法や呪術に精通し、空間操作すら可能だとか、引き受けた依頼は必ず解決したとある。
しかし、引退したのは200年も前のことなのだ。エルフは長寿だと聞くが、能力が衰えていない保証もない。それでも現在のギルド所属者では不可能な領域だ。
しばらく逡巡した後、ガレスは決断した。腰のホルダーから金の印璽を取り出し、空白の羊皮紙に押す。公文書としての体裁を整えると、手短に内容を記し封蝋をした。
「使いを出せ。王都北東区の『霧の魔女堂』へ向かわせろ」
職員は訝しげな顔をした。民間の個人事業主に正式な依頼書を出すのは異例中の異例だ。ギルド内部でも批判が出るかもしれない。だが使える手札はできるだけ切るべきだ。
ガレスは自ら封筒を差し出した。職員は神妙な面持ちで受け取り、深く一礼すると部屋を後にした。
執務室に再び沈黙が落ちる。窓の外では夕陽が西の空を茜色に染めていた。ガレスは重い気持ちで立ち上がると、本棚の一番下の引き出しを開けた。そこには埃を被った古い文献が並んでいる。『幻獣大全』『古代都市遺跡図録』……そしてその中に混じる『霧の魔女伝承』。
「霧の魔女か……」
そのページを開くと挿絵に描かれた金髪の妖艶な女性が微笑んでいる。過去の伝承をもとに記された書物だ。伝説と化した存在に託すしかないのか。
ガレスは窓越しに灰色の雲が垂れ込める王都の街並みを見下ろした。『霧の魔女』その名を冠する魔法屋が本当に機能しているかどうかは分からない。長い歳月は多くのものを変えてしまう。
……祈るような気持ちでガレスは天井を仰いだ。少なくとも何もしないで待つよりはいいはずだ。そしてこの選択が正しかったと証明されることを願いながら、再び机に向かうともう一度報告書へ目を通し始めた。
ーーー
暗がりの底で私は瞼を開けた。意識が覚醒するたびに全身を苛む灼熱の痛みが蘇る。半身を焼かれた痕跡が蠢いている。まるで生きている炎のようだ。右半身の皮膚は完全に炭化し剥がれ落ち、筋肉組織が露呈している。幸いにも魔力による自己治癒が辛うじて働いているが……限界は近い。神聖な騎士鎧は原型を留めぬほど歪み熔解しており、元来の白銀は焦げ茶色に変色していた。盾は……どこかに転がっているはずだ。
ここは奈落の淵最深部手前の隘路。仲間たちが逃げた先に続く細い縦穴。私はここで殿を務めた。仲間たちおそらく無事脱出しただろう。私はなんとかドラゴンの入り込めないこの場所へ潜り込んだのだ。それから既に数日が経過した。時間感覚も朧気だ……。
(ヴァン……ディア……)
かすかな声が聞こえた気がした。錯覚だ。もう誰もいない。声を出すのも億劫だ。備蓄していた糧食も三日前に尽きた。唯一残った携帯用の固形乾燥食糧二切れは大事に取ってある。残り物は貴重な生存希望そのものだ。水筒を手に取る。私が生きていられるのはこの水筒のおかげだ。魔力を消費することで少量だが常に清水が湧き出す便利な魔道具だ。一日数回喉を潤すだけで我慢している。
「……あと七日は持つか」
小さく呟く。正確には七日生き延びられるかどうかだ。傷の痛みは容赦なく思考を奪う。意識を失いそうになるたびに回復魔法を自分にかけるが、そのたびに魔力量も減っていく。いずれ魔力も底をつく。体力も失われる。無事な左手で喉仏の位置を探る。まだ脈はある。
この手足は炭化した部分を除けば、まだ動く。左腕を曲げて握り拳を作る。多少痺れが残るが力は入る。鎧が無い状態のほうが身軽と言えば身軽だ。だが問題は「ここから出られない」ことだ。数メートル先の大穴からは規則的な地響きと重たい足音が届く。フレイムドラゴンが徘徊しているのだ。
奴の炎のブレスでこの穴も焼き尽くされたのだろう。壁面には溶岩のように煮えたぎった岩が点在している。この穴に逃げ込む際、全身に炎を浴びた。聖騎士の称号を持つ私がこんなところで朽ち果てるのか……?
意識が再び朦朧としてくる。ふと、かつての日々が脳裏をよぎった。
八歳の私――当時はまだ名も無き少女だった。故郷は北の辺境にある小さな村。父は戦士で母は聖職者だった。厳しい修行の日々の中で、自分の中に二つの才能が芽生えたことを知る。一つは剣技。もう一つは治癒術。どちらも他人より突出した才能ではなかったが、組み合わせることで独自の道が拓けた。それが「聖騎士」への第一歩だった。
「女が前衛か?危険すぎる」
当初はそう嘲笑されたものだ。聖騎士は本来男女問わず敬意を集める称号。しかし女性が前線に立つのは稀だ。特に大盾を構えて敵の攻撃を受け止める盾役などほとんど例がない。それでも私は選んだ。盾の内側に仲間を守れるこのスタイルこそが自分の使命だと信じたのだ。
十二歳。王都の冒険者ギルドに登録した私は、単独行動を好んだ。当時はE級。人間不信で強がっていたのかもしれない。何度かパーティーに勧誘されたが拒み続けた。その孤独な戦いぶりが目に留まり、「暁の閃光」の初期メンバーに声をかけられた。
馬が合ったそういうしかない。
「お前みたいな奴を待ってたぜ」
屈強な斧使いのダグラスは豪快に笑った。エルフの弓使いシルフィアは「面白そうね」と眼鏡を押し上げた。回復術師マーヴィンは「理論的には理想的な布陣だ」と頷いた。こうして四人のチームが結成された。私がリーダーになったのは偶然だ。何のことはない。正式にパーティーをギルドに申請する際にリーダーを聞かれて、特に拘りのなかった私たちは、全員でくじ引きをし、私が当たりを引いたからだ。
しかし誰がリーダーになっても問題はなかっただろう。私が皆を率いていたわけではなく、自然と役割分担ができていたのだ。盾の私が敵の注意を引きつけ、シルフィアが弓で牽制。マーヴィンが魔法で補助し、ダグラスが必殺の一撃を与える。連携は完璧に近かった。私の回復と、マーヴィンの回復とで安定感は他のパーティーを圧倒した。
最初はC級だった我々は二年でB級へ昇格。さらに一年後にはギルドから「A級相当」と認定された。A級に昇級するには、国を揺るがすような事態への貢献が必要とされる。今の時代、そこまでの重大な案件がないのはある意味平和な証拠だ。
「暁の閃光」。夜明け前の最も暗い時間帯を照らす光。私がつけたこの名。常にギルドの依頼で最前線に立ち続けた。時にはA級相当の魔物を相手にすることもあったが、皆の結束力で乗り越えてきた。
そして今日――。
ここまでの回想をした瞬間、遠くから轟音が響いた。ドラゴンの足音だ。地響きが再び近づいてくる。咄嗟に右側の岩肌へ身を寄せる。この身動きひとつ取るだけで激痛が走る。焼け爛れた右半身が擦れただけで神経を逆撫でするような痛みを引き起こす。
(せめて不意打ちでなければ……)
フレイムドラゴンだとしても後れを取るつもりなど無い。しかしタイミングが悪かった。深部探索のために各々が全力を出していた時に、突然の奇襲。前衛の私が仲間たちを逃がすため殿に残ったのは当然の判断だった。
「ふっ……」
口元が歪んだ。笑ったつもりだが声にならない。過去の栄光と今の現実のギャップがあまりに大きい。それでも生きたい。またあの仲間たちと共に戦いたい。リーダーとして最後にこの地へ残った責任もある。私が皆を巻き込んでしまったようなものだ。
(ここで終わりか……)
脳裏に仲間たちの顔が浮かぶ。シルフィアの冷笑。マーヴィンのため息。ダグラスの豪快な笑い声。皆、無事脱出できただろうか。
(助けを求めたところで……)
助けなど期待できない。奈落の淵の最深部付近。下手に外部を呼び込めば二次被害を招く。そもそもB級相当のドラゴン相手にまともな救援など不可能に近い。
残りわずかな固形食糧二切れ。そして魔道具の水筒。傷の進行。魔力の枯渇。現実は厳しい。
だが――。
死ぬまで生きてやる!!最後まで生きることをやめてなんてやるものか!!!
つい弱気の海に沈みそうになる心を奮い立たせる。私が望んだのは最期まで冒険者として挑戦し続けることだ。安易な死を受け入れるほど腑抜けじゃない。左手で軋むほど強く岩肌を掴む。痛みで意識を保つ。生きる意志を燃やす。諦めたらそこで終わる。それは私が最も嫌うことだ。私は戦士であり、聖騎士だ。たとえ一人であろうと最後の最後まで足掻いてやる!
私がそう決意した瞬間だった。
突然、頭上で何かが動く気配。咄嗟に意識を集中させる。フレイムドラゴンにしてはあまりに微かな気配。違う。
見上げると、天井部分に極めて薄い霧が漂い始めていた。物理的な隙間など存在しないはずなのに霧が降りてくる。この世のものとは思えない幻想的な光景だった。
「幻術……?」
霧はゆっくりと凝縮し始め、やがて人型を形成した。それは透き通るような青白い光を纏った女性の姿だった。金色の髪が波打ちながら揺れている。
「見つけたわ」
薄紫色の霧が晴れると同時に、華奢な女性が忽然と現れたのだ。




