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下町の魔法屋『霧の魔女堂』  作者: あどん


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新米衛兵と地下の唸り声と風の調律

下町の路地裏から吹き抜ける夜風は、冷たいのにどこか粘っこい。

湿った石畳を撫でるように流れ、古い家屋の壁に溜まった匂いを、ゆっくりとかき混ぜていく。


衛兵見習いの僕――ニルスは、ランタンの頼りない光を揺らしながら巡回していた。

炎は風に煽られて細くなり、そのたびに影が伸びたり縮んだりする。

自分の影ですら、今は信用ならなかった。


王都の夜は、決して静寂に包まれているわけではない。

酒場から漏れる笑い声、酔客の怒鳴り声、遠くで響く馬蹄の音。

どれも聞き慣れた、日常の音だ。


――だが。


「……っ、まただ」


思わず足を止め、ランタンを持つ手に力が入る。


「……グオオォ……」


腹の底をゆっくりと揺らすような、低く、長い音。

風に乗って聞こえてくるその唸りは、どこからともなく、しかし確実に“地下”から響いていた。


最初に聞いた時は、心臓が止まりかけた。

全身の血が一気に逆流し、足の裏が地面に貼りついたように動かなかった。


まるで地の底で眠っていた太古の怪獣が目を覚まし、

巨大な喉を鳴らして、こちらの存在を確かめているかのような――そんな錯覚。


「絶対に……何か巨大な魔物が地下に潜んでいるんだ……!」


そう考えるたび、背筋がぞくりと冷える。

地下迷宮。

王都の下に広がる、未だ完全には調査されていない迷宮群。

古い文献では、街の真下にまで伸びているとも書かれていた。


その夜の巡回を終えると、僕はすぐに先輩の衛兵――ヴァルドさんに相談した。


詰所の木椅子にどっかり腰を下ろした先輩は、僕の話を聞くなり欠伸をひとつ。

まるで、子どもの怖い夢の話でも聞かされたかのような反応だった。


「ああ、それか」


興味なさそうに鼻を鳴らし、肩をすくめる。


「この時期になると、よく聞くんだよ。数年前は大騒ぎになったもんだが、結局何も起こりゃしない。街の『溜息』みたいなもんさ。気にするな」


溜息。

その言葉が、やけに軽く聞こえた。


先輩は笑っていたが、僕にはどうしても「溜息」には聞こえなかった。

あれはもっと――重くて、生々しくて、何かを訴えている音だ。


胸の奥が、ざわざわと波立つ。

理屈では「何も起きていない」と分かっていても、不安は理屈通りには消えてくれない。


困った。

どうしよう。


巡回路を歩きながら、何度も同じ考えが頭を巡る。

もし本当に魔物だったら?

もし、ある夜突然、地面を突き破って現れたら?


その時、不意に思い出したのだ。


――困ったことがあったら『霧の魔女堂』へ。

それが下町っ子の、古くからの合言葉だ。


今思えば、少し胡散臭い話にも聞こえる。

だが、それでも。


「……そうだ。アリシアさんに聞いてみよう」


迷いは、完全には消えなかった。

それでも、不安を抱えたまま歩き続けるよりは、誰かに話を聞いてもらいたかった。


僕の足は自然と、下町の奥――

あの、古びた一軒家へと向かっていた。


鈴の音が鳴る扉を、思い浮かべながら。


ーーー


「……変わってないな」


『霧の魔女堂』は、昔のままだった。


猫の看板が掲げられたその古びた一軒家は、僕が迷子になって泣きべそをかいていた子供の頃から、少しも変わっていない。

恐る恐るドアを開けると、懐かしい鈴の音が響いた。


「あら、いらっしゃい」


奥の椅子に腰掛けていたのは、昔とまったく変わらないアリシアさんだった。

長い金髪に翡翠色の瞳。十五歳くらいにしか見えないその姿は、時間という概念から完全に取り残されているようにさえ思える。


「ニルスくん? 随分と大きくなったわね」


微笑む彼女の表情に、僕の緊張は少しずつ解けていった。

床には、あのデブ猫――アルカポウネが丸くなって寝ている。


「アリシアさん、お久しぶりです。実は……相談がありまして」


僕は昨夜聞いた、あの不気味な唸り声のことを必死に話した。

魔物が潜んでいる可能性、先輩の反応、そして自分の不安。


アリシアさんは顎に手を当て、僕の話を遮らずに静かに聞いてくれた。


「ふうん。地下水路からの唸り声ね……」


彼女の瞳が、ほんの少し楽しげに光る。


「その音はいつから聞こえるの?」

「三日前からです」

「時間帯は?」

「いつも夜更け頃ですね」

「この時期だけ?」

「はい。今までは何も……」


僕が一つずつ答えるたび、彼女の唇が緩んでいく。


「……なるほどね」


そう言って、アリシアさんは立ち上がった。


「せっかくだから、見に行きましょうか」

「え、い、今からですか?」

「こういうのは、現場を見ないとね」


そう言って、彼女は軽やかな足取りで店を出た。


ーーー


僕が案内されたのは、下町の外縁にある地下水路の入り口だった。

鉄格子の奥から、湿った冷気が這い出している。


「ここかしらね」


確信めいた口調で呟くと、アリシアさんは通気口の前に立ち、翡翠色の瞳を閉じた。

指揮者のように、細い指先が宙を描く。


「……《翠嵐に眠る風の目覚め(ウィスパー・オブ・ゼピュロス)》」


歌うような旋律の呪文が響く。

空気が、わずかに震えた。


次の瞬間、何もないはずの路上に猛烈な突風が巻き起こり、通気口の奥へと吸い込まれていく。


「……グオオォ……!」


直後、地下水路の奥から、心臓を鷲掴みにするような唸り声が鮮明に響き渡った。


「やっぱりね」


アリシアさんは、涼しい顔で頷いた。


「地下水路の壁のどこかに、小さな亀裂か穴が開いているのよ」


耳を澄ませながら、彼女は続ける。


「今の季節に吹く強い風がここへ流れ込んで、奥へ抜ける時に共鳴して、こんな音を鳴らしているの」

「つまり……魔物の唸り声じゃなかったんですか?」

「そういうこと。自然が奏でる『音楽』とも言えるわね」


――なんだ。そうだったのか。


全身から力が抜けていく。

同時に、抱えていた不安が少し滑稽に思えて、頬が熱くなった。


「あー……よかった……」


肩の力が抜けると、アリシアさんは少し首を傾げた。


「でも放置しておくと、街の人たちを不安にさせる『音』のままね」


そして、にやりと笑う。

まるで新しい遊びを思いついた子供のような顔だった。


「……よし。ちょっとした『調律』をしてあげましょうか」


ーーー


吾輩――アルカポウネは、いつものようにカウンターの上でのんびりと伸びをしていた。

昼下がりの『霧の魔女堂』は静かで、外からは下町特有の生活音が、遠く水の底を揺らすように聞こえてくる。


「しかし、アリシアよ。あんな解決策で良かったのか?」


唐突に問いかけると、彼女は何事もなかったかのように湯を注ぎ、琥珀色の茶を用意していた。


「なにが?」


吾輩は鼻を鳴らし、尻尾をひとつ揺らす。


「ほれ。例の『怪獣の声騒動』じゃ。地下水路の突風が共鳴しておっただけのことを、魔道具で『軽やかな音楽』に変えてしまったらしいじゃないか」


下町では妙な噂が立ち始めている。

地面の奥から、風に乗って流れるような旋律が聞こえる、と。


アリシアは茶器を置きながら、楽しそうに微笑んだ。


「いいでしょ? あれならきっと怖くないわよ」


吾輩は目を細める。

確かに、腹の底に響くあの唸り声に比べれば、恐怖はずっと薄まっている。

だが、だからといって安心かと問われれば、話は別じゃ。


「どんな陽気な音楽でも、夜中に地面から急に鳴り出したら、それはそれで怖いんじゃないか?」


沈黙。


アリシアは、ぴたりと動きを止めた。

翡翠色の瞳が一度、二度と瞬き、ゆっくり斜め上へと向く。


「……うーん、そういうこともあるわね」

「おい!」

「まあ、いいじゃない。きっと下町の名物になるわよ」

「ならんわ!」


このエルフは、本当に時折こういう突拍子もないことをする。

人の恐怖も、噂も、時間が経てば面白い思い出になると、本気で信じておるのじゃ。


もっとも――。


吾輩は、少しだけ視線を伏せる。

かつて、怪獣の唸り声に怯え、意味も分からぬまま祈りを捧げていた人間たちを、吾輩は何度も見てきた。

正体を知れば、恐怖は霧のように薄れる。

それが音楽に変わるのなら、それもまた一興なのかもしれん。


「正体を知れば『怪獣』よりはマシ、か……」


だが、その代わりに生まれるのは、また別の噂だ。

――夜になると、地下から不思議な音楽が流れる街。

――霧の魔女が、こっそり何かを仕込んだのだとか。


まあ、どうせ放っておいても、人間たちは勝手に物語を作る。


吾輩はひとつため息を吐き、再び丸くなった。


「……やれやれじゃ。次は何の名物を生み出す気やら」


カウンターの向こうで、アリシアは何も知らない顔で微笑んでいる。


今日も『霧の魔女堂』は、平和――いや、平和“そう”である。

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