灯台守と光の剣と空の不思議(後)
日が沈み、岬の風が一段と冷たさを増す頃。
俺は、灯台の展望デッキに立っていた。昼間に太陽で温められた石壁も、今はすっかり体温を奪う存在になり、靴底越しに冷えが伝わってくる。
アリシアさんは、あのふてぶてしい黒猫を頭にのせて現れ、弟子のミーアはルナと呼ばれている銀色の子狐を連れてやってきた。
猫は相変わらず不機嫌そうに尻尾を揺らし、子狐は夜風に鼻をひくつかせながら、ミーアの足元をちょろちょろと回っている。
元漁師の俺でも身が縮むような夜風だ。
この風は、港で何度も味わってきた。沖に出る前、嫌な予感が胸の奥に沈んでいくときの風だ。
ミーアは過剰と思えるほどの防寒具に身を包んでいるのに対して、アリシアさんは薄いローブを羽織っただけで、楽しげに海を見下ろしている。その横顔は、寒さを忘れているというより、最初から寒さという概念が存在しないようにも見えた。
「……本当に、また出るんですかね」
自分でも驚くほど、声が低く、慎重になっていた。
灯台守になってからというもの、空や海の異変は俺の責任になる。昨日見た“あれ”を、ただの見間違いで済ませるには、俺はもう若くなかった。
「ええ、出るわよ。条件は揃っているもの。でも、ちょっとだけ『手助け』は必要かしらね」
アリシアさんは確信に満ちた声でそう言うと、おもむろに古い木製の杖を取り出した。
俺が知っている、魔石を組み込んだ無機質な魔道具とは違う。使い込まれ、表面は滑らかに削れ、ところどころに細かな傷が刻まれている。
漁師が長年使い続けた櫂や銛に、よく似た匂いがした。
彼女がそれを天にかざし、低く呟いた。
「――《天の調律》」
そして、彼女は囁いた。
それは言葉というより、どこか遠い場所から響いてくる「歌」のようだった。意味を理解するより先に、胸の奥が静かに震え出す。
『風よ、語れ。大気に揺蕩う精霊の囁きを聞け。
遠きものと近きものの狭間で、眠れる水滴を呼び醒ませ――』
アリシアさんの周囲が淡く光り輝くと、その輝きは薄く、波紋のように遠くへと広がっていく。
目に見えないはずの空気が、確かに“動いた”とわかる。
大気中の湿り気が一箇所に凝縮され、透明な波が空へと波及していく感覚。
それは、かつて海の上で、嵐が来る直前に肌で感じた、あの説明のつかない違和感に酷似していた。音はないのに、空気だけが低く唸っているような――そんな感覚だ。
「これ……魔法、なのか?」
思わず漏れた声は、夜風にすぐかき消された。
「『空気を震わせる魔法』よ。昔は雨乞いなんかに使われていたの。そこまで強力な効果があるわけじゃないけれど……」
彼女がそこまで言いかけた、その時だった。
「うわっ! すごーい!! 見て見て!!」
ミーアが展望デッキの柵に張り付いて声を上げる。
その声に弾かれたように、俺は反射的に空を見上げた。
夜空を真っ直ぐに貫く、何本もの白銀の光芒。
まるで闇を切り裂くかのように、天から地へと突き立てられた光の柱。
それは昨日と同じ、しかし昨日よりもはっきりとした輪郭を持って、そこに存在していた。
――聖なる巨剣の群れ。
そんな言葉が、自然と頭に浮かぶ。
灯台の光も、星の瞬きも霞むほどの圧倒的な存在感で、白銀の光は静かに屹立している。
「こ、これだ……。俺が見たのは、これだ!
アリシアさん、やっぱり魔法の仕業じゃないか!」
胸の奥がざわつく。
もしこれが災厄の兆しなら、俺はそれを見逃しかけていたことになる。
「いいえ、ローレンさん。魔法はほんの手助け。
これはね、空のうんと高いところにできた『氷の鏡』が、地上の明かりを反射しているだけなのよ」
「鏡……?」
聞き返す俺に、彼女は空を指差す。
「そう。上空に平らな氷の結晶が整列すると、そこが巨大な鏡の層になるの。
そして地上の灯火を、そっくりそのまま真上に映し出すのよ。
そうね……おそらく、ここから見えるのは王都の光。
あんなに遠い場所の輝きが、氷に反射して、ここまで届いているの」
俺は言葉を失った。
まさか、何日も航海しなければ辿り着けない王都の灯りが、空を介して、剣の形となって現れるなんて。
「災いの前触れでも、魔術の暴走でもないわ。
むしろ、空が見せてくれるご褒美のようなものよ」
そう言って微笑む彼女の翡翠色の瞳は、夜の闇の中でも不思議なほど透き通って見えた。
――知らないから、怖い。
確かにその通りだ。
あんなに不気味で、天の怒りのように思えた光が、正体を知った途端、この世界の広さを静かに語る、幻想的で美しい景色へと変わってしまったのだから。
俺は改めて、灯台の役目を思う。
闇を恐れる者のために、光を掲げること。
それは海だけじゃなく、空にも、そして人の心にも、必要なものなのかもしれない。
ーーー
「……やれやれ。たかが光の反射を『剣』だ何だと騒ぎ立てて。人間というやつは、どこまでも想像力が豊かというか、騒がしい生き物じゃな」
光の正体がわかった途端、あれほど怯えていた顔が、揃いも揃って「綺麗だ」「幻想的だ」などと言い出す。
知らなかった時は恐怖で、知った瞬間に感動か。
同じものを見ておきながら、心ひとつで評価が正反対にひっくり返る。まったく、都合の良い感性をしておる。
吾輩、アルカポウネはアリシアの頭の上で丸くなり、低く鼻を鳴らした。
もっとも、この高い場所から見る景色は、そう悪くはない。夜の海は静まり返り、灯台の光は規則正しく闇を切り裂いている。
空に突き刺さる白銀の柱は、暗い海を見守るには少々眩しすぎるがの。あれでは魚も落ち着かぬだろう。
「いいじゃない、アルカポウネ。知らないことは恐怖そのものなのよ」
アリシアが、はしゃぐミーアの頭を撫でながら答える。
その声には、いつもの柔らかさと、ほんの少しの真剣さが混じっていた。
「正体がわからないからこそ、そこに勝手な不吉を映し出してしまう。だからこそ、仕組みを知ることは大事なの。知ることは、心を穏やかにする魔法と同じなんだから」
人間向けの、実に分かりやすい理屈だ。
だが、それも一理ある。
得体の知れぬ闇より、名前の付いた闇の方が、まだ歩きやすいというものだ。
「ふん。だがアリシアよ。何でもかんでも種明かしをしてしまっては、世の中から神秘も不思議も消えてしまうぞ。知りすぎるのも、それはそれでつまらんものじゃ」
人は、理解した途端に安心し、安心した途端に飽きる。
だから少しくらい、分からぬままの余白があった方が、世界は長持ちする。
吾輩の言葉に、アリシアは「それもそうね」と小さく笑った。
否定も肯定もせず、ただ受け取る。ああいうところが、この魔女の食えぬところじゃ。
恐怖が驚きに変わり、驚きがこの世界への好奇心に変わる。
そうやって人間は、また一つ夜を越えていく。
やれやれ。この魔女の「仕事」は、いつも最後には賑やかな笑い話になってしまうようじゃな。
吾輩はもう一度だけ大きな欠伸をすると、夜空に突き刺さる光の剣を眺めながら、重い瞼を閉じることにした。
今夜も異常なし。
それで十分じゃ。
漁火光柱でお調べください。
追加分はここまでです。また何か思いついたら更新したいと思います。




