金庫番と心の影と招き猫
下町の商業組合に勤める金庫番、私、エルンはひどく疲弊していた。 それは、寝れば治るような肉体的な限界というより、魂が少しずつ削り取られていくような摩耗に近かった。最近では、帳簿の数字が砂の城のように音を立てて崩れ落ちる夢を見て、冷や汗をかきながら夜中に飛び起きることが日常茶飯事となっていた。
「数字は嘘をつかない。だが、数字を扱う人は嘘をつく……」
組合の中でも重要な立場を任されるようになった今、私のペン先一つで動く金の桁は跳ね上がった。それは名誉なことだったが、同時に逃げ場のない重圧でもあった。 休みの日でさえ、頭の中は帳簿の残像から離れない。 あの一行を見落としてはいなかったか。あの融資の判断は本当に正しかったのか。一度考え始めると、思考は終わりのない迷路へと迷い込んでいく。
ある休日、どんよりとした曇り空の下、気晴らしに街の外れを歩いていた私は、吸い寄せられるように一軒の古びた家の前で足を止めた。 『霧の魔女堂』。 古びた民家にしか見えないその店は、魔法屋と名乗ってはいるが、実際のところは街の便利屋のようなものだ。人々の悩みを聞き、解決できるものは解決し、できないことも、いつの間にか丸く収めてしまう……そんな不思議な噂が絶えない場所だった。
店先では、店主のアリシアさんが穏やかな表情で、枯れかけた鉢植えに水をやっていた。
「あら、お疲れのようですね。金庫番さん」
顔を上げた彼女の翡翠色の瞳に見通され、私は自嘲気味に微笑んだ。
「……ああ。アリシアさん、あんたの店に『心を強くする魔法薬』なんてものは置いてないかね」
「心を強く、ですか?」
「ああ。苦くてもいい、副作用があっても構わん。そんなものでもなきゃ、このまま数字の海に押し潰されてしまいそうなんだ」
もちろん、そんな都合のいい物があるはずがないことは百も承知だ。だが、そんな愚かな問いかけをせずにいられないほど、私の心は余裕を失っていた。
「とりあえず中へお入りください。おいしいお茶をご馳走しますから」
―――
アリシアさんに招き入れられ、私はいつものように店内の使い古されたソファに腰を下ろした。 煤けた壁は塗装が剥げかけ、棚には商品らしい商品も見当たらない。どこか懐かしく、ひっそりとした静寂が流れる店内。窓際では黒猫のアルカポウネが、退屈そうに太い尻尾を揺らしていた。
アリシアさんが淹れてくれた茶は、驚くほど喉に優しく、香りが鼻を抜けるだけで胸のつかえが少しずつ溶けていくような気がした。
「あんたも知ってると思うが、長いこと、この街の金庫番を務めてきたよ」
私は、茶碗から立ち上る湯気を見つめながら独白を始めた。
「帳簿の数字を追うことは、その裏にある誰かの一生を左右することでもある。私は常に公平に、正しいことをしてきたつもりだった。でも、判断を下すたびに、私の後ろには職を失った者や、破産した者の影が積み重なっていくようでね……」
「迷いは、ずっと付きまとうでしょうね。それが、あなたが誠実に仕事に向き合ってきたという証ですから」
「しかし、迷っていては決断が鈍る。正しいことを貫き通すには、私自身が折れないための『信念』が必要なんだが……」
「信念ですか。時には、心の中にあるものを、目に見える『形』にして手元に置くのが良いかもしれませんね」
そう言って、アリシアさんは店の奥の棚から、手のひらに乗るほどの小さな像を取り出した。 それは、白い陶器で作られた猫の像だった。丸みを帯びた胴体に、愛嬌のある表情。だが、右の前脚だけが不自然に、手招きするように持ち上げられている。
「これは?」
「『招き猫』と言います。はるか東方の国で、幸運や良き縁を招き寄せると言われている縁起物だそうですよ」
「縁起物……か」
「ええ。商売繁盛、そして心の平安。きっと、これがあなたの心を支えてくれますよ」
アリシアさんは、慈しむような柔らかい笑みを浮かべた。
「……ただの置物じゃないか。これが本当に、私を救ってくれると?」
「信じれば、力になります。金貨一枚でいかがかしら」
値段は金貨一枚。決して安くはないが、払えない額でもない。 本来の私なら、こうした「実用のない支出」を真っ先に切り捨てるだろう。しかし、アリシアさんの深く澄んだ翡翠色の瞳に見つめられていると、不思議と財布の紐が緩んだ。
「よし買おう。……こいつを貰おうか」
金貨を一枚、カウンターに置く。重みのあるその硬貨と引き換えに、私は白い猫を受け取った。この像を仕事机の端に置けば、今夜こそは、あの帳簿が崩れる悪夢を見ずに眠れるような気がしたのだ。
―――
それから数日後。
「……聞いたか? 商業組合で大きな不正が発覚したそうじゃ」
吾輩、アルカポウネはカウンターの上で入念に毛繕いをしながら、アリシアに告げた。 なんでも、あの疲れ切っていた金庫番――エルンが、長年組織に巣食っていた幹部たちの不正を告発したらしい。自らの地位を危うくしかねない、勇気のいる行動じゃったが、証拠を突きつける奴の顔つきは見違えるほど毅然としておったという。
「ええ、街はその噂でもちきりね」
「ふん。結局、あの招き猫とやらは、別に魔法の力が宿った品というわけじゃなかったんじゃろ?」
アリシアは楽しそうに、棚の隙間の埃を払いながら答えた。
「そうね。ただの焼き物よ。でも、人間は時として、何かに縋らなければ、自分を信じて一歩を踏み出すことさえできない時があるのよ」
やれやれ。人間とは、つくづく厄介な生き物じゃのう。
「しかしアリシアよ。金貨一枚でよかったのか?」
「なにが?」
「あの招き猫じゃ。たかが置物とはいえ、はるばる東方の国から流れ着いた一点物。実際に手に入れようと思えば、金貨一枚どころでは済まないじゃろう」
「そうね。はるか東の果てまで行かなきゃ手に入らない希少品だもの」
「まったく。もっとその辺にある石ころでも何でもよかったじゃろうに。なぜ、あんな珍しい猫を奴に選んだのじゃ」
「商売繁盛の縁起物だもの。組合を守ろうとするエルンさんには、ぴったりだと思ったのよ。それに……」
アリシアは、吾輩の丸い頭を優しく撫でて笑った。
「うちには、本物の招き猫がいるから、猫の置物はいらないでしょ?」
吾輩は「ふん」と鼻を鳴らし、居心地の良い場所を探して目を閉じた。
人間というやつは、拠り所を失ってから本当に壊れるものじゃ。……だが、たとえその拠り所がアリシアのついた『嘘』であったとしても、それを足場にして自ら立ち上がれるのも人間か。
あの男、もう悪夢にうなされることはないじゃろうよ。
窓の外では、見習いのミーアが庭でルナを追いかけて笑い声を上げている。 その賑やかな日常の音を聞きながら、吾輩は再び、深い眠りへと落ちることにした。




