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下町の魔法屋『霧の魔女堂』  作者: あどん


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令嬢と病魔と魔女の癒し(後)

翌朝、目覚めると身体が軽かった。足首の腫れはまだ引いていないものの、これまでの激痛は嘘のように薄らいでいる。窓から射し込む陽光が心地よく頬を撫でた。


「おはようございます。調子はどうですか?」

「昨日より全然いいです。こんなに安らいだのは久しぶりです」


「ご飯にしましょう」と言われダイニングに案内されると、テーブルには彩り豊かな料理が並べられていた。野菜を中心とした品々。パンとフルーツサラダ、卵スープ。そして、見たこともない紫の豆を使った煮物。


「こちらが本日の朝食です。少しずつ食べてくださいね」

「ありがとうございます」


一口運ぶと驚くほど美味しかった。香辛料は控えめながら旨味がしっかりと活かされ、素材の味を最大限に引き出している。普段食べていた豪華な料理より、はるかに上質で滋味深い。胃が拒否反応を示すことなく、素直に受け入れてくれる。


「とても美味しいです……」

「よかったです。明日はもっとたくさん召し上がってくださいね」


彼女は嬉しそうに微笑む。そこで違和感に気づいた。食欲があることに。ここ数か月、食欲など微塵も湧かなかったはずなのに、一口食べるごとに身体が喜んでいるのを感じる。


「不思議ですね。私……お腹が空いているなんて、久しぶりです」

「それが正常な反応です。毒を排出する過程で、肉体はエネルギーを欲しますから」

「毒……私は毒でも盛られていたのですか?」

「そうですね。ある意味、毒と言えるかもしれません。ただ、人の身体というのは不思議なもので、普通に食べられている物でも、体質によっては毒になってしまうこともあるのです」


魔法薬と併用して食事療法を行えば完治できると言われたときは半信半疑だった。けれど実際に味わった今では納得してしまう。こんなに身体が喜んでいる料理は、生まれて初めてかもしれない。


昼過ぎになると、足の痛みがまた増してきた。朝方の回復は幻だったのかと思うほどの痛み。しかしアリシアは落ち着いた様子で診察を続けた。


「毒性が排出される過程で、一時的に炎症が強くなります。心配はありません」


彼女は新たな魔法薬を取り出した。


「これはこの間のような即効性はありませんが、数時間かけてじっくり効くタイプです。ゆっくり飲んでください」


慎重に飲むと強い刺激があった。すぐに効くわけではないが、徐々に痛みが引いていく。夕刻にはかなり楽になっていた。


夕食も同じく、栄養バランスの取れた健康的なメニューだった。穀物粥を中心に、鶏肉や魚介を少量ずつ使った品々。朝より量が増えたことで満腹感を得られるようになっている。久しぶりに感じる満足感。心も満たされていく。


夜になると、アリシアは再び【気持ちよく寝られる魔法】をかけてくれた。眠りにつくのが、これほど安らかだったのはいつ以来だろうか。


翌朝目覚めると、また一段と体調が良くなっていた。腫れは少し引き、痛みも軽減している。ベッドからすぐに起き上がることができたのは、何日ぶりだろう。


数日が経過すると、立って歩ける時間が増えてきた。窓から差し込む日差しを浴びながら深呼吸ができる喜び。草木の香りや鳥のさえずりに心が躍る。長い間、忘れていた感覚。


ある日、ミーアが森へ連れ出してくれた。杖をつきながらゆっくりと歩くが、それさえも新鮮な喜びだった。茂みを抜けると、開けた空間に小川が流れていた。水面は澄み渡り、魚たちが自由に泳いでいる。


「綺麗……」

「ね! ここが一番のお気に入りなんだよ!」


ミーアが手を伸ばし、一緒に石を投げると水飛沫が弧を描いた。屈託のない笑顔に胸が温かくなる。誰かと一緒に遊ぶなんて、何年ぶりだろう。


昼食後、再び歩行訓練を行うと、昨日よりさらに遠くまで行くことができた。自分のペースで進むことができる喜び。杖に頼らず、自力で歩ける距離が増えている実感。


夕方になると、アリシアが特製のマッサージオイルを塗り始めた。


「毒を排出する過程で、リンパや筋肉に負担がかかります。適切なマッサージで流れを整えましょう」


温かい油が肌をすべるたびに、緊張がほどけていく。彼女の指先は正確で無駄がない。疲労が解れ、自然と吐息が漏れた。


一週間が経過する頃には、驚くほど体調が改善していた。痛みはほとんど感じなくなり、歩行も安定。体重も若干増えたらしい。顔色が戻り始めたことで、アリシアたちの表情も明るく変わる。


ある朝のこと。突然、アリシアの表情が厳しくなった。魔法の力で体内の変化を捉えたようだった。


「どうされました?」

「毒の排出が一気に加速しているようです。これから一時的に症状が悪化する可能性があります」

「えっ!?」

「ただし、恐れることはありません。この峠を越えれば、最後の大波を超えたことになります」


その日、午後になると再び足首が熱を帯び始めた。腫れが一気に膨れ上がり、激痛が走る。息を殺して耐える私を、アリシアとミーアは懸命に支えてくれた。


「頑張ってください。あと少しです」

「セレナお姉ちゃん! もう少しで治るよ!」


その夜は特に辛かった。痛みで何度も目が覚める。しかし二人は交代で付き添い、励ましてくれる。アリシアは【気持ちよく寝られる魔法】を使い、ミーアは手を握ってくれた。その温もりが唯一の救いだった。


朝方に痛みがピークを迎え、その後、急激に引いていった。まるで山を越えた後の平野のように穏やかな気持ち。視界がクリアになり、思考も冴えわたる。足首の腫れも嘘のように小さくなっていた。


「成功です」

「本当に……治ったんですね」

「はい。毒はほとんど排出されました」


彼女の眼差しは、優しく真摯だった。


「明日からは、徐々に運動量を増やしていきましょう。体力を戻す必要がありますからね」

「ありがとうございます。すべて、アリシアさんとミーアのおかげです」


涙が溢れそうになるのを堪えながら、感謝の言葉を告げる。二人は照れ臭そうに笑ってくれた。


ーーー


吾輩――魔界大公爵アルカポウネは、カウンターの上で欠伸をひとつ。午後の日差しが煤けた窓ガラスを通して、温もりを運んでくる。魔女堂の中は埃っぽい匂いと薬草の香りが入り混じり、いつもの静けさに包まれていた。


「それで? 例のセレナという女はどうなったのだ?」


吾輩が訊ねると、アリシアは淹れ立ての紅茶をカップに注ぎながら答えた。


「今朝方、ウィリアム様からお礼状が届いたわ。セレナ様はすっかり回復され、予定通り挙式されるそうよ」

「ふん、そうか。結局、貴族の娘は快癒したというわけだな」


ミーアが跳ねるようにやってきて、嬉しそうに報告する。


「すごく喜んでたんだって! お屋敷に帰ったら、みんな大喜びだったって!」


吾輩はソファから前足を垂らし、尻尾を緩慢に揺らす。


「しかし、あれは要するに『贅沢病』というものじゃろ。美食と甘やかしを享受した結果が、痛みとなって跳ね返っただけではないか」

「ぜいたくびょう?」


ミーアが小首を傾げる。


「そうじゃ。食べ過ぎ、飲み過ぎで体が悲鳴を上げたのじゃな」


アリシアが紅茶を啜りながら首を傾げた。


「贅沢病? そうかしらね……あなたも分かっているでしょう? セレナ様の場合は、ちょっと違うって」


吾輩は鼻を鳴らす。まあ、たしかにな。大概において贅沢病の人間は、豚のように肥え太っているものだが、あの娘はむしろ骸骨のごとく痩せこけていた。偏食というわけでもなく、こちらが出した料理を美味しそうに食べていた。酒が好きというわけでもなかった。


「彼女の場合……本当の原因は、心身の負担と孤独だったのではないかしら」

「なんじゃと?」

「自分が苦しむことで、周囲が迷惑を被っていると思い込んでいたのよ。無理に外へ連れ出そうとする父親。同情するだけの侍女たち。そして何より……」


アリシアはカップを置き、翡翠色の瞳を細めた。


「愛する人に負担をかけていると考えたからこそ、精神が追い詰められていったのね」

「ふん。自己憐憫を拗らせた、単なる甘えではないか?」

「否定はしないわ。でも、愛されることへの罪悪感から逃れる術がなくて、苦しむ心情もあるのよ」


吾輩は苛立ちに耳をピクリと動かす。


「だが、ウィリアムという男は、その心情を汲み取ったからこそ助けを求めたのであろう」

「そうね。彼はセレナ様のために、毎日手紙を送っていたし、献身的だったわ」

「くだらん。貴族の政略結婚に過ぎんのじゃろ?」

「それでも、愛はあるわよ」


アリシアは肩を竦めた。吾輩は、ぷいと顔を背ける。まったく、人間の感情という奴は実に厄介だ。


「……だが」

「ん?」

「まあ、その婚約者殿には褒美を与えてやってもいいかもしれんな。伯爵家の財産目当てなら、話は別だが」


アリシアがくすりと笑う。


「あなたって、本当に素直じゃないわね」


吾輩は尻尾をピンと立てた。


「うるさいぞ、小娘め! 吾輩は大悪魔であるぞ!」


その時、ルナが毛並みを膨らませて擦り寄ってきた。銀色の毛が陽光に煌めいている。


「まあいい。いずれにせよ、セレナは救われたのだ。それ以上詮索しても意味はないわい」

「そうね。それで十分」


ミーアが吾輩の背中に乗って跳ねる。


「ねぇねぇ! じゃあセレナお姉ちゃんは、幸せになれるんだよね!」

「ええ、きっとそうよ」

「えへへ! よかったぁ!」


吾輩は、ふと天井を見上げた。狭い店内に漂うのは、いつもの埃と薬草の匂い。それに混じる甘い幸福感は、一体誰のものなのか。


「所詮、病気の正体など、誰にもわからんもんじゃよ」


呟きながら、ゆっくりと目を閉じる。遠くで鐘の音が聞こえた。貴族街で鳴る婚礼の鐘だろうか。あるいは、単なる幻聴かもしれない。


吾輩は欠伸をひとつして丸くなった。皮肉屋の悪魔にとって、これ以上の干渉は野暮というものだ。

また思いついたら投稿します。

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