令嬢と病魔と魔女の癒し(前)
足首に走る、灼熱の針が刺さるような痛みで目が覚めた。昨夜から続く激痛は、深夜になってさらに酷くなっている。関節は腫れ上がり、触れると火傷を負ったような熱を持っていた。シーツに触れるだけで、悲鳴を上げそうになる。
唇を噛みしめ、枕に顔を埋める。皮膚は紫に変色し、熱を帯びて膨れ上がっていた。額には脂汗が滲み、涙が止めどなく溢れる。
いつからこうなってしまったのだろうか。最初は鈍い違和感から始まった。歩くたびに違和感が募り、ある日突然、腫れが出て立つことさえ困難になった。痛みで夜も眠れず、食欲も失せた。顔色は青ざめ、痩せた身体はドレスに余裕を持たせ始めた。
母は神経痛だろうと言い医者を呼んだが、鎮痛剤を与えられただけで効果は乏しかった。父は「嫁入り前の大事な時期に」と、無理をして舞踏会へ連れて行こうとする。伯爵家の体面のためだ。
けれど私は、もう踊れない。立っていられない。痛みを訴えても「甘ったれた娘」と叱責されるだけだった。
医者は「安静にするように」と繰り返すだけ。原因不明のまま症状は進行し、今では痛みに泣き叫ぶ日々。使用人たちさえ、私を憐れむ目で見るようになった。
寝台でひとり震えながら、痛みに耐えるしかない。医者も、貴族社会も、私を救えない。家族さえ……。
絶望に意識が遠のきかけたとき、不意に空気が変わった。
香のような独特の匂いが漂う。甘くも爽やかな香気。気づけば室内に白い靄がかかっていた。靄の向こうに、小さな人影が浮かび上がる。
「お邪魔します」
鈴を転がすような声。靄が晴れると、十五歳くらいの少女が立っていた。金色の髪が朝日のように輝き、翡翠色の瞳が静かに私を見つめている。淡い翠のローブは簡素だが、高級な素材であることがわかる。
「あなたは……?」
「はじめまして。アリシアと申します。『霧の魔女堂』の店主を務めております」
魔女? これは夢? 痛みで幻覚でも見ているのだろうか。
「ウィリアム・リッチモンド様にお願いされて来ました」
「ウィリアム様に……」
痛みの中、か細い声で私は答えた。婚約者、ウィリアム・リッチモンド。あの栗色の髪と琥珀色の瞳を持つ青年の姿が脳裏に浮かぶ。優しく温かい手で、私の額に触れた感触を覚えている。
もう彼に触れてもらうことさえ、できないのか――。
「ウィリアム様は、とてもお優しい方でした。私の誕生日には必ず、手作りのアクセサリーを贈ってくださいました」
声が掠れる。
「でも私がこんな姿では……もう、お会いすることすらできません」
アリシアの翡翠色の瞳が、微かに揺れた。
「そう悲観するものではありませんよ。この痛みの根源は、体内に蓄積した古い毒素です。適切な処置で、必ず回復できます」
彼女は、シーツをそっと持ち上げた。紫に腫れた右足首を見て、一瞬、息を飲む。
「ウィリアム様が泣いておられました」
「え?」
「私に直接お会いになり、頭を下げて『どうか彼女を救ってくれ』と」
貴族が平民に頭を下げるなんて。ましてや、私のような病弱令嬢のために……。
胸の奥が熱くなる。痛みすら霞むほどの、安堵と喜び。
「それほど、お慕いされていますよ。セレナ様」
「ウィリアム様……」
彼女は小さな小瓶を取り出し、ベッドサイドに置いた。乳白色の液体が、微かに濁り、光を放っている。
「これは一時的に痛みを和らげる魔法薬です。これを飲んで、『霧の魔女堂』に行きましょうか」
「霧の魔女堂?」
「ここでは満足な処置ができません。私の工房にお越しいただければ、最善の方法で治療できます」
「でも……私は痛みで歩けません」
「それは心配ありません」
彼女は薬瓶を手渡しながら、優雅に微笑んだ。その仕草は、まるで女神のように穏やかだ。
「私は魔法使い。あなたをここから連れ出すなど、容易いことなのですよ」
「魔法……?」
疑う気持ちより、期待が勝る。この地獄のような苦しみから解放されるのなら……。
「……お願いします。私を治してください」
アリシアは満足げに頷き、小瓶を開けた。一口含むと、氷の結晶が弾けるような刺激が舌を走り、喉を通っていく。一瞬、激しい疼きが襲ったが、次の瞬間、急速に引いていく。足の熱が消え、痛みが軽減していくのがわかる。
「即効性がありますが、数時間しか持ちません。早速、参りましょう」
「え?」
彼女が何かを呟くと、魔法陣が現れ、私の身体を包んだ。眩い光に包まれた瞬間――。
私は、小さな庭にいた。目の前には、大きな黒い猫。
「やれやれ、そやつがセレナとやらか」
私の目が点になる。え? 猫が、喋ってる?
いつの間にか、すぐ傍にいたアリシアが笑って説明した。
「彼はアルカポウネ。私の使い魔です」
「ふむ、吾輩はアルカポウネ。魔界大公爵にも数えられた大悪魔ぞ」
「今はただの猫だけどね」
ふわりと浮かぶ黒猫は、尻尾を優雅に揺らしながら、金の瞳でこちらを見つめている。
「さあ、セレナ様。薬が効いているうちに、お風呂に入りましょう」
「お風呂? お風呂があるのですか?」
「はい、細やかながら備えております。まずは汚れを落としましょうか」
アリシアに促され浴室へ向かうと、そこには幼女が待っていた。
「アリシアお姉ちゃん! 準備できたよ!」
「この子はミーア。魔法使い見習いです」
「こんにちは! ミーアです!」
五歳にしては、しっかりしている。幼いのに、魔法を使えるらしい。
「セレナ様をお世話していいんだよね!?」
「ええ。お願いしますね」
ミーアは満面の笑みで駆け寄り、私の手を取った。その体温は、少し熱いくらいに暖かい。
「痛いの? 我慢してね!」
「あ……ありがとう」
「早く良くなるといいね!」
小柄な身体で精一杯の力添えをするミーアに、胸が熱くなる。
誰かに大切にされることを、久しく忘れていた気がした。
伯爵邸のものに比べれば、たしかに小さいが、十分に贅沢な湯舟が用意されていた。ミーアに支えられながら、ゆっくりと身体を沈める。湯気とともに、薬草の香りが広がる。お湯は温かく、疲れた肢体を解していくようだった。
「疲れたら教えてくださいね。髪も洗いましょう」
アリシアが微笑みながら、泡を立てていく。甘く清々しい香りの石鹸は、肌を傷めることなく、優しく垢を落としていく。
垢を落とすたびに、身体が軽くなる感覚。温かい湯が血流を促すのか、足の痛みがさらに和らいでいく。アリシアの手は繊細で柔らかい。
湯に浸かりながら、全身の硬直が緩んでいく。久しく感じなかった、安らぎ。
「痛みはありますか?」
「少しだけ……でも、大丈夫です」
「まだ薬が効いていますね。よかった」
湯船の中で深呼吸すると、溜まっていた澱が溶け出すような開放感が広がる。濡れた金髪が首筋に張り付く。
視界に映る自分の腕は、こんなにも細かったのか。骨ばった指、蒼白い肌。鏡に映る自分は、病人そのものだった。
「セレナ様は、昔からとても美しかったんですよね」
「え?」
「ウィリアム様が、いつもお話ししてくれます。月光のような髪と、雪のような肌。控えめで可憐な笑顔に、一目惚れしたって」
彼が、そんなふうに思ってくれていたなんて。
心臓が大きく波打つのを感じる。同時に、罪悪感が胸を刺す。
もう、あの頃の私ではない。痩せ衰え、病に蝕まれた姿など、彼に見せられない。
「でも……今の私は」
「いいえ」
アリシアの手が、そっと私の手を握った。温かい。
「あなたは、これから変わるのです。もっと健康で、美しい自分を取り戻せます」
その確信に満ちた声音に、胸の奥で固まっていた氷が溶け出すのを感じた。
「はい……そうですよね。私、変わりたいです」
浴室を出ると、ミーアがタオルを持ってきて、丁寧に拭いてくれる。その温もりが染み渡り、涙が零れそうになる。こんなにも慈しまれたのは、久しぶりだった。
入浴後、用意された部屋には、すでに新しい衣服が置かれていた。部屋着のようなシンプルな衣服は、身体を締め付けないよう、緩やかに作られている。袖を通すと、シルクのような肌触りで、身体を優しく包み込んだ。
「今日は、ゆっくりお休みください」
ベッドに横たわると、アリシアとミーアが微笑んだ。外はすでに闇に包まれている。
しかし――痛みが、再び襲ってくる。薬が切れてきたのだろうか。
「っ……!」
堪えようとしても、身体が硬直する。両膝を抱え、必死に耐えるが、激痛は容赦なく襲ってくる。足首を庇うように丸まっても、灼けるような苦しさからは逃れられない。
「大丈夫です、セレナ様。手を握って」
アリシアが、そっと手を重ねてくれた。その掌は、不思議と熱を持ち、脈動するようだった。
掌から、温かい光が流れ込んでくる。
「さあ、息を吐いて。吐いて、吐いて」
ゆっくりと呼吸を整えるうち、不思議と痛みが和らいでくる。
彼女の掌の温もりが、血管を介して全身に巡る感覚。
やがて、アリシアが静かに呪文を紡ぎ始めると、室内の空気が、わずかに変わった。
「……《夢幻の岸辺》(ドリーミング・ショア)」
その詠唱とともに、部屋の四隅から、ゆらめく光の粒子が湧き上がる。蛍火のように、優しく青みがかった緑の粒子が、螺旋状に舞い上がる。
「【気持ちよく寝られる魔法】です。ゆっくり、お休みください」
光の粒子が、私の周りを取り巻き、薄い幕を作り始める。全身が羽毛で包まれたような、心地よい浮遊感。
足の痛みは残るものの、徐々に和らいでいく。
「ありがとうございます……」
瞼が、重くなる。視界が霞む中で、二人の微笑みだけが、ぼんやりと残る。
眠りに落ちる寸前まで、優しい歌声が聞こえてきていた。
――まるで大海原に浮かぶ小舟のように――
――微笑みを抱きしめるような温もりとともに――
――夜空を彩る星々の群れが、彼女の夢へと馴染んで――




