孤児院と過去と魔女の記憶
孤児院「聖母の揺籃」の外観は、時代を経た風格と痛みが共存していた。壁は灰色に煤けており、かつて白く塗られた漆喰は雨風に晒され無惨に剥げ落ちている。屋根瓦の一部は苔むし、その下を支える梁も湿気を吸って黒ずんでいた。開け放たれた正面玄関から覗く内部もまた長い歴史の痕跡が刻まれている。床板は歩くたびに軋み、天井の梁は蜘蛛の巣に覆われていた。唯一の救いは四角いステンドグラス窓から差し込む淡い光のみで、室内を幻想的に照らしていた。
しかし今日は違う。門前に停まった大きな荷馬車と飛び交う工具の音が、この聖域に新たな活気を与えていた。雇った職人らが力強く槌を振り下ろし、割れた石畳を斫る。黒と赤に塗られた荷台は新品の木材と材料でぎっしりだった。
教会の裏庭には仮設の安全柵が張られていた。砂利道を挟んで職人らが脚立を組み、壁の漆喰補修作業が始まっている。足場の上で作業着姿の大男が叫ぶ。
「シスター!木材運んできましたぜ!」
「ありがとうございます。そこに積んどいて下さいな」
私―シスター・クレア―は中庭に積まれた木材の山を見やりながら溜息をつく。六十年前、母が創設したこの孤児院も、年月の重みには抗えなかったのだ。
「シスター、これで足りそうですか?」
黒髪の壮年の職人さんが図面を広げながら近づいてきた。補修工事の見積もり書には膨大な数字が踊っていたが、幸い王家からの支援と「匿名」での多額の寄付が寄せられたのだ。都合よく。
「ありがとうございます。必要な分はすべてお願いいたします」
私が深々と頭を下げると彼は優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよシスター。しっかり直しましょう。この建物には歴史がありますからね」
彼の言葉に胸が温かくなる。確かにこの孤児院には六十年分の記憶が詰まっている。たくさんの子供たちがこの場所で育ち旅立っていった。私もその一人だった。だからこそ残したい。崩れ落ちそうな階段を慎重に上がる足音が廊下に響く。二階の大部屋に入ると子供たちが寄ってきた。
「シスター!誰か来るよ?」
「新しいお友達?」
誰か来たのだろうか。窓から外を見ると金色の髪を風になびかせながら佇む人影があった。翡翠色の瞳と慈愛に満ちた微笑み。見間違うはずもない――我が第二の母の姿だ。
「マザー!アリシアさんがいらっしゃいましたよ!」
「えぇ、すぐ行くわ」
杖を握り直し玄関へと向かう。ドアを開けた途端、甘酸っぱい林檎の香りが鼻腔をくすぐった。アリシアの手にはバスケットいっぱいの贈り物。そしてアルカポウネが器用に背負った篭には野菜と卵。可愛いエプロンドレス着た女の子が提げた瓶には蜂蜜酒。さらには――
「わあ狐ちゃんだ!」「おいでー!」
既に子供たちに囲まれて嬉しそうに尻尾を振る銀狐。彼らの歓声に包まれながら、私はアリシアの前に跪いた。
「お母さんいらっしゃい」
「もー!お母さんはやめてよ!シスター・クレア」
彼女は微笑みながら私の額を指で弾く。癖のまま呼ばせる私への照れ隠しだと知っている。
「私にとってはいつまでもお母さんですから」
「ふふっ。相変わらずね」
翡翠色の瞳が優しく細まる。そしてアリシアは真新しい漆喰塗りの壁へ視線を移した。
「順調そうね」
「ええ。もう六十年は経ちますもの。屋根の雨漏りから梁のひび割れまで……全部治すの大変です」
「まあ、そろそろ改装工事も必要だと思ってたからよかったわ」
私は遠くを懐かしむ彼女の横顔を見つめた。彼女にとってこの建物は“自分の子ども”同然なのだろう。私にとって”自分の家族”であるように。
六十年前――孤児だった私を拾ってくれたのはアリシアだった。かつて『霧の魔女堂』には毎晩十人近い子供が寝泊まりしていたのだ。布団代わりの枯れ草。パンとスープ。今思えば質素ながら質のいい食事を出してくれた。冷たくなる夜には暖炉の側に集めて眠らせてくれた。怖い夢を見た翌朝には蜂蜜入りホットミルクを。時には彼女自ら裁縫箱を取り出し傷んだ服を修繕し、時にはアルカポウネが私たちの遊び相手になってくれた。あの狭い空間がどれほど温かい居場所だったか。
この孤児院が出来て、『霧の魔女堂』の子供たちは皆ここへ移された。つまり私はこの孤児院のファーストボーンと言うわけだ。もちろんここに移されてからもアリシアは事あるごとに顔を見せてくれた。
私が成人し修道女になり、この施設の管理を任されてからは久しい。もういつお迎えが来てもおかしくない齢になったが、アリシアとアルカポウネが時折見せる遠慮のなさは昔のまま。
「今回も……お母さんが手配してくれたのよね?」
「さあね」
彼女は肩をすくめ悪戯っぽく笑う。孤児院に何か問題があると結構な額の寄付が突然舞い込んでくる。寄付元は、名のある貴族だったり、商会だったり様々だが間違いなく裏にはアリシアがいる。今回は多額の建材費用と職人雇用費が匿名で寄附されていた。
「薬草収穫のお仕事もありがとうございます。子供たちもお小遣いをもらえて嬉しそうだったわ」
「こっちこそ助かったわ。みんな良い子たちね。指示通りに綺麗に摘んできてくれたわよ」
周りでは子供たちがミーアとルナに夢中だ。ミーアが持ってきた蜂蜜の瓶を奪われまいと必死で抱え込みながら銀狐と一緒に逃げ回っている。まるで自分も子狐になったかのようなはしゃぎっぷりだ。
「あの子……ミーアちゃん?あの子は今預かっている子なの?」
「うん。そうね……弟子みたいなものかしらね」
弟子!?彼女が弟子を取るとは意外だった。彼女は過去にも多くの子供を預かっていた事があるが、そんな子供たちを彼女は大概『友達』と呼ぶのだが。
「もしかしたら、何年かぶりに人間の魔法使いが生まれるかもね」
「まあ!」
魔法使い。もはや世間では伝説的な存在。だが私にとっては常に身近な存在だった。なにせ目の前に居るのが正真正銘の魔法使いなのだから。彼女の魔法はいつも優しく暮らしの中に溶け込んでいた。病の治癒。衣類の洗浄。傷んだ作物の再生。私にとっては『不思議だけど当たり前の力』。そこに憧れや羨望の感情はなかった。
「クレア」
「はい?」
「今でも思い出せる? 私たちが初めて会ったときのこと」
「忘れません。雪の降る日でした」
泥だらけの靴。凍えていた指先。路地裏から出てきた私に彼女がかけた第一声は――
『おかえりなさい』
だった。魔法の呪文。ただ一言で胸の奥に灯りがともった瞬間を今でも鮮明に覚えている。帰る家が無かった私に、帰る場所を作ってくれたその一言がどれほど救いになったか。あれから六十年。私もまた他者にその言葉を与えられる存在になれたのかもしれない。
アルカポウネが子供たちに追われ逃げてくると、必死の形相でアリシアによじ登ると頭まで駆け上がる。重そうに首を曲げても文句一つ言わない。その様子を見て微笑ましさと同時に少し羨ましさも感じる。
「ふぅー吾輩には休息が必要じゃ!」
「じゃあ奥へ行きましょうか。お茶でも飲んで行きませんか?」
「ええ。ぜひ頂くわ」
私たちは連れだって食堂へと向かった。古い椅子に腰掛けてお茶を啜る間も、ルナを追いかける子供たちの楽しげな声が絶えることはなかった。アリシアの視線がその光景を慈しむように見守る。
「素敵な孤児院になったわね」
「お母さんのおかげですよ」
「いいえ。皆のおかげ」
彼女の瞳に宿るのは、誇らしさと少しの淋しさ。きっと昔のように毎晩一緒に寝る子供たちはいなくなってしまった寂しさだろう。
ーーー
やれやれ、ガキどもの相手は疲れるのぉ。ようやく頭から降りられたと思いきや、今度は膝の上に座れとミーアが喚く始末。子供というのはよくわからぬ生き物じゃ。だが――あの修道女クレアがアリシアを"お母さん"と呼ぶ光景は悪くなかった。
「ふぅー……あれから六十年か」
湯気の立つ紅茶を啜りながらアリシアが感慨深げに呟く。王都も六十年前はずっと治安が悪かった。下町などスラム同然で、夜歩けば強盗に出くわすのが当たり前。親を亡くした子供など掃いて捨てるほどおった。そんな子供たち中でも特に酷い状態の子供たちを一人一人拾い集め始めたのがアリシアじゃ。最初は『霧の魔女堂』の狭い部屋に毛布を敷いただけじゃったが、1年、2年と経つうちに、いつの間にやら十人近く集まってしまったのだ。”これはまずい”と悟ったアリシアが、「借りを返してもらった」と言って土地を用意して建てたのがこの孤児院じゃ。その後も事あるごとに支援金を”匿名”で寄付し続けている。まったく律儀というか馬鹿正直というか……。
「吾輩には分からん。なぜそこまで世話を焼く?」
「焼いているんじゃないわ。魔法よ」
「魔法?」
「うん。笑顔にする魔法。私は魔法使いだからね」
魔法か。たしかに魔法だったのかもしれん。この施設の建設をきっかけに治安回復の気運は高まった。街全体の犯罪率は大幅に低下した。スラムは整備され道は綺麗になった。荒んだ心を持つ子らも健全な大人へと成長していった。まさに長期計画による社会改革じゃな。アリシアの魔法は決して派手なものではない。炎も雷も使わぬ。だが今こうして子供たちが笑っている現実がある。それは最も強い魔法なのだろう。
クレアが皿にミルクを注いでくれた。
「アルはミルクの方が良かったわよね」
「ふん、ミルク如きで吾輩を懐柔できると思うな」
「あら?アル、尻尾が揺れてるわよ」
「……疲れておるのじゃ。痙攣じゃ」
「ふふ」
ミルクを啜りながら思う。この騒がしい日常も悪くないものじゃ。アリシアは結局いつも通りの柔らかな微笑みを浮かべ、窓の外で遊ぶ子供たちを見つめている。その横顔に滲む哀愁と満足を眺めながら、吾輩も静かに瞳を閉じた。




