農夫と薬草と土の力(前)
朝霧が田園にかかる時刻。小鳥のさえずりが聞こえはじめ、農夫たちは一日の始まりを告げます。私——メリッサも、祖父ヨゼフとともに畑仕事へ向かっていました。
「今日も忙しくなりそうだわ。小麦畑の除草と畝立て。それに西の豆畑にも手を入れないと……」
藁帽子を目深にかぶりながらつぶやくと、背後のお爺ちゃんが杖をつきながら笑った。
「メリッサは頼りになるのぉ。わしが耄碌してもお前がいれば安心だわい」
今年70になるお爺ちゃんは、それでも朝の冷気をものともせずに矍鑠としています。
村はずれの荒地から伸びる一本道を行くと、広々とした農地が広がります。うちの畑は王都郊外に位置しており城壁内からも眺めることができ、北区の大麦畑の先には整然と並んだ小麦畑。さらに東に伸びる細道の先には飼料用の豆畑が見えてきました。これら全てが我が家の農地となります。
「おや? あれは誰だべ?」
不意にお爺ちゃんが立ち立ち止まりました。杖の先が指すのは畑の端。そこに見慣れない人影。
一人は長い金髪を風になびかせた女性。二人目は可愛いエプロンドレスに身を包んだ小さな少女。そして大きな黒猫と小さな銀狐が座っている。
彼らがいるのは雑草が茂る一帯だった。私たちの畑からほんの少し離れた土地。普通ならすぐに開墾され農地として利用されそうな好立地。それなのに誰も手を付けない不思議な区画。それが『霧の魔女堂』の所有地と知ったのは、まさにこの時だったのです。
金髪の女性がこちらに気が付くと小さく手を振りました。私は慌てて帽子を脱いで挨拶を返します。お爺ちゃんは杖を握り直してゆっくり近づいて行きました。
「こんにちは。久しぶりね。ヨゼフさん」
「アリシアさんは相変わらず変わらんのー。さては何か頼みごとかね?」
「ええ。ちょっと急ぎでお願いしたいことがあって」
彼女の顔にはちょっと緊張感が漂っているように見ました。その横でエプロンドレスの少女は首を傾げていますが。
「急いで薬草を育てる必要が出てきたの。悪いけど手を貸してもらえるかしら?」
「そりゃ構わんぞ。そういう契約であの土地を見守ってきたんだからのう」
なんでも、あの土地は『霧の魔女堂』からの依頼で私たちの家族が管理してきたらしいのです。まあ、管理と言っても増えすぎた雑草を狩る程度のものだったそうだが。
「あなたはお孫さん?よろしくね」
「あ、はい!メリッサといいます。よろしくお願いします」
私はぺこりと頭を下げた。顔を上げて正面から見たアリシアさんはとても美しかった。長い金髪は朝日に照らされてキラキラと輝いています。翡翠色の瞳は吸い込まれそうな深さを持っていました。
「それじゃあ作業を始めましょう」
「やれやれ、それにしても面倒じゃのぉ」
それを話したのは猫でした!黒猫が流暢に喋っています!
「あ、紹介しとくわ。こっちの猫は私の使い魔でアルカポウネ」
「吾輩のことは好きに呼んでくれ。まあアルでいいじゃろ」
アリシアさんの隣に並んだ黒猫は少しだけ皮肉っぽく笑った気がしました。驚きつつも私は頷く。使い魔なんて、本当にいるんだ……。
「あっちで遊んでいるのがミーア。まあ……私の弟子みたいなものかしらね」
「こんにちわ!ミーアです!」
小さな女の子はお辞儀をしたあと銀狐と一緒に畑の周りを駆け回っています。とても愛らしい笑顔をしています。
「さて、まずこの草を何とかしなきゃね」
「あ、草刈り鎌持ってきましょうか?」
「今回は時間ないから別な方法を使いましょう。アル。力を貸してもらうわよ」
「やれやれ猫使いが荒いのう」
アリシアさんは、アルさんと連れ立って草木が茂る土地に向かっていきます。するとアルさんの足元から淡い光が溢れ始め……。土に沈み込むような魔法陣が出現し緑色の紋様が浮かび上がりました。
「……《沈黙の安息》(シレンス・リプレイスメント)」
唱えると同時に魔法陣が強く輝くと、一面に繁茂していた草が茶色に変わり朽ち果てていきました。まるで時間が一気に加速したかのように。
「こりゃ……えらいこっちゃ……」
「魔法ってすごいんですね……」
父が鍬を握りしめたまま固まっています。私も言葉を失いました。これが魔法というものなのですか……。
「よしよし、いい感じね」
「やれやれ疲れたわぃ。もうちょっと封印を開放してくれても良いのではないか?」
アリシアさんは「ごめんごめん」と言いながらも全然悪くなさそうに笑っています。アルさんは不満げに尻尾を揺らしていました。
「よし、これだけ乾いたなら大丈夫ね。次はこの枯れた草に火をつけましょう」
と言いつつ取り出したのは、火付けの魔道具でした。
「なんじゃ魔法使いなら、そこは派手な炎魔法とか使うところじゃろ」
「魔力を温存したいのよ。みんなで手分けして火を点けてー」
アリシアさんと一緒に枯草に火を点けていきます。パチパチと薪を焚くような音がして黒煙が上がる。これはただ枯草を除去しただけじゃなく、土壌中の有害成分が焼き殺され浄化されるらしいです。
「よし、これを耕さなきゃね。みんな呼んできてもらえる?」
「メリッサ!父ちゃんと母ちゃん呼んで来てくれ!」
「はい!」
気づいたら家族全員で働き始めました。お爺ちゃんは他の家にも声をかけてくれたようで、気がつけば近所の人たちが集まって来ています。これならあっという間に終わるはずです。
ーーー
全員で協力して土地を耕した結果。思った以上に短時間で終わりました。汗を拭いながら休憩しているとアリシアさんがやってきました。懐から取り出したのは小さな麻袋。中身は見慣れぬ小さな種子が入っています。
「これが薬草の種ね。全部撒くから手伝ってちょうだい」
「はーい!皆さんお願いしまーす」
「あ、あとこっちも準備しないとね。ミーアあれ持ってきて」
「はーい!」
ミーアちゃんが持ってきたのは透明な小瓶。陽の光に透かすと琥珀色の液体が見えます。
「これなんですか?」
私が尋ねるとミーアは胸を張って答えました。
「うんとね、植物の元気になるお薬なんだよ!私が作ったの!!」
「ミーアちゃんが作ったんですか!すごいですね!」
「えへへ……アリシアお姉ちゃんと一緒に作ったの!」
嬉しそうに話す様子を見ていると本当に微笑ましい気持ちになります。
「撒いた後に、2、3滴垂らすだけでいいわ。あんまり多すぎるとかえって発育を阻害しちゃうの」
近所の人達と力を合わせて種を撒く。草が茫々に生えていた場所は、今や整地され清潔感すら感じられるようになりました。黒い土の上を皆で歩いて行く。アリシアさんは魔石をたくさん持ち出してきました。赤黒く光る結晶がキラキラと輝いています。
「さて、本番ね」
アリシアさんは畑の中央に立ち瞑想するように目を閉じる。アリシアさんの髪が風もないのにゆらゆらと揺れる。次第に周囲の空気が変化していくようでした。
「大地に宿る生命よ 甦れ 豊かな芽吹きを 我等に与え給え」
呪文と同時に魔法陣が浮かび上がり地面が振動した。振動は微かなものだったけれど確かに感じられました。土の粒子がざわめくような感覚が浮かび上がります。
「……《豊饒の恵み》(ファー・ヴェスティリア)」
静かに呪文が紡がれる。途端に地面が波打つように光った。眩い光が辺りを包み込み大地が脈打つように震える。
「おお!すごい!もう芽吹いてるぞ!」
「まさかこれほどの速さで育つとは!」
皆がどよめく中で小さな芽が次々と姿を見せました。昼過ぎにはまだ土から顔を出しているだけだったものが夕方には若葉を広げ始めています。
「よしよし、この調子なら三日後には収穫できそうね」
アリシアさんは満足げに頷います。お爺ちゃんと父は口を開けたまま茫然としていて、そんな二人を見て母が笑っていました。
ーーー
次の日も農作業を手伝いながら薬草畑の成長を見守りました。夜露に濡れた葉っぱは瑞々しく宝石のように輝いています。香りを嗅ぐと特有の爽やかな香りが鼻腔を刺激します。
「昨日までは小さな双葉だったのに……」
三日目を迎える頃には完全に成熟した薬草が一面に広がっていました。葉は濃い緑色に輝き茎は太く力強い。数日前までの荒れ地だったとは思えないほどです。
畑に近づくと賑やかな声が聞こえてきました。畑には色んな人たちが集まっています。孤児院の子供たちでしょうか。院長先生らしき人が指示を出し、年齢の高い子供たちがなにやら作業しています。さらには冒険者らしい人々も加わっています。
「はーい。みなさーん。薬草の採取をお願いしまーす。この薬草は根も使いますので傷つけないように丁寧に掘り起こしてー」
アリシアさんが手際よく指導をしています。ミーアちゃんも小さい体で頑張って働いて……どちらかといえば楽しんで遊んでいるようにすら見える。元気な子だなー。その周りを銀色の子狐がちょこちょこと駆け回っています。
午後になると王都からの荷馬車が到着しました。積まれていく薬草を見て達成感が込み上げてきます。あれだけあった薬草もあっという間に無くなり運び出されてしまう。この薬草はきっとどこかで必要な人に届くんだろうな……。
アリシアさんは、冒険者風の人と何やら真剣な表情で話していました。冒険者風の人は頷くと、まるで宝物を運び出すように慎重に移動させて行ったのです。
「それにしても、こんな便利な魔法があるなら、普段から畑に使えばいいのに」
「無理じゃわい。そもそもこの魔法は消耗が激しいからのぉ」
私が独り言で呟いた言葉に、アルさんが答えてくれました。
「消耗の割に得られるものは少ない。それよりも地道に土を耕して肥料を与えていく方がずっと安定するのじゃ。魔法は一時的な解決策に過ぎないからのぉ」
難しいことを言われましたが、なんとなく理解できた気がします。つまり魔法は万能じゃないということなのかな。手をかければかけるほど作物は応えてくれる。それが農業なのだと思いました。




