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下町の魔法屋『霧の魔女堂』  作者: あどん


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猫と魔法と指輪の行方(前)

ふむ……今日もまた、朝日が昇る前に目覚めた。我が身に宿る悪魔としての血が、太陽を忌避せよと囁くからじゃ。もっとも今の我はただの黒猫ゆえ、日の光を浴びようが痛痒を感じることもないのだが。


朝露に濡れた庭石に座り、吾輩は長い尻尾をゆっくりと左右に揺らした。かつて無数の悪魔たちを従えていた右腕は、今はかわいらしい前足となってしまった。爪を隠せぬ程度に伸ばし、時折地面を掻けば、その感触は実に虚しいものだ。


あの忌まわしきエルフによって封印される以前は、一つ指を鳴らせば百の魂を引き裂けたのじゃ。『死霊の主』として冥界の扉を開き、幾万の亡者を率いて人間どもを戦慄させたものよ


遠い記憶に耽るうちに、飼い主のアリシアが階段を下りてくる足音が聞こえた。ああ、厄介な時間じゃ。彼女が窓を開けると同時に、吾輩は威厳たっぷりに体を膨らませ、「ニャーン」と甘ったるい声を発する羽目に陥るのだ。


階段を下りる足音が止まり、キッチンの窓が開かれた。


「アル。おはよう」


アリシアは、ほとんどの人が見分けのつかないような微妙の微笑みを浮かべながらそう呼びかけた。アルカポウネ――それが今の我の名だ。「墓王」も「魂狩り」も遥か彼方へ消え去った、ちっぽけな猫の愛称よ。


「ふん……ただの猫に挨拶するとはお前も物好きよの」

「ただの猫は喋ったりしないよ」


吾輩をこの姿に変えてしまった張本人のアリシアが、そんなことを言う。金色の髪が朝日に照らされ眩しく輝き、その瞳は若草の季節に生える新芽のように鮮やかな翡翠色。細く高い鼻筋と優美な頬の輪郭は、まさにエルフの典型的な美貌じゃ。そして何より、頭頂部から突き出た長い二つの耳が、その証明であった。彼女の背後にある古時計を一瞥すれば、その年輪の深さが覗ける。かれこれ千年を悠に超える歳月を重ねてきたのであろう。


アリシアが窓際に置いた皿からミルクを舐める間に、我は店舗の方へ視線を向けた。小さな魔法屋「霧の魔女堂」。看板には不気味な笑顔の猫の絵が描かれており、それは明らかに我をモデルとしたものじゃ。腹立たしい。


ふん。かつて魔界大公爵とまで謳われた吾輩が、こうして窓辺でミルクを啜る姿など、地獄の底に沈んだ同胞どもが見たら泡を吹いて卒倒するであろうよ。ましてや、その元凶たるエルフの小娘……いや、見た目こそ少女だが、その実、千年を超える古狐めが主人とあっては、墓場の土に還る寸前の爺婆だって絶句しようぞ。


「さて、今日はどんな厄介ごとが舞い込むやら……」


アリシアは魔法屋『霧の魔女堂』の看板娘にして店主だ。その美しい容姿と穏やかな物腰は、近所のオヤジ衆からは女神のごとく崇められておる。しかし実態は、来る者は拒まず、去る者は追わずの自由気ままな生活を送る変わり者じゃ。エルフらしからぬ世俗的な暮らしと言えよう。


アリシアが店を開けるのは、いつも朝の三番目の鐘が鳴る頃じゃ。とはいえ、別に時間を決めているわけでもない。単なる習慣に過ぎぬ。気分が乗れば早朝から扉を開け、雨模様なら一日中閉じたまま……そんな適当な商売じゃ。


「いらっしゃいませ」


しかし、今日は朝から客が来た。市場帰りと思しきエプロン姿の中年女じゃ。抱えた紙袋からは林檎が飛び出しておる。


「アリシアちゃん、ちょっと相談があるんだけどね……」

「はい、何でしょう?」


女はキョロキョロと周囲を見回すと、少し声を潜めて言った。


「うちの息子が最近おかしなものを拾ってきてねぇ。古臭い箱なんだけど、開けてみると赤黒い液体が入ったガラス瓶がいくつも出てきたのよ。そしたら急に熱を出して寝込んじまって……。これ、何か良くないモノじゃないかと思って」

「ふむ……一度拝見しましょうか」


アリシアは眉一つ動かさず、淡々と応じる。吾輩は心の中で舌打ちした。ほれ見ろ、今日もまた始まったわい。こんな調子で店に持ち込まれるのは、曰く付きの品ばかりじゃ。呪われた人形、怪しげな巻物、深夜にうめき声を上げる壺……。そのほとんどが紛い物。怪しい物ではない。『屍者の残影と思えば風に揺れる霧草葉』恐ろしいと思うものは実際は取るに足らないものばかり。時には本当に危険な代物もあるのだが……。


「アルはどう思う?」


アリシアが傍らの吾輩に尋ねてきた。吾輩はソファの上でくるりと丸くなりながら言い放つ。


「それはただの風邪じゃ。林檎でも食わせて寝かせておけば治る」


ぷい、とそっぽを向くが、アリシアは苦笑するだけ。まったく、この娘は分かっていながら聞いてくるのじゃからタチが悪い。


「お薬出しておきますよ。うちは薬草も扱っていますから」


アリシアは棚からいくつかの香草の束を取り出す。それらは確かに魔力を持つが、せいぜいが安眠効果や疲労回復といった程度の弱いものばかり。かつて冥府の門を自在に操った魔術師の末裔とは思えぬ慎ましさよ。


中年女に薬を渡してやると、入れ替わりに別の客がやってきた。今度は青ざめた顔をした若い男じゃ。


「あの、助けてください! 庭に変な花が咲いたんです! 触ったら燃え上がるような痛みが走って……!」

「それは大変!庭に行きましょう!」


アリシアは即答し、エプロンを軽く直すと外へ出て行った。その後ろ姿を見送りながら、吾輩は深い溜息をつく。まったく、この店に高尚な魔法使いなど存在せぬ。あるのは困った人々と、それを笑顔で受け入れる変わり者のエルフ、そして役立たずの黒猫一匹じゃ。


それが日常。買い物の手伝い。物探し。庭木の剪定。魔道具の鑑定。ダンジョン探索の助っ人などなど。魔法屋とは名ばかりでやっていることは便利屋と何ら変わらぬ。その仕事は多岐にわたり、またその性質も千差万別。金にならぬ仕事の方が多い。

ここは下町。貴族ではない一般市民が住んでいる地域。だからからかお客もどこか気安い。先週来た老人なんかはこう言った。


「実は孫の誕生日なんだが、なにか面白いものはないかな?」


まったく……魔法屋になにを買いに来てるのやら。


「でしたらこれなんてどうです?」


アリシアが棚の奥から引っ張り出してきたのは一本の短い杖。精巧な彫刻こそ施されていないものの、握り心地の良さそうな木製の柄に小さな水晶玉が埋め込まれていた。


「ほう、魔法の道具かい?」

「はい【花咲くステッキ】といいます。振り回すだけで空中から花弁が降ってくるんです」


試しにアリシアが軽く振ると、ピンクや黄色の花びらがパッと散った。いかにも子供騙し……と思いきや、吾輩の目は誤魔化せぬ。あれは純粋な風魔法と物体生成の合成魔法。本来なら高位魔術師でも苦労する複合術式じゃ。それをあんな簡素な装置に詰め込んだ手腕……なるほど見事と言うべきか。


「へぇ。綺麗だねぇ」

「ね、お孫さんも喜びますよ」

「んじゃこれもらおうかね」


銀貨1枚をせしめて、にひひと笑うアリシアだが、それは立派な魔道具。しかも、そんな魔道具売ってないから自前で作ったものじゃろ。銀貨1枚じゃ割に合わないと思うのだが、本人は気にしていないようじゃ。


「おいアリシア。あの【花咲くステッキ】、お主の自作であろう? 銀貨一枚とはあまりに安すぎるのではないか?」

「そうだね」


アリシアはさらりと言い返す。


「けど材料費はほとんどかかってないんだよ。木材は裏山で採ってきたし水晶玉は屑石を使ったし。それに……」

「それに?」

「喜んでくれたからいいんじゃない?」


このエルフは相変わらずじゃ。

……まあよい。銭欲がなさそうに見えるが、貰えるところからは貰う。意外としっかりしているところもあるのだ。


「ところでアル。今日の夕飯は何がいい?」

「肉じゃ」


吾輩は迷わず答えた。猫の姿ではあるが食欲だけは健在なのだから仕方あるまい。


「ますます太っちゃうわよ」

「吾輩をデブ猫みたいに言うでない!」

「失礼しました、アルカポウネさま」


アリシアは笑いながら貯蔵庫の方へ向かった。その背中を見つめながら吾輩は考える。かつて冥府の帝王だった者がいまや飼い猫同然の日々。奇妙な因果もあったものよ。


窓の外では街路樹の葉擦れが微かな音を立てている。今日もまた、平凡な一日が始まるのであった。



ーーー




店の前に立派な馬車が停まったのを見て吾輩は片眉を上げた。漆黒の車体に金の装飾。御者は黒い制服に身を包み、直立不動で待機している。


「ほう……これは珍しい」


吾輩が窓枠に飛び乗り眺めていると、扉が開き、初老の紳士が姿を現した。彼は初老と言っても背筋はピンと伸び、歩みにも乱れがない。頭頂部はやや薄くなっているが、口元を覆う白い髭は丁寧に整えられていた。身につけた燕尾服は明らかに高級品で、胸ポケットには家紋と思しきブローチが輝いている。


「いらっしゃいま……」


アリシアの言葉が途中で切れた。彼女は一瞬だけ目を見開き、微かに首を傾げた。その表情の変化はあまりに小さすぎて、他の誰にも気づかれなかっただろう。


紳士は恭しく帽子を取り、「失礼します」と低く響く声で告げた。店の中に入ると、紳士は少し困惑したように眉をひそめた。確かに奇妙じゃろう。壁にいくつかの魔道具がぶら下がっているだけで、商品棚は空。カウンターの奥には古びた本棚があり、大量の本が並んでいる。そこだけが唯一の「魔法屋」らしい雰囲気を醸し出している。しかし肝心の品物がない。


アリシアはいつものように微笑みながらも、その瞳は鋭く紳士を観察していた。


「グレイン伯爵家の執事が何の御用ですか?」


初老の紳士が口を開くよりも早く、アリシアが流暢に言葉を紡いだ。


「なぜそうだと?」


彼の問いにはわずかな動揺が滲んでいた。まるで予期せぬ洞察に驚いたように。


「簡単です」


アリシアは微笑みながら答えた。


「あなたの馬車に紋章が刻まれています。あれは貴族の紋章ですね。特にあの特徴的な獅子のモチーフ……グレイン伯爵家の紋章。もう百年以上前から変わっていないはず」


紳士は眉を寄せた。


「よくご存じですな……」


アリシアは肩を竦める。


「それにあなたは伯爵本人ではないでしょう?紋章入りの馬車を使える使用人は限られている。服装や立ち居振る舞いから見て、長年の勤務で鍛えられた風格。おそらく執事長クラス……違いますか?」


「全く……」


紳士は感嘆したようにため息をついた。


「なるほど……。失礼ながらお若いので侮っていたようです」


紳士は静かに帽子を脱ぎ、胸元で抱えた。


「こう見えてもあなたが生まれる前から生きているんですけどね」


そう言うとエルフの特徴ともいえる長い耳をピンと立てた。白く透き通るような肌と翡翠色の瞳が、紳士の驚愕を増幅させる。


「エルフ……?」


紳士は怪訝な顔をアリシアに向ける。まあ、そうなるだろう。今の時代、魔法使いも珍しいが、エルフはさらに珍しい。普通は森の中に住んでいることが多いのじゃ。それがこんな下町の寂れた店にいるのだから。


「気にしなくていいですよ。そういう反応には慣れています」


アリシアはニヤニヤしたまま「どうぞ」と執事を椅子へと誘導した。テーブルを挟んだ向かい側にはもう一脚の椅子。アリシアは自身も座り、膝の上で両手を組んだ。


「それで……グレイン伯爵家の執事殿が何の御用件でしょうか?私はアリシア。この店の店主です。まあ従業員はおりませんが」

「申し遅れました。私はグレイン伯爵家筆頭執事を務めております、マッケンジーと申します。以後お見知りおきを」


マッケンジーと名乗る執事が深々と頭を下げた。


「こちらこそ。グレイン伯爵家の筆頭執事様だったとは」


言葉の端々に好奇心が滲んでいる。上流貴族からの訪問者というのは、この店にとって滅多にないことなのだ。


「時に、マッケンジー殿。あなたがここへ来た理由は何でしょう? わが店は……ご覧の通り質素ですが」


彼女は店内を見回す。がらんとした陳列棚。壁に掛けられた奇妙な魔法具。あるいは単なるガラクタ。


「わたくしは魔法屋と伺っておりますが」


マッケンジーは慎重に言葉を選んだ。


「確かに外観からは想像できませんな」

「ええ、そうでしょう」


アリシアは肩をすくめた。


「ですから皆さん最初は驚かれます。けれど……」


彼女は手品師のように虚空から小さな銀の砂時計を取り出し、マッケンジーの前に置いた。


「このように、見えないものが見えたり。失われたものが見つかったり。普通では解決できない問題が解けたりするのです」


砂時計を逆さまにすると、中の砂が不思議な虹色に輝きながら落ち始めた。


「ほう、素晴らしい……」


マッケンジーはため息混じりに言った。砂粒が落下するたびに周囲の空気が柔らかく震えているのが分かる。


「それで、どのようなお悩みでしょうか?」


アリシアが促すと、マッケンジーはようやく本題に入った。


「実は……物探しをお願いしたく参りました」

「物探しですか」


アリシアの表情が一瞬曇った。魔法屋における物探しは決して珍しくない。むしろ「依頼」という点では最も多い種類の一つかもしれない。しかし伯爵家からの依頼となると事情が異なる。


「物探しは私の得意とするところです」


そう言うとマッケンジーはほっと胸を撫で下ろした。どうやら魔法屋に依頼していいかを心配していたらしい。まあ魔法屋と言ってるだけでやってることは便利屋だからな。名前を変えればいいのに。


「よかった。ではお願いしたいのは指輪の捜索です」

「指輪?どんなものです?」


アリシアはカウンター越しに身を乗り出した。彼女の声には職業柄の好奇心が滲んでいる。


「伯爵夫人の指輪の一つです。特に珍しい意匠を施したものではないのですが──」


マッケンジーは言葉を選ぶように少し口を閉じた。執事としての慎重さが垣間見える。アリシアは膝の上で組んだ手を解き、微かに頷いて続きを促した。


「夫人のお気に入りのものだったらしく」


そこで言葉が途切れた。紳士の眉間に再び深い皺が刻まれる。何やら言いづらい事情があるらしい。


「貴重なものだったのですか?」

「いえ……似たようなものは他にもお持ちなので、その指輪に拘る理由は無いんですが」

「ふむ?夫人には協力いただけますか?」

「それはもちろん。ただ伯爵さまには……」

「秘密にしたいと」

「お願いいたします」


夫人の我儘で大事になるのが嫌なのか?まあ金払いは良い客のようだし請け負ってもよいのではないか。


「わかりました。では詳細について聞かせてください」

「それが実は、直接お会いになりたいと仰っているのです。伯爵夫人が、あなたに」

「夫人が?」


アリシアの声は平然としていたが、店内の空気がわずかに緊張した。吾輩の耳がピンと立つ。どうやら面白くなってきたようじゃな。


「左様でございます。三日後の午後二時頃ならば時間が取れると」


アリシアは店の入口を見やり、そしてカウンター上の小さな砂時計に視線を落とした。その砂はすでにすべて下に落ち切り、上部は空っぽだった。


「……分かりました」


彼女はゆっくりと立ち上がった。


「ではその時間にお伺いします」

「誠にありがとうございます」


マッケンジーは深々と頭を下げると「これにて失礼いたします」と言って去っていった。



ーーー



店を出て行くマッケンジーの後ろ姿を見送りながら、アリシアは砂時計を逆さまにした。琥珀色の砂が静かに降り注ぐのを見つめながら、彼女は思案顔でつぶやいた。


「伯爵夫人が魔法屋と面会するなんて……珍しいことだね」

「確かにのぉ」


吾輩も同意せざるを得ない。


「通常であれば執事を通して結果のみ聞き届けるべきであろうが」

「それだけ真剣ってことかしらね」


アリシアはカウンターの縁に腰かけた。脚をぶらぶらさせる仕草は子供じみているのに、その眼差しは数百年の時を生き抜いた者の深い洞察を湛えている。


「マッケンジー殿の様子を見てみなさいよ。言葉を選びながらも必死さが滲み出ていた。指輪以上の何かが絡んでいるに違いないわ」

「指輪以上の何かか……」


アリシアは吾輩の顎を撫でる。


「たしかにのぉ。そうでなければ伯爵夫人がわざわざ魔法屋如きに会うはずがないじゃろな」

「『魔法屋如き』とは失礼ね」

「普通ならば下働きに任せるか、警備の者に探させるのが道理じゃろうに」

「だからこそ怪しいの」


アリシアがくすりと笑う。


「まさか盗難事件とか?」

「単純な盗難事件なら、魔法屋に頼まないんじゃない?」

「それもそうじゃな」


吾輩は尻尾をぱたぱたと床に叩きつけた。


「では一体どういう風の吹き回しであろうか」

「さあ? でも面白いでしょう?」


アリシアの翡翠色の瞳が妖しく光る。彼女が最も好むのはこうした不可解な謎なのじゃ。


「アルはどう思うの?」

「知らん! 我はただの猫じゃからのぉ!」

「まあ三日後の茶会で全て明らかになるでしょうね……ふふ、退屈せずに済みそうね」

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