本能寺の変、そして…
父、明智光秀は静けさの中に炎を抱く人だった。
いつも穏やかな笑みを浮かべ、さざなみのような声で理性的に話す。
主君にも他人にも区別はない。
威圧も怒号もなく、武人でありながら理で軍を動かし、
この国の行く末のために尽くす背中。
その背に寄り添う母への愛は、決して揺らがなかった。
怒りを見せぬ父が、ただ一度だけ声を荒げたことがある。
『どんな顔になろうと、わたしの妻は——彼女だけです』
病で顔に疱瘡の跡を残した母に対し、婚姻を断らず妻に迎えた。
穏やかな父の中に宿る、静かな激情。
醜くなってもひるまない愛の強さ。
その美しさが、静かに玉の中にも宿った。
忠興の息を奪うような炎の愛。
父の湖の底に沈むような深い愛。
玉はその両方の狭間で、自分の進む道を探した。
——そんな父が、謀反を起こした。
主君、織田信長を本能寺で討ったのだ。
優しい父の横顔が、鬼のように変わったのだろうか。
玉には信じられなかった。
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忠興の決断は早かった。
「玉とは離縁せぬ。そして、秀吉にも決して差し出しはせぬ」
戦の支度を命じ、甲冑の金属音が冷たく響く。
「あれは——私のものだ」
家の存続を賭けた言葉としては、あまりに危うい。
家臣たちは恐れて口を閉ざした。
腰の太刀を鳴らし、忠興は戦場へ赴くよりも先に妻のもとへ向かった。
玉は狼狽した。
その武装は自衛のためか、それとも父を討つためか。
いずれにしても彼は、人を殺す準備を終えていた。
「玉…」
顎を指ですくい、忠興は甘い声で顔を寄せた。
「忠興様…?」
美しい妻の顔を見つめながら、忠興は怯えを感じた。
宝石のようだと思ったその顔も、髪も、香も——何一つ変わらない。
「…私の言うことが聞けるな? 玉。私はそなたを守りたい。生きてここを出るのだ」
「生きて…?」
畳に押し倒し、別れの前の焦燥に任せて衣を乱す。
長年かけて躾けた体は、手が触れるだけで理性を飛ばす。
玉の震えに、忠興の手は止まらなかった。
「そなたを他の者のものにはさせぬ。私の場所に隠してやろう」
その声も目も、すべてが支配に染まっていた。
(許さぬ…)
「そなたを汚していいのは私だけだ。辱めを受けさせるくらいなら、全て殺してやる」
忠興の目は、殺戮や破壊を恐れず、玉への歪んだ欲で燃えた。
「お前も。私も。この世も——すべて、だ」
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穏やかな父の愛とは異なる。
身を焼き尽くす、夫の燃える愛の激しさ。
身体を炎に包まれながら、玉はその愛を受け入れるしかなかった。
やがて玉は丹後の山奥の庵に幽閉された。
忠興の狂気は、妻を捨てることではなく、
二年という歳月、檻の中に「守る」ことだった。
別れの夜、忠興は力の限り玉を抱いた。
また声が聞こえる。
天の声か、悪鬼の誘いか。
地の底から這うような唸りが頭を支配する。
細い腕を掴み、白い肌を壊して刻み込む。
玉の躍る身体を、忠興は焼きつけるように見つめた。
薄い氷壁の上を行く、忠興の采配に声が嘲笑う。
——一人の女に狂い、愛で何も見えなくなっている。
この家も、この世も、全て壊しても構わなかった。
玉は身体を貫く甘い痛みに飲まれ、ひたすらに堕ちていく。
それは初夜で忠興が感じた冷たい閨の底と同じ場所。
父の湖の底に宿した愛と似ていながら、穏やかさの欠片もない。
快楽と虚像と、囲われる甘い疼きが頭を伝染させる。
真っ白になっていく中で思った。
——この愛はきっと、すべてを焼き尽くし、飲み込み、何も残さない。
(…ああ、この人も、私も。本当の意味では交われない)
決して交差することはない。
焼け跡に残るのはきっと、灰だけだ。
――――貴方と、私の…。




